規則的に繰り返される呼吸に、気が付けば頬が緩む。
閉じた瞼の先、綺麗に並ぶまつげが頬に落とす影だとか。
さらさらの肌、柔らかな髪の毛、無防備に下がった眉。
今、目の前にいてくれる、彼女のすべてが愛おしい、と思う。



大切だ、と、思う。






【うまれたての温度】






こち、こち、と、音を鳴らす時計に目をやると、“4”を、わずかに回る短針が見えた。
夜と朝が同居するこの時間はほんの一瞬だけれど、でも、感覚的にはどこまでも続いているようで。

なぜだろう、例えば。

窓の外の寒さと体温とが溶け合ったぬるい温度だとか、夜に洗われた今日のための新しい空気の澄んだ匂い、とか。
カーテンの向こうがわ、かすかにもれる白く染まりかけた光、さわさわと音を立てる木、草、花。
朝でも、昼でも夜でもないこの時間にだけ、この部屋はまるで異空間になる。
終わりが来るものなんかじゃない、もっと濃い、一つの確かな空間に。

いつもなら、自分ひとりで完結する思考に沈んでいくこの時間。
だけど、今日は違う。
オレよりも浅い呼吸をする体温が、隣にある。
ふと、視線をやって、頬を撫でれば。
その体温はくすぐったそうに身をよじって、オレの腕の中で丸まった。

昨日、オレたちは初めて体を繋げた。
それは、果てしなく広く、長く。
それこそ、どこまでも続いているような、完結した世界、だった。






まだ、浅い眠りの中のオレの思考に、ふわり、と降りてくる一つの記憶。
それは、昨晩の出来事。

「そろそろ時間だな。送ってく」
「……え」
「ん? なんだ?」
「……まだ、大丈夫だよ。もうちょっといる」
「なーに言ってんだ。もう遅い。ほれ、早く準備すれ」

ここ最近、帰り間際に必ずするやりとり。始まりは、いつだったっけ。
もう、たくさんの日常に埋もれてしまって、探すのも困難だけど、やっぱり昨日もそうだった。
電車で帰るはずだった彼女は気づけば終電を逃していて、じゃあ送ってやる、そう伝えれば、
寒いからもうちょっと、あれが終わるまでこれのキリがつくまで、と、何かと口実を作ってコタツから出るのを渋って。

「じゃあ、洗い物してから。コップ洗ったら、帰るから」
「もう、12時回んぞ?」
「大丈夫だよ、5分くらい。変わらないもん」
「……ん」

あと10分、あと5分と、もう何分経っただろう。そう思うのに、口には出せなかった。
気づいていたから。その意味のない言い訳の意味に。
彼女は笑いながら、だけど必死にオレに伝えていたことに、気づいていたから。

  一緒にいたい、足りない。
  朝でも、昼でも―――夜、でも。
  オレと一緒にいたいと、不安を隠しながら、はそうやって笑って。

台所からオレを振り返る彼女の表情。
口の端にきゅっと力を入れる、緊張しているときの、彼女の癖。
笑って、かわせばいいことは、分かっていた。
でも。
それが限界なんだってことも、もう、とっくに分かっていた。

「……

伸ばした手を、止められなかった。
抱きしめたいって衝動も、キスしたい、欲求も。

「ん?」
「もう一回だけ、言うぞ? 送る。だから、帰れ」

妙な、牽制だってもう、見掛け倒し。
止められない。
もうずっと、坂道のてっぺんでつま先にぶつかった小石のように、転がって。
落ちて、落ちて。

「かっ、帰りたくないって、言ってる……のに、どうしてそうやって子ども扱いするの……!」

傾斜の鋭さに拍車がかかれば、勢いは増すだけ。
止められなかったのは、愛おしさ。尽きない欲求。
落ちていく先にあるのは、きっと、ひとりよがりな恋と、頼りない、生まれたての愛情。

背中から、髪の毛に手を移動して。
唇から温度を分け合うと、もう、あとは摩擦なんてない。
溶けていく、ゆるゆると、熱く。熱く。






抱いたら、何かが変わると思った。
余裕のなくなったオレを、が好きでいてくれる自信なんてなかったし、
転げ落ちてくこの速度の中、上手く愛することなんて、できっこない、し。

「……今日はもう、送れねえよ」
「しつこい。送らなくて、いい。元春、私、もう高校生じゃないよ」
「ああ、知ってる」
「初めて会ったときの元春より、年上なんだよ……」
「分かってるよ、んなこと」

子どもでいられたら、と、オレはきっとずっと、そう思っていた。
欲しいとずっと思っていたけれど、でも、それ以上に。
今の幸せが壊れるくらいなら、これ以上なにもいらないと、臆病になっていた。
それは多分、君のことが何よりも好きだったから。

でも、いつまでも子どもじゃいられない。
そんなのもきっとずっと、分かっていたこと。

「抱くぞ」
「……知ってる、よ」
「我慢とか、そんなのうまくできねえぞ」
「……分かってるよ、そんなの、私も一緒、だから」
「……あんまり煽んな」

先に繋げるための、最初のキス。
それ以上、声は喉を通らなかった。
沈黙が、昨晩の始まりの合図だった。







震えていた。小さく、何かを堪えるみたいに。
だから動きを止めた。
それは、我慢じゃなかった。
堪えて受け入れるなんて、そんなことして欲しくない、きっと、オレのわがまま。

「……やめるか? おまえ、震えてる」
「……や、だ」
「これだけが方法じゃないだろ。愛し方なんて、きっと、なんぼでもある」
「……きっと私、そんなに、うまく、ないから」
「え?」
「上手に愛する自信なんてないから、だから、思いつくこと全部、元春にあげたいの」

彼女は笑った、震えながら。

「嫌で震えてるんじゃ、ないよ。だって、初めてのキスも震えた」

「好きだから、緊張するから、震えてるんだよ」

とても綺麗に、笑った。








にやける顔で、隣の寝顔を何度も確認する。
昨日のことを、オレは一生、忘れないんだろう。
熱い肌の温度、荒い息、オレだけが見たいくつもの表情、いくつもの、声。
だって、「コップを洗ったら帰る」なんてそんな言い訳すら、もう、愛おしくてたまらない。

ずっと、怖かった。
変わった先にいるオレたちは、笑ってる?
の中のオレが変わってしまっても(例えば、頼れる先輩じゃなくて、欲しがりなこども、になってしまっても)、
はオレを、好きでいてくれるのか、って。
そんな不安は 結局言わなかったけど、言えなかったけど、知ったらは笑ったのかな。
今となっては、もしかしては全部を知っていたような。
そんな気も、しなくはないけど。

もう、大丈夫。
こうして手を伸ばして、その中に、欲しいものを目一杯抱えてみたら、
生まれたのは、凶暴な何かでも、手に負えない衝動でもない。
限りない、暖かさ。
今まで大切にしてきたものは、壊れるどころか、更に大きく、確かなものに。
今、隣で何も纏わずに、今までで一番無防備な姿をさらす彼女にも、オレはもう戸惑ったりなんかしない。
ただひたすらに愛おしくて、大事にしたい、と、心から思う。
伸ばした手を握ってくれた彼女に、優しい気持ちは大きく大きく膨らんだ。

「……もとはる?」
「……おはよ」

彼女が、夢の中から、ゆっくりと目を開く。
そこに移るオレは、きっと世界で一番幸せな顔をしているだろう。

ここにいてくれて、ありがとう。
オレを選んでくれて、ありがとう。
受け入れてくれて、ありがとう。
笑ってくれて、ありがとう。

全部を伝えたくて、手を伸ばした。
抱えた彼女の体は小さく、だけど、とても暖かい。
触れ合う肌が体温を分け合って、オレたちの境目を、やっぱりとろとろと溶かしていく。

「元春、ありがとう」

君が、大事なものを、たくさんオレにくれるから。
何度でも、言うよ。
伝わるように。

「ありがとう」

あいしてる、を言葉にするのは、まだ、照れくさくて。
伝われと願いながら、オレたちは小さなキスをする。






変わった先にいるオレたちは。
うまれたての温度を抱きしめて、笑っていた。








END






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