何度も眺めた。
大きくて、とても広い、先輩の背中。

手を伸ばしてもきっと届かないと思った。
私たちの間には、どうやっても縮まらない差があると思ったから。
触れたい、と思うのに。
抱きつきたいと思うのに
遠くて。
いつまでも、遠くて。

だから、寂しくて。






【ひとひら、はなびら】






空は真っ青に晴れ渡っているのに、風だけはとても強い。
たまに、冬の気配を含ませて通り過ぎる一際強い流れに、視界の遠くのほう、袴の裾がいっせいにひらひらと揺れる。
草原、みたい。

「あれ、ちゃん?」
「あ、さくらいせんぱい」

振り返って咄嗟に名前を呼んだら、吹く風が口に入ったせいで妙に舌っ足らずな発音になったから、苦笑いをした。
そんな私を、当の櫻井先輩は「ははっ」と豪快に笑い飛ばして、そして自分の首筋を、襟足のしっぽごと引っかく。
真咲先輩と違って、長めの髪の毛だなあとは思っていたけど、まさかしばることができたなんて。
初めて見る、スーツに襟足のしっぽというその姿は、なんだかホストみたい。

「いや、ちゃん、こんでももう半分社会人だぜ、俺。卒業2週間前からすでに新入社員だから」
「社会って、夜の社会ですか? 体験入店?」
「うーわ、言うねえ」
「言われっぱなしじゃ色々大変だって、1年でよく分かりましたので」
「ナルホド。ますます真咲に似てきたってわけだ」
「べ、別に、そんなんじゃ」
「いや、大分似てきたよ、君ら」

さわさわ、ざわっ、と、何度目かの強い風が吹く。
からかわれるのは、結局最後まで慣れなかったなと思いながら。
私はまた遠くに揺れる袴の群れに視線を移して、聞こえなかったふりをした。






ちょうど、去年の今頃のこと。
私は高校を卒業して、それと同時に真咲先輩の恋人になった。
受験していた二流大学は真咲先輩と同じ大学で、合格発表は一緒に見に行った。
番号を見つけて、大喜びした。
希望の大学に通えるようになったことが嬉しくて。
先輩と、同じ大学に通えることが、嬉しくて。

ずっと気にしていた4歳という歳の差が、急に縮まった気がした。
同じ校舎、おそろいの教科書、ふとすれ違うお昼どきの学食。
初めて、同じ立場に立てたと思った。
追いかけるんじゃない、並んで歩けるんだと思うと、すごくどきどきした。

でも、振り返ってみれば、たったの1年。
私も、真咲先輩も大学生なのはたった1年の間のことで、先輩はまたすぐに違うところへ行ってしまう。
短い時間。ほんの1年、365日。

気づいていないわけじゃなかった。
4歳の歳の差は、ずっとそのまま、縮んだりしないんだって本当は分かってた。
でも、ちょっとの間だけ、考えたくなかったんだ。
ほんの一瞬、同じ目線ですごせるその時間を。
片思いしてから何度も羨ましいと思った、“真咲先輩の同級生”気分を、少しでも長く楽しみたかった。
ただ、それだけなんだ。


「あれ? 真咲先輩。どうしたの?」
「どうしたのって、いちゃ悪かったか?」
「え、だって、櫻井先輩は……? 今までここに、」
「そのお節介櫻井に、がオレの卒業に号泣してるって呼ばれたんだけど」
「……うーわ」
「ま、嘘だって分かってて、乗ってやったんだけど」

少し困ったように笑うその横顔に、つられるみたいに眉をちょっと寄せて。
もう会えなくなるわけじゃない、そうじゃないのに、涙がこぼれそうだった。
櫻井先輩の言うことは適当だし、いつだって見当違いだけど、でも、本当はすごく、的を射ていると思う。
今日、真咲先輩は大学を卒業してしまう。
そのことが、私はとてつもなく寂しい。

「まさか、本当に泣いてるなんてな」
「……泣いてないよ」
「そーか、そーか」
「頭ぐしゃぐしゃにしないで下さい真咲先輩」
「真咲先輩って呼ぶのいい加減にやめて下さい後輩」

ふざけ半分、ぶっきらぼう。
真咲先輩はそう言うと私の頭をぐっと引き寄せたから、涙が堤防を破って、ぼろっとこぼれ落ちた。
この1年で、ちょっとだけ変わったこと。
それはすごく些細で、きっと傍目に見たら分からないことなんだろうけど。

「……呼べないよ」
「え?」
「だって、先輩は、先輩だもん」
「なに言って、」
「先輩、また先に行っちゃうんだもん」

少しだけ、素直になる方法が分かった私の言葉に。
先輩は「またお前はそういう」と、答えになってない答えをぼそっとこぼして、抱きしめる腕に力を足してくれた。

「……先輩、スーツ、似合うね」
「ああ、老け顔だかんな、オレ。初々しくもなんともねえだろ」
「うん、違和感なさすぎ」
「光栄です」
「……似合わなくて、いいのに」
「え」
「寂しいよ、そんなの」





「寂しすぎるよ、こんなの」





櫻井先輩は、一体私たちのどこを見て、似てきたなんて言ったんだろう。
私と真咲先輩は、違う。
先輩は大きいけど私は小さいし、先輩は優しいけれど、私はまだまだ意地っ張り。

「バカだなあ、
「ひどい、バカじゃないよ」
「バカだよ」

先輩はこんなとき、真っ先に笑って私をふんわりと見つめてくれるけど、私は口をへの字にしてうつむいてしまう。
どうやってかわそうかって、そればっかり私は考えているけれど、真咲先輩はきっと、受け止めようとしてくれている。

「オレは、嬉しいんだよ。スーツが似合って」
「……よかったね」
「バカ、違う」
「だから、バカじゃないです」
「バカなんだよ、おまえは」

それにほら、こうして。
いつだって前を歩いて、後ろを歩く私を気にしてくれる真咲先輩。先輩は、大人だ。
その後ろを必死に着いて行くだけで、何も返せない私は、いつまでも、子供なんだ。

「大人になんなきゃ、おまえを引っ張れないだろ」
「……え?」
「いざというときの余裕がなきゃ、誰かと一緒になんて生きていけねえんだよ」
「それ、どういう……?」

分からないですかね?
先輩が、呟いて、そして遠慮がちにくっついていた体がそっと、離れる。
両腕だけは繋がったまま、先輩はその大きな背中をかがめて、私の顔を覗き込んだ。



「いくらでも待っててやるし、呼んでくれたら飛んでく」
「真咲せん、」
「でも、ちょっと先を見といたら、、安心して歩けるだろ? そんなんできるの、年上の特権だし」
「……あの」
「一緒に歩く道、下見しておくから。おまえは笑って、堂々としてろよ」






と、一緒に生きる準備、しとくから。だから、寂しいなんて言うなよ」






空は真っ青に晴れ渡っているのに、風だけはとても強い。
たまに、冬の気配を含ませて通り過ぎる一際強い流れに、視界の遠くのほう、袴の裾がいっせいにひらひらと揺れる。
やっぱり草原みたいなその景色を、先輩の背中越しに見ていた。

「なんか、ずるいよ。私ばっかり、大事にされて」
「別に、ずるくねえだろ。オレがを囲っておきたいだけだし」
「私は? 囲わなくて大丈夫?」
「もう、囲われてますから」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」

大きな背中。
私はきっと、この背中をいつまでも追いかけるのだろう。
届きそうで、届かない。
かと思えば、その背中はくるりと反転して、そして私を温かく包む。

「卒業おめでとう、真咲先輩」
「あのな……もう一回だけ言う。先輩はやめろって」
「うーん」
「オレの名前。知ってるだろ」
「……それは、もちろん」
「呼んでくれよ。卒業祝いに」

先を行くその背中に、私はきっと、守られながら。
たくさんの幸せを、たくさんの温もりを。
もしかしたら、たくさんの悲しさや切なさ、苦しさだって、もらうのだろう。
抱えきれないほどの感情を、両手一杯に、もらうのだろう。
だったら、私も。

「……と、はる」
「うん?」

私も。
真咲先輩が通った道に残る落し物や、忘れ物。
もしかしたら新しく生まれるいくつもの感情を、拾って、届けよう。
あなたの両手も、幸せや温もり、大切なもので、いっぱいになるように。
大好きな背中を追いかけながら、私だって、そのくらいのことはできるのだと思うから。



「元春、卒業、おめでとう」
「……ありがとう、



草原の中。
大きな背中が揺れて、ひとひら、はなびら。
私の唇をふわりと舞って、春を。






春の歓びを、知らせた。






END






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