悩む真咲の背中を見送って、俺は思い出していた。
外野に惑わされていた、あの頃の俺。
あがいてもあがいても、気持ち以外の何かの制約に縛られていた、あの頃。
そう、俺も恋をしている。
始まりは、空気がとてもきれいな秋の日だった。
【櫻井くんの恋】
もう1年以上前になる。
彼女の事を知ったのは、学校の楓並木が鮮やかに色づき始めた時期。
俺がまだ、初々しい一年生だったときのこと。
その日は学園祭の前日で、学内は異様な盛り上がりを見せていた。
(だりー…)
滑り止めで受けた二流大。
他に全て落ちてしまった俺は、仕方なしにここに入学して。
やる気なんてモンは、全くなかった。
ただ、真咲とか他にも色々、面白い友達がいたから踏みとどまれていただけで。
入学して半年、やめちまおうかななんて、たまにはそんなことも考えていた。
完全に、色を失った俺の世界。
「おう、櫻井。お前も明日の準備?」
「ちげーよ。補講のレポートの提出」
「はは、そっか。こんな日にレポートとはご愁傷様」
その日の俺は、寝不足で機嫌が悪かった。
人がごった返す構内、いくつかの知った顔に呼び止められるのすらうっとおしい。
本当は、バイトの時間まで適当にその辺をぶらぶらするつもりだったけど、仕方ねえ。
歩くのも苦労するその道を諦めて、俺は図書館で一眠りすることにしたんだ。
初めて入った、図書館の中はすごく綺麗で。
外の音も遮断されて静かなそこは、まるで別世界だった。
(蔵書、結構あるなー…)
一回りして、その本の多さに驚く。
ほとんどは専門書だったけど、その一角で、俺は懐かしい本を見つけた。
――檸檬。
梶井基次郎の書いたその本は、確か高校の教科書に載っていた。
そういえば、どんな話だっけ?
すっかり忘れてしまっていた俺は、その本を手に取りぱらぱらとめくる。
(…そうか。)
さほどページ数もないその本を一通り読み終えて、俺は息をつく。
「檸檬」の主人公は病や借金から気が狂ってしまい、ふらふらとその辺をほっつき歩く。
そこで立ち寄った、かつての憩いの場、丸善。
その本売り場で、画集を積み上げて、その上に檸檬を置くんだ。
そして、想像する。
今となっては息の詰まるようになってしまったその場所が、こっぱ微塵に砕ける様を。
思い出して、棚へ戻る。
俺の現状も、こっぱ微塵になればいいのに。
そんな自虐的なことを考えながら視線を上げると、目に入ったのは檸檬のように鮮やかな女の姿。
(うわ…細え…)
女は、目一杯背伸びをして棚に向かい、手に持った本を指先で懸命に押し上げている。
…今思えば、これが一目惚れの瞬間だったんだ。
俺は女に近づいて背後に立ち、その手から本を取り上げて棚に押し入れた。
「ここでいい?」
「あ、すみません…ありがとうございます」
小さな彼女を見下ろすと、そこにあるのは真っ白い肌。
そして、色素の薄い、茶色がかった長い髪。
整いすぎて、少し冷たい印象を受ける目。
彼女はどこのパーツをとっても、とても綺麗な形を持っていた。
「…あの…」
呆然と立ちつくす俺を、彼女は不思議そうに一瞥する。
そして、視線は俺の手元で止まる。
「檸檬?」
「あぁ、なんか懐かしくて」
「懐かしい…?」
「教科書に載ってたんだ。どんな話だったかなーと思って」
彼女はそっと俺の手から本を取り、ぱらぱらとめくる。
その綺麗な指先に見とれて、俺は気づく。
…左手の薬指に、細い指輪の跡。
「そっか、本を積み上げて、檸檬を置く話だったわね」
「…あ、ああ、そうそう」
「そういえば私も、昔読んだわ。ふふ、懐かしい」
本をぱたんと閉じて、彼女は俺に向き直る。
貸し出しますか?
そう聞かれて、初めて気が付く。
彼女の胸に下げられた、職員のプレート。
そこには、「司書」と書かれていた。
「あ、すんません…年上だったんすね」
あわてて敬語で話し直す。
顔は大人びているのに。
その小さな背や、仕草が妙に子どもっぽいから、同い年だと決めつけていた。
正直面食らった。
「ううん、気にしないで。よく高校生と間違われるの」
借りる気もなかったのに、もう少し彼女といたいという不純な動機から貸し出しを頼んで。
彼女の後について、カウンターまで歩く。
前方から香る、爽やかな香り。
どこの香水だろう?
いくつか頭に思い浮かんだけど、どれもしっくり来なかった。
「学生証、お願いします」
財布から取り出して、渡す。
さっき見かけた、左手の薬指の、くっきり残った指輪のあと。
その綺麗な指の白い線に、一瞬見とれて、はっと我に返る。
手続きの終わった本を受け取ると、俺の学生証を見て女は目を細めた。
「1年生かぁ…なんでもこれからよね。羨ましい」
何か後悔でもあるんだろうか。
戻りたいと言葉を紡いだその口は、余りにも切ない形をしている。
指輪の跡に、何か関係が?
そんな考えが脳裏をよぎったけど、さすがに口には出せなかった。
「そんなことないです。俺だって…できるなら戻りたい。もっと前に」
「そんなもんなのかな」
「あなただって、きっとそうだっただろ?俺くらいの時」
「どうだったかな…」
伏せた目に、見とれる。
さっきから思っていたけど、未だかつて、俺はこんなに綺麗な女を見たことがなかった。
めちゃくちゃ綺麗。
「あの」
「はい」
無意識だった。
人気のない図書館のカウンターの前、俺は声を潜めることなく彼女に言った。
「今度よかったら食事でも」
見開かれる目。
きっと真っ赤に染まるだろうな、そう予想して見ていた彼女の顔は、予想外にも無表情な笑いに切り替わる。
「遠慮しておくわ。年下は好みじゃないの」
それからだった。
彼女のいる図書館に、よく通うようになったのは。
読みたくもない本を、何冊か借りて。
ダメと知りつつ、カウンターで何度も彼女を食事に誘う。
もちろん、その度に断られて。
指輪の跡を持つ彼女は、時折昔の恋の未練をのぞかせたけど。
それでも諦めたくない。
好きで。
好きで好きで。
軽い素振りでゲームのように近づきながら、心は本気だった。
無力な俺を隠そうと、必死だった。
「ねえ、お姉さん。今日は付き合ってくれるだろ?」
「イヤ」
「この前、あの推理小説を全巻読んで感想文書いたら、食事に付き合ってくれるって言ったじゃん」
「…言ったわよ」
「ほら、書いたよ、俺。だから、はい、食事行こう」
「イヤ。これのどこが感想文よ。たった3行じゃない」
「…思ったことを書いただけだよ。特に字数制限はなかったはずだけど?」
その言葉に、彼女はため息をつく。
「これじゃダメ。悔しかったら再提出しなさい。少なくともA4一枚は埋めてよね」
俺は、この日までずっとひるんでいた。
彼女の持つ、事情に。歳の差に。左手の薬指の、指輪の跡に。
でも、今日はひるまない。
勝負の日だ。
だって俺は、彼女を諦められない、引けない。
「檸檬」の主人公が、鮮やかな檸檬の色彩に心を奪われたように。
俺の中の檸檬も、爆発したんだ。
彼女に出会って、俺の色のない世界は再び鮮やかに彩られた。
だから。
突き返された感想文を受け取って、俺はそっぽに向けられている彼女の顔を、視線だけでのぞき込んだ。
「檸檬は爆発したのかな」
「…え?」
「1年前の話だよ。丸善の本屋で、高く積み上げられた色とりどりの本の上の檸檬」
「…」
「爆発したのかな」
唐突な俺の質問に、彼女はただ視線を泳がせる。
俺はその視線を懸命に追いながら、続ける。
「いくら俺が誘っても、かわすよね、お姉さん。でも、断らない。なんで?」
「…断ってるじゃない」
「断ってないよ。イヤだとは1回も言われてない」
俺はおもむろに彼女の手をとって、薬指の跡をなぞる。
「それって、この跡のせい?それとも俺が年下だから?」
「…興味本位で触れないで」
「そんなんじゃないよ」
ふりほどこうとする彼女の手を、ぐっと掴んでカウンター越しに顔を近づける。
「あのときお姉さん言ったよね。若い俺が羨ましいって。それって、なにか未練でもあるの?」
「…ちょ…ちょっと、離して…」
「残念だけど、時間は戻らない。お姉さんの過去になにがあるのかは知らないけど、過去は変えられない」
「…私はそんな、別に……」
「でも、今は変えられる。納得がいかないんだったら、爆発させて壊しちまえばいい」
そこまで言うと、俺は彼女の手を解放する。
そして、カウンターの脇の本をどかどかと積み上げる。
最後に、用意していた檸檬をそっと頂上に置く。
「檸檬は爆発する」
「…え?」
「あんたが望めば、今すぐ檸檬は爆発する」
「確かに俺は年下だし、お姉さんの過去を知らない。けど、俺はアンタが好きだ」
「俺はアンタが大好きだ」
檸檬が爆発した日を境に、俺と彼女はちょくちょく食事に行くようになって。
彼女の指輪の跡も、最近では大分薄くなった。
でも、彼女と待ち合わせができるようになった今も。
正直、いつも不安でたまらない。
俺なんかが、太刀打ちできる相手なのか。
本当に、俺は彼女のために、今を変えられるのだろうか…?
神様は意地悪だよな。
気持ちが重なるだけでも大変なのに、その上色々なハンデを加える。
過去とか。
歳の差とか。
気が付いてもどうしようもできないようなハンデを、加えるんだ。
タバコに火を付けて、公園通りで彼女を待つ。
ふと、見慣れたシルエットが目に入る。
真咲だった。
隣では、あの日相談された”由真ちゃん”が幸せそうな笑顔を浮かべている。
大分吹っ切れた真咲の顔を見て、よかったなぁなんてお節介を焼いていると。
「櫻井くん」
聞き慣れた、ソプラノの声。
「あ…来てくれた」
とたんに、澄んでいく空気。
ああ、出会ったあの日の空気が澄んでいたのも。
きっと、彼女がいたからだ。
「どうしたの?心ここにあらず、みたいな顔して」
「いや…まぁ、うん。お姉さんが当たり前に待ち合わせ場所に来てくれるなんて、随分進展したなぁと思って」
1年かかったぜ、と笑うと、彼女も笑った。
「何言ってるの、まだまだよ。今日だって、食事だけなんだから」
「はいはい、お姉様」
気持ちだけじゃ、どうにもならないことは重々承知だ。
押せばいいわけじゃない。
好きだって気持ちだけで、押し切れるとも思っていない。
だけど。
気持ちがなければ、何も始まらない。
それもまた、事実だろ?
だって、ほら。
あんなに気だるくて、やる気の無かった俺の心。
これだけのことで、今。
世界は色づく。
今日の夕方、真咲に電話をしてみようか。
真咲と、隣で幸せそうな笑顔を浮かべていた彼女のために。
浮かれきっている悪魔の、気まぐれないたずら。
悪友にも、檸檬爆弾の革命と。
とっておきの、彩りを。
END
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※櫻井くんはキザでロマンチスト、そして策士希望。長い上に、キャラ作りすぎですみませんー。
参考:『檸檬』梶井基次郎(新潮文庫)
檸檬の詳しい解釈はもちろん専門外なので、あくまでイメージということですみません・・・。