面白がられているのか、からかわれているのか。
最近、ちょっと仲良くなれた志波くんは、たまに、意地悪だ。
「冗談」
そう言って、私の頭を撫でる仕草に。
いちいちドキドキする私は、ちょっとマヌケだ。
【優しいイジワル】
夕日の色に染まった教室で、ずらりと並んだ名前と睨めっこ。
気づけばもう、かれこれ1時間半は経ったかもしれない。
膨大な量のノート。
日直の仕事を終えて、日誌を職員室に出しに行く、そのタイミングの悪さが運のツキだった。
「、夏休みの宿題のチェック、頼んでもいいか?」
「え」
「古典とー……あ、あと、読書感想文もいいか? 俺、現代文だけで手一杯で」
気さくでいい先生だな、と思っていた。
でも、このときばかりは、その気さくさに悩まされた。
ちょっとくらい生徒が手抜きしても、笑って見逃してくれる先生だけど、
なるほど彼は筋が通っている。
自分にも、甘い。
「じゃ、これ。頼む」
「え、あ、あの?」
「名簿にチェックだけでいいから、な、お願いします」
差し出された、宿題でぎっちりのかごを、受け取ってしまったからもう決定だった。
先生は現代文のノートがつみあがった机に向き直って、私に手を振った。
「あ、採点は俺やるから。安心しろな〜」と、そんなのんきな声を残して。
普通に済ませば、1時間で終わる仕事だったと思う。
いくらクラス全員分と言っても、全員出したとして40冊×2だし。
名簿はもう出来上がってるから、チェックすれば終わり……のはずだったのに。
ちょっと、宿題の入ったかごが重すぎたのがいけなかった。
階段でバランスを崩した私は、
迷わずかごを犠牲にした。
中に入っていた5枚一組の原稿用紙は、ものの見事にバラバラになって。
原稿用紙をならべなおすのに、丸々1時間かかった。
体は無傷だったけど、長期戦の確信にため息は何度も漏れた。
「よし、あとこれをチェックすれば……」
目の前に、やっと綺麗に積み重なってくれた宿題の山を見て、私はシャープペンのおしりを押した。
カチ、カチ、と小気味良い音を鳴らしながら、あとは読書感想文のチェックだけになった名簿に向き直る。
さっさとやってしまおう、と手を伸ばした瞬間。
私の背後の方、教室の後ろのドアが
ガラッ、と音を立てて。
「っつ?!」
驚きに
思わず私は身体を緊張させて、振り返った。
でも、振り返ったらもっと。
全身が、心が。緊張した。
「?」
「し、志波くん!」
「もう下校時間だろ。何してるんだ?」
「えーっと」
急にうるさくなり始めた心臓を、耳の奥に聞きながら。
夕日の中、私に少しずつ近づいてくる志波くんから、目が離せなかった。
私の机の上を見て、すぐにことの次第を理解した志波くんは。
「手伝ってやる」
そう言って、私の前の席にさっと座る。
高く積み上がった山のような宿題から、余裕で顔を覗かせた。
「え、いいよ! もう下校時間だよ」
「それはおまえだろ、」
「でも、私は頼まれたからしょうがないし」
「これ、どう考えてもの仕事じゃないと思うんだが」
「そうだけど、でも……」
元はといえば、私のマヌケな失敗のせいでこんなに長引いてるわけで、
そんなことを考えるともう、この状況は、申し訳なくてたまらなかった。
「あとちょっとだし、大丈夫だよ」
感想文を、一束持ち上げたその手を止めて、そう言えば。
志波くんは、ちょっと長めの前髪から覗く目を、少しだけ、細めた。
「オレと一緒に作業するの、そんなに嫌か?」
え……?
予想外の一言に、絶句して、そしてすぐに、否定した。
「そ、そんなわけないよ! そうじゃなくて!」
慌てて首を振りながら弁解すると、正面から。
くくっと、笑い声が聞こえてきた。
「し、志波くん?」
「冗談」
「え……は、はっ?」
「あとちょっとなら、尚更。二人のほうが早い」
呆気にとられた私を前に、志波くんはそう言って、勝手に作業を進める。
「ほら、やるぞ」
にやりと笑ったその顔に、ああ、またやられたんだな、と思った。
――冗談。
だから、志波くんは、ちょっと意地悪だと思う。
作業は本当に、あっという間に終わってしまった。
沈みきるだろうなと思っていた夕日でさえ、まだ地平線の上で。
チェックを終えた宿題の詰まったカゴを手に、職員室に向かう長い廊下を歩きながら、
西日に染まった志波くんの横顔を、何度かこっそり見上げた。
「本当にありがとね」
「別に、大したことじゃない」
「でも、あのままじゃ、帰る頃真っ暗だったと思うから」
さすがに悪いよ、と言ったのに。
志波くんは私がカゴを持つことを許してくれなくて、今、私の手にあるのは数冊のノート。
引きずるようにして持ってきたかごを、彼は軽々と持ち上げている。
「……そういうときは、」
「うん?」
「そういうときは、呼べ。いつでも手伝う」
顔を上げると、とても、優しい目で笑う、志波くんと目が合った。
こんな、ささいなことでさえ。
やっぱり私はドキドキして、息苦しさすら感じてしまう。
「ずるいよ、志波くん……」
「何がだ?」
「なんでそんなに優しいの……」
なんか、暑い。
そう言って、左手の甲を顔に当てた。
職員室はもう目の前で、志波くんはどさっと、そのカゴを下に下ろした。
「だから」
「え?」
「だからだ。放っておきたくない」
手の甲を、当てたまま。私は動けなくなかった。
私、だから?
私だから、放っておきたくない……?
優しい、優しい志波くんの目が、
私を捉えて離さない。
ドキドキも、熱さも、息苦しさも、もう。
リミットなんて、とっくに振り切ってる。
「……あ、あー、わ、分かった。冗談、でしょ」
耐え切れなくなって、にへらっと笑ったら。
志波くんは、ふんわり、笑った。
「冗談」
「やっぱり」
いつもみたいに、伸びてきた手は、私の頭のてっぺんを、そっと撫でて。
そして感じる、くすぐったさ。
でも、次に聞こえた一言に、私の頭は。
何も。
志波くん以外、何も、考えられなくなった。
「冗談、だと思うか?」
ねえ、そんなことを。
まるで重いかごを簡単に持ち上げたみたいに、さらりと言わないで。
そんなに優しい顔で、目で、声で……てのひらの、温度で。
幸せそうに、微笑まないで。
「う、自惚れちゃうよ……?」
目の前の志波くんが、頭の上の手を、私の頬に下ろした。
面白がられているのか、からかわれているのか。
こんな、ちょっと意地悪な彼の冗談に、いちいち嬉しくなってたら、やっぱりすごくマヌケだけど。
「オレこそ、自惚れるぞ」
確かに、そう呟いた志波くんに。
ああ、もう、この際。
マヌケでも何でも、かまわないかな、と思った。
ちょっと仲良くなれた志波くんは、ちょっと意地悪で。
すぐに、気まぐれな冗談を言うけれど。
「……帰るぞ」
そう言って、差し出してくれた手に、思う。
ああ、だから志波くんは、意地悪で。
そして、何よりも、優しいんだ、って。
どうやら、二人そろって自惚れてるらしい、私たちの影は。
繋がって、長く、長く。
夏の終わりの歩道に、伸びていた。
END
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