泣きたくなかった。
でも、笑える自信もなかった。
行かないで、と、もちろん思っていたけれど、それを言葉にはしなかった。
そのかわり、繋がった手に、きゅっと力を込めた。
窓の外、桜の花は、まだ、蕾だった。
でも、凛としていて、とても、とても綺麗だった。
【はなさくころ】
ベットを背もたれに寄りかかって、2人で並んで座った。
春ももう近づいていたから、むき出しの床もそんなに冷たくはなかったけれど、
志波くんがクッションを差し出してくれたから、ありがとう、と素直にお尻の下に敷いた。
中身がなくなった、机の引き出しの中。
布団も枕もないベットの上。
ところどころ隙間ができた棚の本は寄り添うように傾いていて、バランスを崩したらきっと、真横に倒れてしまう。
それは、小さな、だけど大きな変化。
並ぶ家具も、その位置も変わらないのに、なくなってしまった中身が私の肩をとんとん、と、叩く。
――もうすぐ、時間だよ。
いっそのこと、部屋ごとからっぽになってくれたなら、もっと実感できるのに。
そうしたら、こうして肩を叩かれる前にいっぱい考えて、いっぱい泣いて、覚悟だってできてたはずなのに。
「……明日には、行っちゃうんだよね」
こうして、声に出して確認してもまだ、頭はついていかない。
明日も、明後日もまた、こうして並んでいるような気がするし、こっそり繋いでくれる手にドキドキしている気がしてしまう。
「ああ」
何度目か分からない私の“確認”に、志波くんは短く頷いた。
叶うことなんて絶対ないと思っていた願いが叶ってしまったこの暖かな季節を、
私はずっと愛し続けるんだろうなと思ったのは、ほんの数週間前、高校生活最後の日のことだった。
好きだ、と言われた。
信じられなかった。
信じられないくらい嬉しくて、幸せで、言葉にならない気持ちが、涙になって溢れた。
要領も運も悪い私は、小さい頃から欲しいものを欲しいと言えなくて、して欲しいことをして欲しいと上手に言えなくて、
だからずっと、こんなどうしようもなく叶えたい思いを抱えてしまったことが辛かった。
意を決して伸ばした手を引っ込めてしまおうとしたこともあったし、
大好きな彼に向けた言葉はいつだって不恰好だったから、私はその度に自分のことを嫌いになった。
一緒にいたい、と思ってしまったことを、何度も後悔した。
でも、叶った。叶って、しまった。
私至上最大にして、最難関の願い事。
大好きな志波くんと、恋人、に、なってしまった。
そのときの志波くんは、今までで一番優しい顔をしていて、でも、一番厳しい顔をしていた。
初めて見るその顔に、私は今までで一番、どきどきした。
この顔も、この気持ちも、忘れないと思った。
生まれたての春の風や、ほんのりと色づいた景色、この季節とまるごと、忘れないんだろうな、と、思った。
春はきっと、私にとって、幸せそのもののような季節に。
そうじゃないのかもしれないと気づき始めたのは、ほんのちょっと前のこと。
分かっていたことだったのに。
春になったら志波くんは私と違う大学に入学して、ここではない、また新しい場所で彼の生活がはじまるということ。
頭では理解していた。でも、きっと私は実感できていなかったんだ。
こうして、ところどころ物がなくなって、隙間だらけの部屋を見て、やっと考え始めた。
志波くんが、いなくなる。
春はきっと、別れの季節でもある、ということ。
「準備はもう、終わってるの?」
「ああ。今日、午前中のうちに荷物送ってきた」
「え、机は……? 持って行かないの?」
「うちの寮は家具があるらしい」
「……そっか」
こういう風に会えるのも、今日が最後。
昨日の電話で、「どっか遊びに行くか? いつも行けないような場所」と、そう志波くんは聞いてくれたから、私は考えた。
ずっと気になってた臨海公園の近くのカフェも行ってみたいし、ベタにテーマパークもいい。
でも、考えても、どれもしっくりこなかった。だから、「いつもみたいにゆっくりしたい」と答えた。
今思えば、明日からはこの場所が“いつも行けない場所”になってしまうんだから、私の答えは間違っていなかったんだ。
明日からは、もう――
「……なんだか、ね」
ツン、と、鼻の奥を突くのは、きっと寂しさ。
押し出す声が、かすれている。
「どうした?」
「なんだか、実感できないなー……と、思って」
「実感?」
「ん……、明日から、志波くんはここにいないんだなあって」
泣きたくなかった。
でも、笑える自信もなかった。
行かないで、と、もちろん思っていたけれど、それだけは言葉にはしたくなかった。
そのかわり、繋がった手に、きゅっと力を込めた。
「……?」
「ごめん、なんでもないよ」
「うそつくな」
3年間、ずっと好きだった。でも、願いが叶ってまだ、1ヶ月もたたない。
大丈夫なんだろうか、と、思う。
私の願いはまだ蕾のようなもので、十分な暖かさがなければ、咲くことはできない。
このまま、落ちてしまうんじゃないか、と、思ってしまう。
だって、電車で2時間というその距離に隔てられる前に、私たちにはまだ心の距離がある。
例えば、今の気持ちをどこまで伝えていいのか、とか。
手は握っているけれど、指をからめてもいいのだろうか、とか。
私たちのつながりは、まだこんなにも、不確かだ。
「寂しいな、って、言ったら」
「うん?」
「寂しいな、って言ったら、迷惑? 他にも、その、不安だな、とか」
歩くのは早いほうじゃない。走るのも。
話すのも、食べるのも、考えるのだって、私は、いつも人より遅くて。
遅れてきた涙を、ぐっと堪えた。志波くんは困った顔をして、笑った。
「迷惑がってるように見えるか?」
「……え」
「多分オレ、今、おまえと同じこと、考えてると思うんだが」
「そう、なの?」
「おまえ、ぼっとしてるから」
そう前置きした志波くんは、鼻で小さく笑う。
そして、変なサークルに入るなよ、とか、危ないバイトはするなよ、だとか、
先輩面する奴には付いていくな、言い寄ってくる男がいても無視しろよ、と。
確認するみたいにゆっくり、でも、いつもの志波くんと比べるといくらか饒舌にそう言った。
「そんな、大丈夫だよ。私なんか」
もてないんだから、と続けようとしたところで、不機嫌な志波くんの視線が私をとらえた。
しまった。
いつも、こうなんだ。
私の口癖、思わずこぼすたびに、志波くんはこうしてとがめるみたい、視線を私に向けて、そして一言。
「やめろ。その、私なんか、っての」
そう怒ってくれる志波くんに、私はいつも情けないような、反面嬉しいような気分になるのだけれど、今日はそれだけじゃない。
こんなふうに怒ってくれる彼は、明日にはもう隣にいないのだ、と。
寂しさに、とうとう、涙がこぼれた。
「……志波くんも、」
「うん?」
「かわいい子がいても、どきっとしないでね」
「ああ」
「合コンとか、行かないでね」
「オレが行くように見えるか?」
怖い先輩に捕まらないでね、一人暮らし頑張ってね。
涙声で、思いつく限り、続けた。
「……たまには、帰ってきてね。体には気をつけてね」
「ああ」
志波くんは笑って、そして繋いだ手をぐんっと引っ張った。
抱きしめて、くれた。
志波くんの腕はとても力強くて温かだったから、私は、“ああ、志波くんだな”なんて、分かりきったことを考えてしまった。
「出来る限り、会いに帰ってくる」
「私も、会いに行くね」
「じゃあ、そんときは、迎えに行く」
窓の外、桜の花は、まだ、蕾だった。
でも、凛としていて、とても、とても綺麗だった。
この蕾が花咲く頃、私たちはきっと、別々の場所で、別々のスタートを切るのだろう。
不安は尽きない。
私たちにはまだ、それをぬぐうことも、打ち消すこともできない。
けれど。
「でも、電車で2時間もかかるんだよ?」
「2時間しか、だろ」
頑張ろうと思えるのは、きっと相手があなただから。
叶えたくてたまらなかった思いの先にいた、あなただから。
「泣きたくなったら、電話しろよ」
「……うん」
「2時間くらい、飛び越えて、会いに来るよ」
何かを惜しむみたいに、恐々と重なった唇は。
少ししょっぱい、涙の味が、した。
END
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