【そこにあるもの】








重いまぶたを開くと、木目の天井が視界に入った。
体のあちこちが疲れていたし、そろそろ仰向けでいるのにも飽きてきたから、ごろりと寝返りを打った。

「……どこ行くの?」

横を向いた途端、部屋のドアに手をかけている志波くんが目に入る。
さっきまで隣にいた彼は、ダウンのコートを着込んで外に出る体制だ。
少し前まで、今の私の格好同じ――何も、着ていなかったのに。
いつの間に、そんな準備をしたんだろう。

「コンビニ。小腹がすいた」

当たり前のように呟いた彼は、私を振り返ることもなく、さっさと玄関に行ってしまう。
待って、と、呼び止めかけたけど、のどが少し痛んでいるようで、声にはならなかった。
私もお茶が飲みたかったな、と思ったけれど、台所に置かせてもらってる紅茶でいいかとすぐに諦めた。
かけている毛布を鼻先まで持ち上げる。
情事の残り香がする、と、思ったところで、玄関の鍵の閉まる音が聞こえた。






いつも以上に静かになった空間。一人になった部屋をぼんやりと見回した。
シンプルなテーブル、オーディオラック。床の上、無造作に積みあげたスポーツ雑誌。
私はいつも、ここに一人にされると急に心細くなってしまう。
そう、例えば小さい頃、遊びに行った友達の部屋で、友達がトイレに立ったとき、のような。
知らない空間じゃない。ここにあるものはみんな、私が知っている人のもので、私だって触ったことのあるものばかりなのに、
その持ち主がどこかへ行ってしまった瞬間、なぜか触ってはいけないもののように見えてしまう。
急に、他人のなわばりになってしまう、のだ。

(…また、言えなかったな)

志波くんに抱かれた後、こうして一人で残されるようになったのは、一体いつからだろう。
一人にしないで、と、もう何度も思って、そのたびに口に出そうとしてきた。
それでもいつも言えずにいるのは、きっと、タイミングを逃してしまったから、なんだろう。

仕方のないことだと思う。
付き合って数年、名前を呼ばれるのも、キスをするのも、抱きしめるのも当たり前になって、
いつの間にか、一緒にいることに気を使わなくなった。
隣にいるだけでドキドキしていたなんてまるで嘘のように、私たちは休みが会えばお互いの部屋を行き来して、
まるでそれが日常であるかのように、何度も体を重ねた。

不満じゃない。
求められるということは、まだ彼が私を好きということ。
それを受け入れるということは、まだ私が彼を好きということ。
でも、考えてしまうんだ。
分かっていることでも、口に出して欲しいことがある。
確認なんかしなくても大丈夫だって知ってるけど、それでも、確認したほうが安心することだってあるし、
意味のない恋愛ごっこだと知っていても、たまにそれを演じてみたくなるときだってある。

そう遠くない昔、抱き合った後に必ず眠くなる私を、志波くんはいつも抱きしめてくれて、一緒に眠ってくれたことを思い出す。
もともと口数は多いほうじゃないから、付き合いたての頃も滅多に聞けなかったけど、
それでも、今よりは、「好きだ」とか「愛してる」とか、そういう言葉をくれるときがあった。
単純だけど、嬉しかった。
今の私たちがするお互いの仕事の話の方が、将来に繋がる大きな意味を持つ話なのは分かっているけれど、
でも、薄っぺらでも、気持ちが先走った言葉でも、恋に浮かされたその言葉はすごく、嬉しかった。

もっと、早く。こうして一人になるのが当たり前になる前に、言えばよかったんだ。
一緒にいて、と。
一度平気なふりをしてしまったから、だからこうして、言いにくくなってしまったんだ。
私のこと好き?なんて、そんなの、付き合い初めならまだしも、今更、私の柄じゃ、ないし。

どうして、こうなってしまうんだろう。
好きなのに。好きなのは、変わらないのに。
一緒にいて、好きって言ってって、そういう恋愛めいたことを言うのが、恥ずかしくなってしまったんだろう。
どうして志波くんは、私を置いてコンビニに行くのが、平気になってしまったんだろう。
恋と愛の両立は、意外と難しい。






一人ぼっちの空気に身を硬くして、じっと堪えていると、間もなくして、志波くんが玄関を開ける音がした。
乾いた金属音がして、そのすぐ後、私一人だった空間を壊す志波くんの足音。
がちゃり、と部屋のドアが開く。

「ただいま」
「…」
? …寝てんのか」

かわいくない、と分かっていながら、どうしてこういうことをしてしまうんだろう。
外の香りを漂わせる彼に背を向けて、寝たふり、なんて。
こんなことをすれば引っ込みがつかなくなって、結局いつも、やめればよかった、と、そう思うのに。

素直にかまってと言ってしまえば良かったと、今日すでに何度目かの後悔をしている私の背中の方、
志波くんはコンビニの袋をがさがさとやっている。
何を買ってきたんだろう。
志波くんはいつもいっぱい食べるけど、食べ物には気を使っているらしく、コンビニ弁当だけは絶対に食べない。
中華まんか何かかな、と思っていると、案の定、その香りが漂ってきた。



バカみたい、なんだか、泣きたくなる。
自分で声をかけなかったくせに、寝たふりを始めたくせに、こうして志波くんが何も気づかないことにショックを受けている。
気づけというほうが、無理な話。そんなの分かってるのに、私は心のどこかで期待していたんだ。
もしかして、志波くんは帰ってきたら、私の隣に来てくれるんじゃないか、とか。
隣に来ないとしても、寝ている私の顔くらい、見に来てくれるんじゃないか、とか。

独りよがりもいいところだ。
背中を向けて、壁に向かって丸まっているのは私なのに。

せめて声は漏らさないように、と、力を抜いて涙を流した。
ぬるい涙だった。
枕に巻いたタオルはそれを吸い込んで、私の頬を冷やす。
すーすーするから、毛布をそっと、引っ張り上げて頭までかぶった。
鼻が詰まる。息が苦しい。ティッシュは手元にあったけど、手は伸ばさなかった。
気づかれたくない、と、思ったから。
でもそんなことを言いながら、本当は、私が言う前に気づいて欲しいなんていう逆のことも考えていて、
私はどこまでも、矛盾していて可愛くないと、そんなことを思ってまた涙が溢れた。

「…?」

思いがけず、名前を呼ばれて、体がびくりと震えた。
音はたてなかった、はずなのに。

「…泣いてんのか」

確信ともとれる言い方。
近づいてくる志波くんの声が、私の耳元まできて、そして、待ちわびていた手が私の視界に入る。
そして次の瞬間、引っ張り上げていた毛布の隙間がずり降ろされて、髪の毛がどけられた。
気づけば、見下ろされるような体制。
急に逃げ場がなくなってしまって、私はうつぶせに体を反転させた。

「どうした」
「なんでも、ないよ」
「こっち向け」
「…やだ」
「どうして」

ままごとみたいな、攻防。
私はきっと、数十分(もしかしたら数分)後には絶対に志波くんのほうを向いていると分かるのに、
それでも一度出した意地を簡単には引っ込められない。

「ほら、いいからこっち向けって」
「……やだ…」
「おい、



ねえ、志波くん。鬱陶しい、なんて、どうか言わないで?
私、あなたに愛されたいし、あなたと恋がしたいの。
馴れ合いなんかじゃなくて、もっと、分かりやすい方法で。
私を抱くときに、とても力強く、いやらしく、私を乱すあなたの腕は今でも確かに愛を伝えてくれるけど、それだけじゃ足りない。
ベットの中だけじゃ、全然、足りないの。



がそのつもりなら、と、前置きした志波くんが私の肩をぐっと掴んだ。
そして私の体を簡単に反転させて、馬乗りになる。
志波くんの大きな両手が私の髪の毛を耳脇に梳いて、そのまま私の顔をぐっと固定する。
目が、そらせなくなってしまった。

「…泣くなよ」
「無理だよ、だって、志波くんが、」
「うん、オレが?」

覗き込まれる。気持ちまでも、が。
ボロボロこぼれる涙と一緒に、言えなかった言葉がやっと、喉を通り過ぎていく気配がする。

「志波くんが、」
「ああ」
「一緒に、いて、くれないから…」

降りてくる、いくつものキス。
逃げようと身をよじったけれど、志波くんはそんなのいとも簡単にねじふせて、私の瞼に。鼻先に。頬に。
そして、唇に。
とても優しく口づけるから、私の胸はきゅっと鳴る。

「ごめん、
「…うん」
「泣かせて、ごめん」

ねえ、今でも好き?
恥ずかしかったから、小さい声でそう呟いたら、志波くんは一瞬、目を見開いて、そして。
今の方が、ずっと好きだ、と、耳元でにやりと笑った。






「…おまえ、可愛い」
「……何言ってるの」
「なあ、もう1回していい…?」
「……今度は、」
「ああ。もう、一人にしない」






馴れ合いの中、言えないことは、きっと、ちょっとずつ増えてしまった。
だけど、それはきっと、彼も同じ。
「ずっと寂しかった」と、抱きついてみれば、返事の変わりに彼は「好きだ」と強く抱き返してくれた。

「ねえ、なんで、泣いてるって分かったの?」

私を抱きしめて、身をつなげようとする彼に、ふと聞いてみれば。
「おまえ、意外と分かりやすいから」という、なんとも不思議な答えが返ってきた。



くんっ、と、体をそらした瞬間。
視界に入った、テーブルの上のコンビニの袋。そこからちらりと、私の大好きな銘柄のお茶が見えて。
思った以上に、志波くんは私のことを見ていてくれるのかもしれない。
なんとなくそんなことを考えたら、思わず、色気もなく笑ってしまった。






END






>GS2短編
>Back to HOME