見えないけれど、ずっとここにあったもの。
変わらずここに、あり続けるもの。
【夜雪】
目を開くと、まだ、夜だった。
頭の上でこちこちと規則的な音を立てる時計も、隣で眠る大好きな横顔も、まだ深い藍色の中。
まだ私も、この藍色に沈んでいたかったのに、どうやらその願いは今日も叶わなかったようだ。
ため息を一つついてみたけれど、もう、それは怒りというより諦めだった。
最近、いつもこうなのだ。
なんてことはない、いつものように仕事をしていたり、電車に乗っていたり。
あるいは、部屋でテレビを見ていたり、志波くんと手を繋いでいたり、
そういう何気ない夢をぼんやりと見ている最中に、ふと、目を開いてしまう。
眠りが浅い、のだと思う。
見る夢はいつでも現実味を帯びていて、そして淡い色の残像を鮮明に残すし、
起きた後、体はわずかに重いだるさを背負っているから。
隣で眠っている志波くんは、今日は幸運にも起きなかったようだけれど、
普段、私が目を覚ましたことに気づくと彼は必ず同じことを言う。
「疲れてるんだろ」
心配を形にしたみたいなその顔に、私は、大丈夫だよーとへらっと笑って見せるのだけど。
無理はするなよ、と、私の頭を一撫でした志波くんがまた目を閉じて意識を手放すたびに、
必ずと言っていいほど、頭の中で一言、呟いてしまう。
(…私、もう、だめかも)
確定的な原因があるならいい。
それは分からない、分からないけれど、でも、私はいつからかそんなふうに弱気になるようになった。
小さい頃から気は弱かったし、優柔不断だったけれど、でも、もう少し自分の意思を貫くことができていたと思う。
それが最近、だめなのだ。
毎日起きて、ご飯を食べて、仕事をして、またご飯を食べて――気がつくと、夜を迎えている。
そのことが、嫌というわけじゃない。そうじゃ、ないのだけれど。
でも、何のために、と、考えるとだめなのだ。抜け出せない、思考の渦にはまってしまう。
隣の寝息に気づかれないように、そっとベットを抜け出した。
でも、そこで途方に暮れてしまって、私は情けなくベットの脇に立ち尽くす。
まるで迷子みたい、と、そう考えたら、なんだかとても心細かった。
高校を、大学を卒業して、働き始めて、もう数年が経っていた。
高校の卒業式の日から付き合っている志波くんとの付き合いも、もう片手ではカウントできない。
一緒に暮らし始めて、2年と2ヶ月になる。
相変わらず彼はマイペースだけど、とても強い、強い意志と、大きな目標を抱えて、真剣に生きている。
全てが彼の思い描いたとおりになっているわけではないけれど、
でも、野球という一つのテーマからそれていない仕事をしていることが、十二分にすごいと思う。
これから先も、きっと一生。彼は野球と一緒に生きていくのだろう。幼い頃、抱いた夢を、そのままに。
そんな志波くんを見ていると、どうしても、考えてしまうのだ。
自分はどうなのだろう、と。
幼い頃、私の手は今よりずっと小さかったけれど、それでも、大きくなればたくさんのものがつかめると思っていた。
今は、はさみも、箸も鉛筆も、上手に持つことができないけれど、でも、この手が母くらいの大きさになれば。
きっと、色んなものをつかむことができて、いろんなことが上手にできるようになると、信じていたのだ、それなのに。
現実は、私の手を指先からじわじわと冷やす。
いつまで経っても、私の手は大事なものを掴み損ねるし、器用には動かない。
足元には、指の間をこぼれたものが散らかっていて、そうして私は、途方に暮れる。
本当に、つかみたかったものはなんだった?
つかみたいものがたくさんあった幼いころの方が、きっと私はちゃんと生きていた。
志波くんみたいに、私は上手に、夢をつかむことができなかったのだ。
例えばその、切れ端でさえも。
スタートを切ってしまったら、どこかに進むしかない。
今の私はそんな惰性で、毎日同じ仕事を、同じ生活を、繰り返しているだけ。
私はもう、きっと、ちゃんと生きることもできない、だめな人間になってしまった。
視界の隅のほう、ふと気づく。
時計はまだ夜を刻んでいるのに、カーテンの向こう側がぼんやりと明るい。
その光に誘われて、私はのろのろと足を動かした。
迷子みたい、じゃない。私はきっと、本当に迷子なのだ。
向かう先がわからない。だから、こうしてあてもなく、ちょっとでも明るいほうに進んでみるしかない。
カーテンをめくる。
そこには、見渡す限りの、白、白、白。
(…わ、雪)
きっと、月が出ているのだろう。
ふわふわと落ちてくるその一片に、光が反射して、外は夜でも昼でもない、別世界が広がっていた。
窓を開けたい、と思った。
でも、なぜだかそうすることができずに、少し切ない気持ちでぼんやりと外を眺めていると。
「…」
「勝己…?」
耳元で声がして、顔の少し下、見慣れた大きな大きな、分厚い手。
私の真後ろ、いつの間にか起きた志波くんが、起き抜けの暖かな体温で私を包んでいた。
どうやらまた私は、彼を巻き込んでしまったらしい。
「眠れない、か?」
「ううん、そうじゃない、そうじゃなくて…その、眠るんだけど、目が、どうしても覚めちゃって」
いつもの、「疲れてるんだろ」の代わり、彼の腕の力が、きゅっと強くなる。
私の背中にくっついた胸からは、どくり、どくり、と、たくましい心臓の動きが振動になって伝わってくる。
抱きついてしまいたい、と、思った。
だけど私は、なんでだろう、どうしてもうまく、動けない。
「眠っていたいのに、目が、勝手に開いちゃって」
「…ああ」
「そしたら、雪が降ってるから、窓を、開けたくて…でも、なんだかできなくて」
涙が出る。
なんでなのか、分からない。
分からないけれど、私はもう、きっとだめになってしまったのだ。
だって、うまく動けない。
思ったように手を伸ばせないし、そもそも、どこに向かって伸ばしたらいいのか分からないのだ。
、と、彼の声が私の名前を呼ぶ。
そして、彼の腕はいとも簡単に私の視線を半回転させて、そして、ちゅ、と。
とても切ない、小さなキスをくれる。
「…なあ、」
「うん?」
「どうしてだろう、な」
「…え?」
「子どもの頃、雪が嬉しかった。きれいだと思ったし、わくわくした。それなのに、」
「……?」
「最近雪を見ると、明日の朝、めんどうだなって考える」
「…うん」
会話の合間、ふざけるみたいに、たまに唇をよせながら。
志波くんは、静かに、まるで雪のように続ける。
「、今日は一緒に、一晩起きててみるか?」
「え…でも、」
「たまにはいいだろ」
「…え?」
――だって。
「だって、この雪は綺麗だ。なんだか寝るのももったいねえ、と、思う」
朝になったら、どうせウンザリするんだから。
志波くんが笑うから、私は泣いて、抱きついた。
外に出よう、と、差し出された手を握って。
私たちは真夜中に、アパートの部屋を抜け出した。
「明るいな」
「うん」
「夜じゃないみたいだ」
落ちてくる雪の一片に手のひらを差し出してみる。
そ、と、落ちてきたそれは、私の低い体温になじんで、溶けて。
本当に、したいことはなんだった?
私は何のために、毎日を過ごしている?
「…勝己、私ね」
「うん」
「私ね、ずっと、だめだなあ、って、思ってて。何のために生きてるんだろう、って、思っちゃって」
「…ああ」
「……眠れ、なくて」
「仕事、しんどいか?」
「……うん」
「バカ。そういうことは溜めないで言え。溜めすぎなんだ、おまえは」
言えなかった言葉が、涙と一緒にぽろぽろ落ちていく。
明るい雪に導かれるように。
「大丈夫だ、おまえは」
「え?」
「ちゃんと眠れるし、ちゃんと窓だって開けられる」
「…そう、かな」
「オレもおまえも、きっと気づいていないだけなんだ。雪が綺麗、とか、そういうこと」
志波くんに、導かれるように。
私は何度も、あなたに引き寄せられて、いくつもの幸せを見つけていく。
「オレがいる、とか、おまえは気づかなすぎなんだ」
明るい、明るい雪の夜。
子どもの頃、なんども掴もうとしても形を消した、雪のかけら。
もしかしたら、私の手はそれを捕らえていたのかもしれない。
「」
「うん?」
志波くんのとなりで見つけた、たくさんの幸せも、もしかしたらとっくに――。
ならば、もう一度、手を伸ばしてみよう。
だって、ただ一つ。
確かに欲しいと思えるものが、目の前にあることに、今更、気づいてしまったのだ。
たどたどしく、手を伸ばす。
昼でもない、夜でもない世界、泣きながらぎこちないキスをして、思いっきり抱きつけば。
彼は笑った。
私はだめなんかじゃないんだ、と、そう思わせてくれた彼は、とても柔らかく、笑ってくれた。
「…、結婚しよう」
彼とずっと一緒なら、私はきっと、今度こそ朝を迎えられるんじゃないか、と思った。
だって、私が本当につかみたかったものは。
何気ない、毎日が向かう先は。
きっとこういうものなのだ。
きっとこういう、幸せだったのだ。
END
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※どんなに長く一緒にいても、なんとなく心の中ではずっと名字呼びのような気がする志波カップル。