感情を言葉にするのは、とても難しいことだと思っていた。
私が知っている言葉の数じゃどうしても足りないような気がしたし、
そんなわずかの言葉の中からでさえ、私は必要なものを拾い上げるのがへたくそだから。
それでも、きみが。
きみが笑ってくれるから、私は。
【それでも、きみが】
勢いに任せて玄関を飛び出したものの、数歩走ったところで私はあっけなく志波くんに掴まってしまった。
自分で言うのもおかしな話だけど、なんとも私らしい。
いつもビリだった。走るのも、泳ぐのも。
何をしても鈍くさくて本当に嫌になる。
「」
「……や、だ」
絞り出したのは、言葉、というより、ただの声。
だって、何が嫌なんだろう、私は。
こうして逃げ出しておきながら、追いかけてきてくれないと勝手に不安になるくせに。
引き止めてくれなかったら、わんわん泣くくせに。
わがままだ、こんなの。
どうしていいか分からなくて、ただ駄々をこねているだけなんだ。
何一つ準備なんてできていなくて、私はうつむいた。
つま先をつっかけただけの靴。
志波くんに会いに行くからと、浮かれて買った淡い桜色が、涙に滲む。
「おまえは、何が嫌なんだ」
「ちが、うの。そうじゃ、なくて」
「ああ」
背中を向けている私に、こっちを向けと促すように、志波くんは掴んでいる腕をくいっと引っ張るけど。
私は首を振った。
それしか、できなかった。
ずっと、こうなんだ。
小さな頃から、私は感情を言葉にする方法が、よく分からなくて。
友達の輪の中、たくさんの言葉が飛び交う場所で、私はよくひとりぼっちの気分になった。
奇数の人数のグループにいればいつもあぶれてしまったし、休み時間もいつも相槌ばかりで。
だから、苦手だった。
誰かと自分、たった二人きりになって、向き合うことは、怖くて苦手だった。
でも、大人になればきっと誰でも上手にできるようになるのだと思っていた。
小さな私の目には、大人は完璧な生き物に見えたし、
母親はいつも、口下手な私にかける言葉を、すごく上手に選んでくれていたから。
違ったのに。
誰でも上手になれるわけじゃない、だって今の私はまだ、あの頃の母親にはほど遠い。
いつまで経っても変わらない。
私は大人になっても、何一つ、うまくなんてなれていないのに。
「、とりあえず、こっち向け」
「ごめん、なさい」
「謝らなくていいから。落ち着け」
こんな酷い態度しかとれない私に、こうして優しく諭してくれる志波くんは、私が描く完璧な大人にどんどん近づいていく。
置いてけぼりだ。
そう思うと、涙が止まらない。
卒業して、違う大学に進んで、それだけでなんだか、隙間ができてしまった気がするのに。
寂しくて、何がなんだか、分からない。
掴まれた手を振りほどくことも、かといって振り向くこともできずにいた。
どのくらい、そうしていたんだろう。
私の涙が嗚咽に変わった頃、志波くんは私の体をぐんっと引っ張って、抱きしめてくれた。
そして、「とりあえず中、入るぞ」と、耳元でゆっくり、確認するように言った。
情けなく、戻ってきてしまった部屋の中。
扉の閉まった玄関で、志波くんは私の両手首をきゅっと握る。
真正面の視線。
こうされると、逃げることができない。
「、1つずつ、聞くぞ」
うつむく私の視線を覗き込むように、志波くんはそう言って。
そして握った手首は掴んだまま、腕を持ち上げて、自分の袖口で私の涙を拭いてくれた。
「オレと、ここにいるのが嫌になったのか?」
ちがう、と。
言葉の変わり、私は首を振る。
「触られるの、嫌か?」
もう一度、同じように首を振った。
すると、志波くんは「それなら」、と。
ちょっと背中をかがめて、私と目線を合わせるようにする。
「なんで泣いた?」
「……だっ、て」
「ああ」
「なんだか、さみしく、て」
「電話か?」
今度は、頷く。
その振動で、涙が私の頬にまた新しい筋を作ると、志波くんは眉毛をほんの少し下げて、困ったように笑った。
そして、小さなキスを一つ。
「別に、おまえが寂しがるような仲じゃない」
「……それは、分かってる、けど、」
「けど?」
「分かってる、けど。嫌、だった」
結局、言葉足らずのまま、こうして出してしまった、私の醜い部分に。
志波くんはどんな顔をするのだろうと、恐る恐る顔を上げて、そして私は、驚いた。
だって、そこには。
「……っ」
さっきまでの私みたいに、
言葉を失って、なんとも言えない表情をする志波くんがいて。
どうしたの、と、聞くよりも先。
気がつけば繋がれていた手も片方だけとかれていて、その右手は私の後頭部をがっしりと捉えて、いて。
「え、しばく……」
キスが降った。
夕立みたいな、急いだキスが。
そして顔が離れた瞬間、志波くんはとても苦しそうに笑って、私の肩に顔をつけるから。
私の息が、止まった。
「しば、くん……どうしたの?」
「……分からない」
「え?」
「何て言えばいいのか、分からないが、とにかく、こうしたかった」
照れたように、繋いだ片手をちょっとずつ引っ張り合って、
私たちはまた、さっきの居間の定位置に落ち着いた。
片手には、黄緑色のマグカップ。
今度は私が、ココアをいれた。
「……ごめんなさい」
「うん?」
ずずっと、ココアと鼻をすすりながら。
小さく謝る私に、志波くんは首をかしげる。
「さっき、手、振り払っちゃったから」
「ああ、別に」
「私、その、口下手で、何て言ったらって考えてたら、分からなくなっちゃって、」
「知ってる」
そう言って笑う志波くんの暖かな息が、私のぎこちない言葉を、ふわりと包む。
「それに、オレもだ」
「え?」
「嫉妬が嬉しいなんて、ひどいこと考えた」
「……えっ?」
「言いたいことは別にあったのに、気づいたら、体が先に動いた」
「……あ、の」
「今でも、何て言ったらいいのか、よく分からない。が、」
真っ赤な顔。
志波くんはちらりと私を見て、そしてやっぱり、キスをしてから。
「オレが好きなのは、間違いなくだ、ってこと、だ」
オレこそ口下手で悪かったなと、そう、むすっと言った彼に。
私は笑った。
十分伝わるよと、今度は私も小さく、キスを返してみた。
ずっと、感情を言葉にすることが苦手だった。
向き合うことが、苦手だった。
今も変わらない、私はやっぱり完璧な大人じゃなくて、たくさんの失敗をする。
でも、それでも。
言葉足らずな感情を、受け止めてくれる人がいるから。
すごく小さな一歩だけれど、踏み出してみるのも、いいのかもしれない。
「……泣き虫」
皮肉みたいに、ちょっとイジワルに笑った彼に、
私は溢れる感情から、たった1つだけを。
取り出して、それを言葉に変えてみた。
だいすき。
頬を掠める吐息も、触れる温度もどれも暖かくて。
気がつけば。
外のぽかぽか陽気はもう、私のところまでたどり着いていた。
END
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