いつまでも、上手にならない私を見て。
彼はいつも、イジワルな顔で、からかうように。
下手くそ、って、笑うんだ。
【ゆるゆる、溶けて】
読んでいた文庫本から視線を上げると、窓から差し込む光で目が痛んだ。
思わずしかめっ面になって、ふう、と、ため息を一息。
抱え込んでいた膝が少し汗ばんでいるのに気がついて、フローリングの床に足を投げ出した。
「……ん?」
背もたれにしていたベッドから、低い、かすれた声がする。
振り返ると、そこでお昼寝していたはずの志波くんが、その大きな手で顔を覆ってごしごししていた。
「起きたの?」
「…んー……」
まだ寝ぼけ半分のようなその声に、私は文庫本をテーブルに置いて笑った。
体ごとそっちに向けて、ベットに肘を置く。
志波くんは、さっきの私と同じように、窓の外にしかめっ面を向けていた。
「暑いよね、今日」
「ああ。……うわ、オレ、すげー汗だ」
「わ、ほんとだ」
水で絞ったタオル持って来ようか?と聞いてみたけれど、彼は首を横に振って起き上がった。
その瞬間、志波くんが窓の光を遮って、私は影の中。
今度は急に暗転した視界に目をしかめると、ちゅ、と。
唇に、熱い温度がふれた。
「シャワー浴びてくる」
その、一瞬のキスに、思わずぽかんとしてしまう私を。
志波くんは声を出さずに、静かに、笑った。
高校の卒業式に告白されてから、もう、1年半。
大学の寮に入ってしまった志波くんとは、なかなか会うことはできないけれど。
メール嫌いの志波くんが、毎日メールをくれる。(文面はすごく短いけれど。)
電話だって、週に1度は必ずかけてきてくれる。(志波くんは相槌ばかりだけれど。)
大学に入ってバイトも始めた志波くんは、部活と授業と本当に忙しそうだけど、
それでも、月に1〜2回は会う時間をつくってくれる。
とても、幸せだ。
離れていても、私たちの時間はいつも穏やかで、どこか、優しい色をしている気がして。
特に、会うたびに柔らかくなる志波くんの視線はとびきり優しくて、
そんな極上の視線を私に向けて、彼は何気なくキスをするから。(さっきの、起き抜けのとき、みたいに。)
何気ないキスに。その穏やかな笑顔に。
私は何度も、恋に落ちてしまうんだ。
幸せに気持ちがするすると解けて、つい、にへらっと笑ってしまうんだ。
シャワーの音が止まったから、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出した。
氷の入ったグラスにそれを注ぐと、カキカキッと夏らしい音がした。
「あ、タイミング、ばっちり」
振り返ると、真っ白なタオルをかぶった志波くんが立っていたから、そう言って笑った。
志波くんは一瞬、不思議そうに眉を細めたけれど、私の後ろの麦茶を見て、「ああ」と小さく呟いた。
「っていうか、なあ……」
っていうか、なあ。
私の脇から手を伸ばし、早速麦茶をごくごくと飲む志波くんに、私は参ってしまう。
「なんだ?」
何につけても、この人はずるい、と、思うのだ。
パンツいっちょに、タオル一枚。
私のお父さんが同じ格好をしたら見られたもんじゃないだろうに、どうして志波くんはこんなにも。
例えば、首筋から肩にかけての立派な筋肉だとか、日焼けした肌、とか。
厚い胸板も、割れた腹筋も、どうにも形になりすぎている。
着飾らなくても十分に魅力的で、会うたびにどんどん大きくなる彼に、私はずるい、と思ってしまう。
「おい、なんだよ」
飲み終えたグラスを、ひょいっと私のほっぺたにつけて。
そのヒヤッとした感触に私が思わず身を震わすと、彼は鼻で笑った。(ふっ、って言った。)
「なんか、ずるいね」
「なにがだ?」
「志波くんが、だよ」
「だから、オレの何が、だよ」
「……ぜんぶ、だよ」
太刀打ちなんて、できっこないことはとっくに知っていたけれど。
私は自分の分の麦茶をごくごくと飲み干して、氷をひとかけら、口に含んだ。
そして。
そして、タオルをぐっと。
引っ張ると同時に降りてきた彼の顔に爪先立ちで近づいて、唇を狙い撃ち。
氷をえいっと、彼の口に滑り込ませる。
「……見たか」
照れ隠し、どうだと言わんばかりにそう呟いたけれど、返ってくるものなんて、知っている。
だって。
いつまでも、なにも上手にならない私を見て。
彼はいつも、イジワルな顔で、からかうように。
下手くそ、って、笑うんだ。
そう、幸せそうに笑うから、また私は恋に落ちるんだ。
「……下手くそ」
案の定、私の下手くそなキスに、彼は笑って、口の中の氷のかけら、は。
私たちの間をつるつると、何度か移動して、ゆるゆる、溶けて。
とびきり暑い夏の音の中、私はまた、恋に落ちる。
変わらない私は、どんどん大人になる、大きな彼に。
溶けるように、恋に落ちる。
END
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