その夜、お風呂から上がった志波くんは、それ以上私に何も聞かなかった。
私も、何を話したらこの空気を取り繕えるだろうと考えたけれど、沈みきった私の思考では何の言葉も拾うことができなかった。
静かな夜だった。
何も言えない私を、志波くんは抱きしめて眠ってくれた。
その、いたわるような行動に、もしかしたら彼は少し前から、落ち込んでいる私のことを電話口の声で分かっていたんじゃないかと思った。
分かっていて、今日、突然に会いにきてくれたんじゃないか、と。
彼の、温かな腕の中。
志波くんのその、どこまでもさり気ない優しさが嬉しくて、私はまた、少しだけ泣いた。
【夜明け前・2】
翌日。
秋晴れの空は、どこまでも高い。
久しぶりに隣を歩く志波くんの背丈も負けじと高くて、私は空と志波くんを、こっそり眺めた。
「今日は、暖かいな」
近所の川沿いを歩きながら、志波くんはぽつりと言葉をこぼす。
「うん、晴れてて気持ちがいいね」
「ああ……なんか、走りたくなるな」
彼は、口の端で意地悪そうに笑いながら、私に視線を降ろす。
それは、とても彼らしい一言だったから、私はわざと眉をひそめて、「えー……」と返した。
彼はたまに、こういうことを言う。高校生の頃からそうだった。
私の運動音痴を、それは楽しそうにからかうのだ。
「ちょっと走るか?」
にやりと笑う顔に、思いっきりブンブンと顔を振り返す。
「嫌だよ。私、置いて行かれちゃうもん」
「ハンデやる」
「ちょっ、ちょっと、どれだけの距離走るつもりなの?」
「そうだな……軽く3〜4キロくらい?」
「うわ、長いよ!」
むすっとした私の頭の上、大きな手のひらがポンポンと優しく動く。
本気じゃないことくらい、知っている。
いつだって、そうだった。
体育祭の前、マラソンの授業の前、球技大会の前。
私が落ち込んでいると、彼はこうしてからかって、でも最後にはいつも力になってくれて。
練習に付き合ってくれたこともあった。励ましてもらったことなんて、もう数え切れないくらい。
彼にとっては遅すぎて走りにくいであろう、私のペースに合わせて走ってくれたり、
ちっとも上手くならない私のバレーのサーブを、辛抱強く受けてくれたり。
「追い抜いても、ちゃんと先で待っててやるよ」
どうしてなんだろう。
彼一人なら、もっと早く走れるのに、強いボールを打てるのに。
のろまな私を振り返ってくれたり、少し先で待っててくれたりするのだろう。
「……ねえ、どうして?」
貴重なお休みの日、どうして私に会いに来てくれるの?
皮肉になる私を怒りも苛立ちもせずに、どうして抱きしめてくれるの?
昨晩、よく眠れなかった私が、浅くて短い夢から起きたとき。
明け方の寂しい空気の中、涙を流さずに済んだのは、一晩中抱きしめてくれたぬくもりがそこにあったから。
寄り添ってくれる体温があったからだ。
「時間、かかっちゃうよ? 私、のろまだし」
「ああ、知ってる」
「……否定しないんだ」
「ああ」
いじわる、と、そっぽを向いてみせた私に。
志波くんは、小さく声を漏らして笑った。
「……それでも待っててくれるのは、どうして?」
「え?」
「どうして、そんなに優しいの?」
「決まってるだろ」
自信を持ったその声に、驚いて顔を上げる。
そこには、優しく笑う志波くんがいた。
「遅くても、いいだろ。待ってりゃ、来るだろ?」
「え、あの……うん、多分」
「多分、とか、どうせ、とか、おまえはいつも、そんな答えばっかりだけど、でも、」
「……でも?」
「でも、いつだって来るだろ。遅くても、なんでも、ちゃんとゴールするだろ。
手抜きしてないの、頑張ってるの、オレは知ってる。
……だから。のそういうところ、好きだから、待ってる、いくらでも」
そう言った志波くんは、体ごと私に向き直った。
真っ直ぐに、強く、私に向けられる視線。
昨晩のように、私はもう、それをかわしたりしなかった。
上ろうとしていた階段に背を向け、私も志波くんに体ごと向き直る。
(ああ、そうだ)
いつだって、待っていてくれる、信じてくれる。
遅くても下手くそでも、いつだって彼は私を信じてくれる。
だから、前に進めたんだ。だから私は今、ここでこうして大学生になっていて、先のことで悩んでいるんだ。
昨日だって、夜明け前の温もりがあったから。
だから私は落ち込みながらも、こうして未来のことを考えることができるんだ。
「ねえ、志波くん」
「うん?」
ずっと、自分に自信が持てなかった。
印象の薄い顔立ちも、人に埋もれるような背丈も。
運動も、勉強だって得意じゃないし、人に負けない特技もない。
ずっと、自分が好きじゃなかった。
好きになれる部分なんて、一つもないと思っていた。
でも、こうして見ていてくれる人がいる。
寄り添ってくれる人が、私を好きだと言ってくれる人が、見捨てないでくれる人が、愛してくれる人が。
志波くんが、いる。
だから、頑張ろう。
自分に自信が持てるように。自分を好きになれるように。
私がが信じる“前”に向かって進めるように。
自分のペースで、私らしく、答えを見つけよう。
「泣いても、いいかな?」
後ろ向きに、階段を1段、2段。
上ったところで、私は彼にそう問いかける。
いつもよりも高くなった私の視線が、角度なく志波くんのそれとぶつかる。
何もかも知っているような、穏やかな眼差しだった。
やがてそれは近づいて、私たちの距離はゼロになった。
「ああ、いいよ」
ふわり、と。
抱きしめてくれた彼の腕の中、私は泣いた。
「はのペースでいいんだ」と、耳元に寄せられた言葉が、夜明け前の体温のように温かいから。
私はひたすら泣いた。
泣けるだけ泣いた。
また明日、前を探すために。
大好きな志波くんの隣に、ずっと、ずっといられるように。
好きだ、と、その嬉しい言葉を頭の中でリピートして。
私はぎゅっと、彼に抱きついた。
END
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*就活つらいよね。