何のために生きるのか、なんて分からないけれど。
私が今、誰のために生きたいかと聞かれたら、それだけははっきり答えられる。

この気持ちが、依存だと呼ばれてもいい。
毒でも、それでもかまわない。

問題は、良いか悪いか、じゃなくて。
好きか、嫌いか。イエスか、ノーか。
こんな気持ち、重いものでしかないことも十分承知だけど。

でもね、姫条さん。私はどうしても。

あなたと、1年でも、1ヶ月でも1日でも、1分でも、1秒でも。
長く時間を共有したいと思うよ。
それは例えば、あなたの隣じゃなくても。
この地球のどこかに、姫条さんがいる。それだけでもかまわない。

生きる意味がないってあなたが言うなら、私はそれを探す。

それが私の生きる意味だということを。
許してはもらえませんか?






【身体に染み付いた匂い】






「姫条さん、サイですよ」
「サイやなぁ」
「でかいです」
「…でかいなあ」
「サイですね…」
「ああ、どっからどう見てもサイやね」

人がまばらな動物園で、私たちはぼーっとサイを眺める。
ここも、休日だったら人も多いんだろうけれど。
私たちの休日は、イコール世間の平日。
バーの仕事は、世間と時間がずれているとつくづく思う。

「人より動物のほうが多そうですね」
「そやな。サル山のサルだけで来園者超えそうやな」
「ね。サイは一人ぼっち…一匹ぼっち?だけど」
「でも、見てんの俺らだけやしな」
「ですね」

サイは退屈そうに、もそもそと口を動かしている。
その姿は原始的で、何億年も前の生き物みたいに見えた。
もっとも、あまり進化しなかっただけで、このサイはまだ若いのかもしれないけれど。

「なあ、なんで急にサイなん?オレんこと、口説いてるんちゃうの?」
「口説いてますよ」
「ならもっと、他にあったと思うんやけど。映画とか、飯とか、ホテルとか」
「…見事に人間の三大欲を満たせるような場所を並べましたね」
「やって、動物園て」
「好きなんです、サイ」
「好きだからってなあ…」

分からんわ、と姫条さんはサイを見つめる。
こんなに退屈で動物臭い場所、口説くときには使わんやろ…とぼやく声がする。

「…好きな人とは、好きなものを見たいじゃないですか」
「は?」
「姫条さん、好きなもの教えてくれないから。とりあえず私の好きなものを」

姫条さんは一瞬きょとんとした顔をして、すぐにあはははと声を上げて笑い出した。
そして、言った。

「はは、なんやの、それ。ジブンが楽しいだけやんか」
「二人とも楽しくないよりはいいかなと思って」
「あは、はは!ま、それはそか」

声を上げて笑い続ける姫条さんと、それに少し膨れ面になった私の前では。
サイは変わらず、退屈そうに宙を見つめて口を動かしていた。






姫条さんを見ていると思う。
私は、いい、遊び相手なんだと思う。
“いい”というのは、良し悪しのレベルじゃなくて、ちょうどいいの“いい”。
我ながら、ちょっとひねくれた愛情表現しかできてないけれど、それでも私はやっぱりバカみたいに姫条さんが大好きだし。
それに、絶対に姫条さんには勝てない。
暇だと思ったら使えばいいし(それは私が自分でもそう伝えているし)、邪魔だと思ったら簡単に除けることもできる。

こんなの健全な関係じゃないし、普通に考えたら私は怒ることなのかもしれないけれど。
好都合だと思っている。
少なくとも、彼に邪魔にされることはないから。
それになにより、遊び相手だとしても。姫条さんの人生を、少しでも延ばすことができる可能性を与えられているのだから。
そんなことは無理だと分かっていても、意味のないことだと分かっていても。
私は彼に溺れているのだから仕方ない。
彼のために何かしていることが、単純に嬉しいのだから。

「サイって、なんか化石みたいやな」

姫条さんが言う。
振り返ってみたけれど、彼は私を見るでもなく、ただじっとサイを見ている。
あんな風に言っていたのに、実はちょっと動物園を楽しんでいるような気がする。

「化石ですか?でも、さっきから動いてますよ。地味に」
「ああ、なんちゅーか、生きた化石?」
「原始的な生き物?」
「そうそう。なんか、この世の中にあってないっちゅーか…あんま進化してないような気せえへん?」
「そうですね。私もさっきからそう思ってました」
「…不思議やなー。一方では、人間みたいに進化しすぎたようなイキモンもおるのに」

目の前のサイが、ゆっくりと腰を下ろす。
自然の中と違って、ここでは危険がないことを理解しているのか、それとも自然の中でもそうなのか。
サイは目を細めて、ウトウトし始めた。
姫条さんはその様子に、「やる気ないなー」とつぶやいて、そして空を見上げた。

「…どんな気分なんやろな」
「何がですか?」
「サイ。こんな時代の、しかもこんな動物園なんかに閉じ込められて」

…閉じ込められる。
私には、サイがそう思っているとは思えなかったけど、確かにそうなのかもしれない。
私が答えあぐねていると、姫条さんは淡々と話を続ける。

「何のために生きとるんかな」
「何の、ため?」
「食って寝て、食って寝て。んで、子孫残して。今まで生きてきたわけやろ?」
「そうですね」
「なんか…淋しいな」

何がですか、と聞こうとしたけれど、横にいる姫条さんを見て、私はすぐに口をつぐんだ。
だって、いつも穏やかにしか表情を変化させない姫条さんが。
何か、とてつもなく切ないものでも見たかのように、下を向いて顔をゆがめている。
呆気にとられて、ずっと姫条さんを見ていると。
彼は私の視線に気づいて、そして顔を上げて笑って見せた。

「な、タバコ吸いたなってきたわ。ここで吸ってええ?」
「え?ダメですよ。ここ、禁煙ですよ。動物園ですし」
「あー…そか」
「それ以前に、煙草はダメです」

私が言うと、彼は柵にもたれかかれるようにサイに背を向けた。
そして、いつものように真っ直ぐに見据えるような視線で私を見て。
ニヤリと笑う。

「あはは、そやったな。じゃ、約束どおりキスしてええ?」
「は!?ここで、ですか?」
「ええやん。人おらんし」
「…サイがいますよ」
「寝とるよ」

姫条さんの手が、滑らかに私の耳の上にかかって。
そしてゆっくり奥の方へ指が進んでいく。

「…お日様の下で、キスするの。イヤそうだったじゃないですか」
「そんなことあらへんよ?ただ…」
「ただ?」
「……いや」

ことばを濁した姫条さんは、少し強引に自分の唇を私の唇に当てた。
そして次第にそれは深くなって、私は思わず目を閉じた。
姫条さんの苦い煙草の香りに、動物の匂いが混じる。
苦しい、と思ったところで、そっと口が離れた。

「……やっぱり、ホテルでも行かへん?」
「…断ります」

言い切った私に、姫条さんは「難しい姫さんやなあ」と笑う。

「オレのこと口説いてるって言ってみたり、拒否してみたり」
「…だって、分が悪いです。私ばっかり弱み握られに行くようなもんだし」
「そか?オレかて、案外ぽろっとボロ出すかもしれへんよ?」
「そうは思えないですよ」

私はサイに背を向ける。
そして、「さ、次はライオンでも見に行きましょう」とそっけなく言った。
すると、突然姫条さんは私の腕を引いた。

…驚いた。とても。

なんていうか…こんな風に姫条さんが私に触れるのは初めてだったから。
キス以外のときに、しかも、こんな風に私の動きを妨げるみたいに。
彼の、意思で。私に触れることなんて初めてだったから。

「…姫条、さん?」

振り返って呼びかければ、彼は私の目をじっと見る。
そこには、いつもみたいな意地悪な、からかうような色は一切ない。
初めて姫条さんの目を、見た気がする。
「姫条、さん?」私はもう一度そう言った。

「…なあ。オレかてボロくらい出すよ」
「え、あ…はい」
「……今から、出すから。見てみぬふりしてくれへん?」
「…いいですよ」

私の返事を合図に、彼は私を引き寄せて。
そのとても綺麗な肩を使って、私を腕の中に閉じ込める。
苦しかった。
煙草臭いキスよりも、ずっと。



頭の上から、姫条さんの言葉が降ってくる。

「…オレ、サイみたい」
「姫条さんが、サイ?」
「そや。当の昔に、進化が止まったイキモノ」
「………」
「なあ、オレ、ジブンに会って思うようになったんよ。オレって、生きる意味あるんやろか」
「…姫条さん?」
「ジブン、必死にオレのタバコ止めてくれるやろ? でも、そうまでして生きたいと思えへんのよ」

姫条さんの肩に、ぐっと力が入る。
私の鼻と口は姫条さんの胸に押されて、入る空気が薄くなった。
でも、苦しいのは呼吸じゃない。
もっと、別のところ。

「もう、オレ、ジブンの人生のどこが燃えとるんか分からへん」
「……」
「…そもそも、火がついとるのかも分からんようになったんよ」

「なあ、何でジブンは、そこまでしてオレを生かそうとしてくれんの?」



「何にも知らんオレのこと、なんでそんなにしてくれんの?」



姫条さんの呼吸が、一瞬だけ、まるで水の中からあがったように乱れたのを耳で聞いた。
私は彼の背中をぽんぽんと叩いて、合図を送る。
少し、腕を緩めて…?
その合図は彼に伝わったようで、わずかに腕の力がゆるくなる。

「…知ってますよ」

ほんのわずかにあいたスペースから、私は言葉を紡ぐ。
彼にだけ聞こえるくらい、かすかな音で。

「バーは夢の世界だと思ってること」
「は?」
「髪の毛は猫っ毛でちょっと長いこと、関西弁をしゃべること」
「……」
「とても、綺麗な肩を持っていること、実は今日、動物園を楽しんでたこと」

それは、ジブンの願望ちゃうの?
彼の言葉に、私は笑う。

「キスするとき、必ず耳の上に指を差し込むこと。そのキスは、とてもタバコ臭いこと。そして」
「…そして?」



「半端じゃない、ヘビースモーカだってこと」



私は彼の胸を軽く押して、身体を離した。
そして顔を上げる。
姫条さんは泣いていなかった。泣いているかと思ったのに。

「生きる意味なんて、進化しても変わりませんよ」
「進化しても?」
「食って、寝て。子孫残してそれで終わりです。イキモノだもん、生きることが意味なんです」

私はサイを振り返る。
サイは相変わらず目を閉じていた。
自然の中でも、彼らはこうして眠るんだろうか。
そんなこと、分からない。でも、どこにいたって、眠らなきゃいけない。食べなきゃいけない。
死ぬ間際、ギリギリになるまでは、性欲だって尽きることはない。

「でも、姫条さん」

私は彼の名前を呼びかける。
サイの耳が、ピクリと動いた。

「それだけじゃ不満なら、覚えておいてください」
「…何を?」
「私は、あなたに長生きして欲しい。姫条さんが、好きだから。惚れてるから」

姫条さんとの朝寝坊なんて最高に贅沢だし、姫条さんと食べる食事はとても美味しいと思います。
私は言う。

「生きる意味が足りないなら、私のために生きてみません?」
「ジブンの、ため?」
「私は、姫条さんのために生きますから。姫条さんの人生がちゃんと燃えるように、見張ってますから」



「私のために、死なないで下さい。…何か足りないなら、これだけでもう、十分だと思いません?」



姫条さんは、目を見開いて私を見て、ぶっと噴出して笑った。声を上げて、笑った。
そして、ここに来たときとと同じ言葉を紡ぐ。「やっぱりそれって、ジブンが楽しいだけちゃうの?」
私は返す。「二人ともつまらないよりいいかなと思って」と、やっぱり同じように。

「欲張らなくたって、一人ぼっちじゃないだけで、素敵な人生ですよ」
「…そうなんかな」
「サイなんて、一人ぼっちで寝てますよ」
「そういえばそうやな」
「それに、これだけ姫条さんのこと知ってれば、十分惚れる理由になります」
「それは…そうかー?」
「だって、もう…」

「私の身体には、姫条さんの匂いが染み付いてるから」

私は姫条さんの耳の上に指を差し込む。
猫っ毛がさらさらと指の隙間を流れていく。
キスを、した。
そのキスは、今までで一番、短くてそっけなかったけれど。
一番、暖かくて強かった。





彼の指も、いつの間にか、私の耳の上に差し込まれていた。
いつもよりも、大きく、力強く。





「よう分からんけど…なんか嬉しいから。一つだけ教えたるわ」
「あ、煙草の量?」
「それはヒミツ」
「ケチ。じゃあ歳?」
「それもヒミツ」
「ドケチ。何ですか?」
「今日、オレ誕生日なんよ」
「…は?」
「6月18日」
「え! うそ! 早く言ってくださいよ!! ど、どうしよう」
「はは、何がやねん。どうもせえへんわ」
「な、何欲しいですか?」
「お、何かくれんの?」
「あいにく貧乏ですが…なにかできることがあれば」
「じゃあ、ジブン」
「……は?」
「ジブンを、ちょうだい?」



「なんか、オレ、今日もう一回生まれ変われそうな気すんねん」



熱い(きっと赤い)顔で、私は姫条さんを見る。
じゃあ、煙草やめられますか?と聞くと、それは別、と笑われた。
やっぱり姫条さんは、いつまで経ってもヘビースモーカーなのかもしれない。
私は呆れて、笑った。
そして、初めて手を繋いで動物園の出口に向かった。

私たちの背中では。
進化をやめてしまったサイが、太陽の光を浴びて眠っていた。
その後ろから、もう1匹、大きな大きなサイが出てきて寄り添ったのを、私たちは知らないけれど。
2匹のサイは、翌朝、贅沢な朝寝坊をした私と姫条さんのように。



それは幸せそうに、眠っていた。






END






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