だだっ広い部屋の中。
手持ち無沙汰な私は、ただ一心に、マニキュアを塗っていた。
真っ赤な、すっごく派手なマニキュア。
似合わないことくらい、自分でもよく分かってる。
でも、他にすることがない。
間違って買ってしまったマニキュアを塗ること以外、何も。
【14 甘えは大事】
つい、さっき。
今日帰ってくるはずの要さんから、電話がかかってきた。
映画のクランクアップパーティーに顔を出してきてもいいか…って。
私は、いいよ、大丈夫だよと、頷くしかできなかった。
…だって、我侭なんて。
アメリカにきて、頑張って仕事をしている彼に、言って良いことじゃないと思ったから。
時計の秒針だけが響く部屋の中で、私はマニキュアを塗る。
左手は塗り終わったから、次は右手。
右手は、ひざとか、何か丸みを帯びたものを軽く握って。
左手首をテーブルの上に置いて塗ると、なかなか塗りやすい。
それでもたまにブレてしまうときはあるけど、慣れてくれば綺麗に塗れる。
左手と変わらないくらい、綺麗に。
利き手を塗るのは苦手だったけど。
要さんが映画の撮影に出てから、毎日繰り返すうちに、大分上手くなったと思う。
10本の指は、たちまちに赤く染まってしまって。
(こんなの、暇つぶしにもならないじゃない…)
まだマニキュアの乾かない爪をもてあましながら、
私は時計を見て、そして部屋を見渡した。
テレビをつけても。
雑誌を開いても。
ラジオをつけても。
この国で聞こえてくるのは、英語ばかり。
私は英語が分からない。
慣れようと思って勉強はしているけど、なかなか思うように上達しなくて。
テレビやラジオから聞き取れる言葉なんてほとんどないし、雑誌を見たってそれは同じ。
この、マニキュアも。
買い物に慣れようと思って行った店で、うまく英語が使えなくて。
出されたものに、頷くしかできなくて、間違って買ったもの。
本当は。私が欲しかったのは、このマニキュアの隣のとなりの斜め後ろにあった。
もっと薄い色…そう、桜色のマニキュア。
あれが、欲しかった。
「似合わない」
爪を見て、声を出してみる。
独り言でも言ってないと、誰かの声を聞く機会もない。
「全然、似合わない」
自分の声が、一人でいるには広い室内に響いて、私に降ってきた。
気がつくと、もう日は暮れていた。
やっぱり、夜はきてしまった。
要さんのいない夜は、永遠に思えるほど長くて、私の一番嫌いな時間。
夕飯の時間はとっくに過ぎていたけれど、私は食事の準備をする気になれなかった。
スープパスタが食べたい。
いつだったか、薫が連れて行ってくれた、あの店の。
サラダがセットになった、スープパスタ。
それ以外は、食べたくない。
そういえば、こっちに来てから。
私があまりにも食べないもんだから、要さんは少し心配してた。
「こうなったら、意地でも明里が美味いと思える食いもん探そうぜ」
多くの人と接しているせいか、それとも以前から勉強していたのか。
私よりもずっと英語が話せる要さん。
こっちでできた友達から聞いたとかで、次から次へと私を色々な店に連れて行ってくれた。
ああでもない、こうでもないと呟きながら、
見たこともない野菜を、お料理してくれたこともあった(ちっとも美味しくなかったけど)。
明里、なに食いたい?
ご機嫌な、彼の顔が浮かんだ。
私に話しかけるとき、要さんはほとんど笑っている。
「…スープパスタ」
一人で座るとスペースが余るソファで、私は呟く。
ぼんやりと、足元のカーペットの柄を見つめながら。
「スープパスタが食べたい…」
何を。
誰に言ってるんだろう。
材料も、作ってくれる人も、食べに連れてってくれる人も、いないのに。
ここには、私一人しかいないのに。
「食べたい…」
私は泣いた。
おなかが減ったと、まるで子どもみたいに。
小さい頃、お母さんが私を置いて、出かけてしまったときみたいに。
クロゼットの中からアルバムを引っ張り出す。
パパやママ、和希。薫。
そして、要さん、私。
みんなの笑顔を見ていたら、泣けて泣けてたまらなかった。
顔はぐしゃぐしゃで、綺麗なのは似合わない爪の赤だけ。
アルバムを手にしたまま、私はキッチンへ向かう。
泣きすぎかな?喉が渇いた。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出して、コップに注ぐ。
とくとく、と。
満たされていくそれを、ぼやけた視線で見ていた。
…すると、
がちゃん、と。
玄関から突然大きな音が聞こえて、
驚いた私は、水の入ったコップを倒してしまった。
「ただいまー」
大きな音は、要さんの出した音だった。
玄関から、ずっと待っていた人の声がする。
こぼれた水は、どんどん広がっていくけど。
私はコップを起こすこともせず、そのまま声のする方へ走っていった。
「明里ー?」
途中で、ひょっこりと。
リビングに彼が顔を出して、私は飛びついた。
「おわっ!」
「…っ!」
「ど、どうした?」
…ねえ、要さん?
寂しかったの、すごく。
すごく、すごく、心細かったの。
声にはならなくて。
私はぎゅっと、彼にしがみついた。
私の真っ赤な目から、枯れない涙が溢れて、広がった。
さっきこぼれた水みたいに。
視界はかすんで、マニキュアの赤がにじんで見えた。
「…どうした?寂しかったか?」
呟いた彼は、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
要さんの胸に鼻を寄せると。
外のにおいがして、私はまた少し寂しくなった。
私はしゃくりあげるだけで、何も言えなかったけど、
リビングに広がっているアルバムと、キッチンのこぼれた水を見て、要さんは全部を理解したみたいだった。
彼は、私をそっと抱きしめ直して。
ぽん、ぽんと。
まるで赤ん坊をあやすように、私の背中をたたく。
いつもは、ぎゅうぎゅうと締め付けるように私を抱くその腕は、ゆるりと私を包んで。
なんだか、安心した。
安心したら、もっと涙が出た。
「ごめんな、寂しかったな?」
思いっきり首を横に振ったけど、もちろんそんな強がりは通用しなくて。
要さんは少し困ったみたいな顔をして微笑んで、私を抱く腕に力を込めた。
「甘えていいんだぜ?」
「……っく…」
「飛んで帰って来るから」
でも、お仕事。
そう言ったつもりだったけど、舌が回らなくかった。
要さんはちょっと笑った。
大丈夫かよ、と。
「爪、綺麗に塗ったな」
「…似合わ…っく…ないもん」
「そか?」
「……違うのが、ほしかったのっ…」
「どんな?」
もっと薄くて、もっと柔らかい色の。桜色のマニキュア。
私が答えると、要さんは少しだけ身体を離す。
そして、私の顔を覗き込む。
「じゃあ、一緒に買いに行こうぜ。な?」
「…うん……」
「付いててやるから。ちゃんと買えるように」
「うん…」
「……要さん」
「うん?」
「声がね、聞きたかった…」
「ああ」
「…会いたかった…」
「うん」
「心細かったの。心細くて、寂しかったの」
「うん、ごめんな」
しばらく私は泣き続けた。
要さんは、やっぱり赤ん坊をあやすように、私の背中をさすったり叩いたりしながら。
打ち上げくらい、抜けて帰ってこられるから。
それが出来なくても、電話ならいつでもできるから。
できる限りのことはしたいから、次からは甘えてくれよ?と、私に言った。
その言葉はとっても優しくて、やっぱり私は、上手く泣きやめなかった。
少し落ち着いてから。
私たちは2人で、遅い夕飯を食べた。
要さんが作ったこっちの食材の料理は、やっぱりちっとも美味しくなかったけど。
私は、お腹がいっぱいになるまでフォークを動かした。
要さんも、外で食べてきたって言ってたのに、どんどん食べていた。
「なぁ、美味いか?」
「…美味しくない……」
「うーん、やっぱダメ?」
「うふふ、ウソ。ちょっと美味しい」
「ちょっとかよ」
「ふふ」
心細さや寂しさは、簡単には消えないけれど。
枯れないはずの涙も、気づけば。
綺麗に乾いて、笑顔に変わる。
「明里、いっぱい食えよ」
「うん、ありがとう」
「…俺も、ありがと、な」
…それはきっと、あなたが。
あなたが側にいるから。
2人でいれば、きっと。
きっといつか、夢にだって手が届く。
私たちは、顔を見合わせて。
頑張ろうね、と笑った。
END
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※アメリカ行きは急すぎます。ええ?!頷いちゃうの、明里ちゃん!と、ビックリしました。
でも、きっとホームシックになると思うんですよ。
話は飛びますが、炎樹が英語ペラペラだったら、萌えるな、と思いました。