―人間が、一生のうちに打つ鼓動の数は決まっている―
大好きなじいちゃんにそう教わったとき、俺はまだ幼くて。
怖くてしがみついたじいちゃんの胸の中、不安な気持ちになったのを覚えている。
どくん、どくん、どくん…と。
力強いその音は、命を削る音なのか?
いつかやってくる終わりへ向かう音…なのか?
…そして、今でも。
【20 いつかやってくる終わりへ】
―AM5:47。
嫌な夢にふと目を覚ます。
ぼんやりとした思考の中、俺は不意に目に手をやる。
(げ…涙…)
泣きながら起きるなんて、何年ぶりだろう。
小さい頃は、こういうこともあったような気がするけど。
…大人になってから…特に最近は。
明里が隣にいることも多くなったから、幸せな目覚めを迎えることが多かったのに。
(なんだかすげぇ、心細い…情けねえ)
俺は隣で眠る明里を抱き寄せる。
…起こさないように、ゆっくりと、静かに。
その体はとても暖かくて、やわらかくて。
そしてそこからは、確かな鼓動の音が響いてくる。
―人間が、一生のうちに打つ鼓動の数は決まっている―
今でも。
あのじいちゃんの言葉は、根強く俺の中に残っている。
リビングのソファで、寄り添ってテレビを見ているとき。
一緒にお風呂に入って、後ろから抱きしめたとき。
昨日みたいに、ベットの中でどんどん早まる…明里の鼓動を聞いて。
…俺は不安になる。
あと何回、この音が響いたら。
明里はこの世からいなくなる?
明里のぬくもりが…消える…?
終わりが、来るんだ?
怖くて、怖くて。
そういうとき、俺は決まって名前を呼ぶ。
「…明里」
ゆっくりと、開かれる目。
「ん……要さん…?どうしたの?」
声。
「…いや…」
「……泣いてるの?」
伸ばされた手の、ぬくもり。
そうやって、明里の存在を…1つ1つ確認する。
「起こしたな…悪い」
「…ううん、いいのよ」
「…ちょっと…抱きしめてくれねぇ?」
「うん…嫌な夢でも見た?」
「…あぁ…」
生きてるんだって、確認する。
さっき見た悪い夢は、虫の知らせだったのかもしれない。
その日の朝、仕事に出る直前に、お袋から電話が入った。
――じいちゃんの訃報だった。
『要、今すぐ来られる?』
「あぁ、行く…」
『落ち着いて、気をつけて来なさいよ』
「分かってる…」
――なんとなく、状況を飲み込めないまま。
電話を切って、キッチンにいる明里の元へ向かう。
「明里…」
「あ、要さん。電話、なんだって?」
「……じいちゃんが、亡くなったって…」
「えっ…」
「昨晩…老衰だったって。だから、俺、今から…」
要さん?…と。
明里に呼びかけられて、自分が震えていることに気づく。
(じいちゃんは、もういない?)
(もう、会えない…?)
色々な気持ちや、思い出が…次から次へとあふれてきて。
喉の奥に何かがこみ上げてくるのを感じて、俺はぐっと飲み下す。
涙の、味。
「要さん」
「…あ、悪い」
「今からそこに行くんですね?」
「…あぁ」
「とりあえず、準備して下さい。私、タクシー呼びます」
俺は小さい頃から、じいちゃんっ子で。
学校の帰り道にあるじいちゃんの家に、毎日のように会いに行っていた。
じいちゃんは、物知りで、優しくて。
しわしわのあったかい手や、深みのあるしゃがれた声が、大好きだった。
じいちゃんの話は、たまに怖いこともあったけど、それでも。
俺が不安な顔をすると、すぐに抱きしめてくれるそのぬくもりと笑顔が、大好きだった。
明里と一緒に乗ったタクシーの中。
俺はその笑顔を思い出そうとしていた。
(…なんで?)
ぼんやりとイメージは浮かぶのに、じいちゃんの顔が思い出せない。
目は?鼻は?口は?…どんなだった?
記憶をたどるけど、つかめそうなところでふっととぎれてしまう。
でも、なぜか。
繰り返し繰り返し、イメージを追っていると、ふと。
じいちゃんの匂いがよみがえる。
目頭が熱くなって。
明里の手を、強く強く握りしめた。
私は帰って待ってますから。
そう言ってくれた明里に軽く手を振って。
涙をぬぐって、俺は1人自宅の玄関へ向かう。
足は重くて、手をかけた玄関のドアノブは、ひどく冷たい気がした。
「要!」
ただいま、というより早く聞こえたお袋の声に、俺は実感する。
大切な人が、いなくなってしまったという事実。
お袋の声は、震えていた。
「…お袋…」
「要…こっち。おじいちゃん寝てるから…」
「…ん…」
奥の和室で、本当にじいちゃんは”眠って”いた。
信じられないほど、穏やかな顔で。
じいちゃん、と呼びかければ、ゆっくりと目を開きそうなくらい…綺麗な顔で。
「じいちゃん…」
俺は呼びかけ、じいちゃんの前に座る。
だけど返事は、ない。
「じいちゃん、俺だよ」
手を伸ばして、触れてみると…堅くて、冷たい。
大好きだったぬくもりは、消えてしまったんだ。
「…っ……」
あふれてくる涙をそのままに、じいちゃんの胸に顔を埋める。
いつだったか、不安な気持ちで聞いていたあの日の鼓動の音は、もう、ない。
どくん、どくん、どくん…と、あるはずの音の変わりに。
壁に掛けられた時計の秒針が響く。
おかしいな、あれほど怖がった音を。
…俺は今、心から望んでいる。
「要、これ…」
後ろで目を真っ赤にして立っていたお袋が、綺麗なライトブルーの封筒を差し出す。
そこには、なつかしい筆文字で、俺の名前が書かれていた。
「これ…」
「…おじいちゃんから…」
俺は震える手でそっと封筒を受け取り、丁寧に丁寧にその封を開ける。
要へ
要、元気ですか?
最近会うことも減ってしまったけれど、風の噂で要の話を聞く度、元気でやっていることに安心していました。
要は覚えているかな?
人間が、一生のうちに打つ鼓動の数は決まっている。
要が小さい頃、じいちゃんそう言ったよな?
じいちゃんはそろそろ、決まった数にたどりついてしまうみたいだ。
だから、お別れの手紙を書いています。
あの話をしたとき、要はすごく不安な顔をしたけれど、そう怖がらないで欲しい。
鼓動を打つと言うことは、人生を刻むと言うこと。
みんな、ペースはそれぞれだけど、”一生”という限られた時間の中で、自分の人生を刻んでいる。
ただそれだけの事だ。
死に向かっているんでもない。
命を削っているわけでもない。
しっかり、しっかりと、力の限り、人生を刻んでいるんだ。
誰かの鼓動と自分の鼓動が重なるように、誰かの鼓動が聞こえるように。
人生は決して一人きりではありません。
じいちゃんも、ばあちゃんと鼓動を重ねて。
要のお母さんと鼓動を聞いて。
そして、要と鼓動を聞いて。
とても幸せな人生を刻みました。
どうか要も、今側にいる大切な人と、これから出会う大切な人と、鼓動を重ねて、聞いて。
共に人生を刻める人を見つけて、大切にして下さい。
要の幸せを、心から祈っています。
じいちゃんより
読み終えて。
俺はもう一度、じいちゃんに触れて、胸に耳を当ててみる。
―そこからは、もう人生を刻む音は聞こえなかったけど―
俺の目の前には、今度こそ大好きな笑顔が浮かんで。
俺はじいちゃんの刻んだ人生を、感じた気がした。
「ただいま」
「要さん!!」
マンションに帰ると、心配そうな表情の明里がとんできた。
服は、今朝出て行ったときのまま。
(あのまま、待っててくれたんだな…)
俺はそんな明里の姿が嬉しくて、安心して、明里を力いっぱい抱きしめる。
「明里、ただいま」
「おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」
俺の背中には、しっかりと明里の細い腕が伸ばされて。
その身体からは、あの音が響く。
どくん、どくん、どくん、と。
(ああ、生きてるんだ)
(俺と明里は、生きてるんだ)
人生を刻む音が、聞こえてくる。
じいちゃん、今なら分かるよ。
―人間が、一生のうちに打つ鼓動の数は決まっている―
…だからこそ。
鼓動の1回1回が、大切なんだ。
自分の人生を。
大切な人の人生を。
重ねて、刻んで――俺は生きる。
いつかやってくる、終わりまで、精一杯。
「明里…愛してる」
じいちゃん。
俺が鼓動を重ねる人は、この人だ。
なぁ、じいちゃん。
見える…か?
俺は今、幸せだよ。
END
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