明里のお腹が大きくなり始めてからもう10ヶ月。
最初は、そこにいるのが信じられなかったほど小さな命が、今日。
俺の目の前に、産まれる…らしい。






【03 繋いだ手から精一杯の愛を】






さっきから、苦しそうにお腹を抱えている明里。
俺はどうすることもできなくて、ずっと立ち往生している。

「だ、大丈夫か?もう…」
「はぁ…はぁ…だ、大丈夫。まだ、間隔が広いから…」
「そ…そうなのか。いつでも言えよ?すぐ呼んできてやるから」
「ありがとう」

同じ会話を繰り返して。
その度に明里の額の汗の粒が増えていく。
…見ているだけで辛い。






正直、実感はないんだ。
そりゃ、毎日腹をさすって、動いたとか、蹴ったとか。
父親教室みたいなのにも何回も参加したし、超音波で影を見たりもした。
暇さえあれば話しかけて、本当に待ち遠しかった。

…けど、いまいち。

本当に明里の中にもう1人――俺たちの子――が。
いるって言われても、そりゃすぐには実感できないだろ?

本当にいるのか?と、明里に聞くと。
「もう…じゃあ私のお腹は何でふくらんでいるのよ」
と、いつも小さく笑われた。
そして俺は、その度に。
女はいいよな、と思ったんだ。
俺だって、ニンシンってものを体験してみたい。
直に、新しい命ってのを、感じてみたい。
そう、思ったんだ。



…だけど。



「い…いた…ぃ…」
出産を直前にして痛がる明里を見ると、そんな気持ちはぐんぐんしぼんでいく。
これから、明里の中から人間がもう1人出てくる。
あのお腹に入っている命が、出てくる…そう、産まれるんだ。

考えるだけで、大変だ。
痛いだろう。苦しいだろう。辛いだろう。
俺にそれができるのか?
…情けないけど、正直自信がない。

辛そうな明里を見て。
代わってやりたい、そう思うけれど。
代わったところでやり遂げられる自信は、全然ねぇんだ。
女ってすげぇなって思う反面…やっぱり明里も不安だろうと心配になる。

「あ、か、看護師さん!そ…そろそろだろ?もうだいぶ…」
どうしていいのか分からなくて、近くにいた看護師を呼ぶ。
陣痛ってのが始まってから、もう結構たつ。
先走って出てきちまったら、とか、心配でたまらない。
「どれ…」
看護師が明里の元へやってきて、一言二言会話をする。
そして、腕時計に目をやって、頷いた。
「そうね、そろそろ分娩室に移動しましょうか」

その言葉に。

明里は、より一層不安そうな表情を浮かべて。
「は、はい…」
か細い声で、そう呟いた。
「お願いします。…明里、行くぜ?」
俺も、不安でたまらなかったけど。
(明里の不安が、少しでもなくなればいい)
そう願いながら、俺は明里の手を取って、一緒に分娩室に向かう。





出産が始まってすぐ、思ったことは。
(お、俺は何をすればいいんだ…)
…そんな情けないことだった。

周りのスタッフは、冷静ながらもせわしなく動き回ってるし。
明里はといえば、痛みに呼吸を乱しながら、懸命に集中している。

「綾織さん、それじゃあ、そろそろいきみますよ!合図を出しますから、練習の通りにやって下さいね」
「…は、はい……」
「大丈夫ですよ、落ち着いて」
「……ぁ…はぁ…」

とうとう本格的に始まるらしい。
明里の手を握ったまま、どうすればいいのかと、視線を泳がせる。

本当は、色々考えてたんだ。
産まれる瞬間を目に焼き付けておこうとか、明里を一生懸命励まそうとか。
でも、なんだか具体的なことは全部頭から飛んじまって。
明里が俺の手を握るよりも、必死に。
俺の方が明里の手をすがるような気持ちで、強く握っている。

「お父さん、そんな情けない表情しないの!」
そんな俺を見た近くの看護師が、一喝する。
「そこでちゃんと奥さんの手を握って、一緒にいきんで下さいね!奥さんの力になりますから」
やっと、役割を与えられて、俺は。
明里の顔を見て、気合いを入れ直す。
「…明里?一緒に頑張ろうな」
「…うん」



いきんで、休んで。
それを何度も何度も繰り返す。
その作業を重ねる毎に、明里の悲鳴みたいなうなり声は大きくなって。
このまま明里が死んじまうんじゃないかって、本気でそう思った。

(頑張れ…頑張ってくれ。)
俺は、思いを込めて、明里の手を強く、強く握る。
(中の赤ん坊も…頑張ってくれ、あと少しだから)



「はい、頑張って!」
何度目の合図だっただろう?
看護師さんが、明里に声をかけて。

明里が、俺が。
そして、そこにいる全員が。
ぐっと力を入れた。

その時、だった。



――…んぎゃぁ……――



室内に、元気な泣き声が響く。
(な、なんだ?!)
目を向けて、すぐに俺は理解する。



…産まれた。



今、命が…産まれたんだ。



「あ、明里…」



俺は霞む視界の中に、必死に明里の姿を写す。

……産まれた。
本当に。
本当に、俺と明里の子どもが。



命が、産まれた…。



看護師が、元気な女の子ですよ、とタオルにくるんだ赤ん坊を明里の顔近くに抱き運ぶ。

明里と、俺と。
一緒にその顔をのぞき込むと……そこには真っ赤な顔をした赤ん坊がいた。






「…産まれてきてくれて、ありがとう…本当に、ありがとう…」






明里のささやくような声を聞いていたら。
俺はもう、何がなんだか分からなくなって。

ただただ、あふれてくる涙。
熱い、熱い、幸せな涙。
初めて、実感できた感動が、波のようにどんどん押し寄せる。

震えながら、明里の手を両手で包む。

「ありがとう…」

やっとの思いで、俺は一言、呟いた。






「要、赤ちゃんってね」

病室に戻った明里は、ベットで横になって俺に話を始めた。
化粧もしていないし。
髪の毛だってぼさぼさだけど。
その顔は、俺が知っている明里の中で、一番綺麗な表情だった。

「産まれたときにぎゅっと手を握ってるでしょ?」
「あぁ、そうだな」
「あれってね…大切な夢をつかんで、お母さんのお腹から出てくるからなんだって」
まるで目の前に我が子がいるかのように。
明里は優しい表情で呟く。
「へぇ…でもよ、そしたら、手を開いたときに、ぱっと飛んでったり…しねえのか?」
「うん、飛んでっちゃうね」
「…??」

「だからね、その夢をもう一度つかむために…それを探すのがね、人生なんだって」

そう言って、明里はにっこりと笑う。
あの子の人生が、素敵なものになるといいね、と。



「…じゃあ、俺はさっき、見つけられた気がする…」
「えっ?」
「産まれたときに、離したもの」

「明里の手」

「要…」
「ずっと探してたもの、つかめた気がする」



布団から小さい手を出して、明里は俺に差し出す。

産まれたときに、手放したもの。
俺の大事な、夢。
それは絶対、明里の手だ。

そっと、だけど確かに。
俺はその夢を…明里の手を握る。

「明里、産まれてきてくれて、ありがとう」
「うん」
「…産んでくれて、ありがとう」
「うん」

繋いだ手から、精一杯の愛を伝えたくて。
俺は何度も繰り返す。

「ありがとう」



今日、夢を飛ばして全てが始まった、新しい命にも。






―どうか、どうか、幸せな未来が訪れますように―






END






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※出産も立ち会いも経験したことがないので、間違っていることがあったらスミマセン。
 ちょっと出産の方法が古い気がしますね・・・。