澄んだ空気。
穏やかな月の光。
輝く星空。
…あふれる、幸せ。
【03 掌の温度】
夜の散歩は、特別だ。
たどる道は、いつもの通勤のそれと変わらないのに。
なんでだろうね?
声を潜めて。
そーっと、そーっと歩く。
「まるで、秘密基地に向かう途中みたい」
初めて2人で夜の散歩に出た時。
明里ちゃんが言ったその言葉に、オレは大きく頷いて。
そして、顔を見合わせて笑ったっけ。
じゃあ、誰にもばれないようにしないとね。
2人だけの秘密だね、なんて。
わざと足音を忍ばせてみせたら、君は必死で笑いをかみ殺してた。
あの日から日課になった散歩。
今日もオレたちは、暗い住宅街を歩く。
「今日は月がきれい」
右手はからっぽのまま。
左手には、明里ちゃんの手を握って。
静かで暗い道を2人で。
ゆっくり、しっかり歩く。
「ほーんとだ、星もよく見える」
「ね、きれい」
月の光や、星の輝き。
そして、家のあかり。
その暖かな光からは、おいしそうな夕飯のにおいがしたり、笑い声が聞こえたり。
「幸せって、溢れるものなんだねえ」
思わず呟くと、明里ちゃんはにっこりと笑った。
だってここは、秘密基地だもん。
そう言って、オレの手をきゅっと握った。
オレたちの散歩の行き先は、いつも同じ自販機だ。
道は、気分によって変えるけど。
たどり着く先は、あの煌々と光る、白い自販機。
「はい、到着」
オレの上着のポケットに入っている、240円。
まずは120円を入れて、紅茶のボタンを押す。
この瞬間が、一番楽しい。
あの、取り出し口に缶が落ちる、大きな音のスリル。
何か悪いことをしているみたいで、どきどきする。
「この感覚、あれに似てる」
子どもの頃。
近所にあった、小さな小屋みたいな家。
そこには、しわしわで髭面の、小さなじいさんが住んでいて。
そこの縁側に、石を置きに行く遊びが流行った。
「別に、そのじいちゃんが怒りっぽいんで有名だったとか、そういうんじゃないんだけどさ」
なんだか、とにかく雰囲気が怖いじいさんで。
一種の、肝試しみたいなもんだったんだと思う。
息を潜めて、忍び足で。
そのじいさんの家に入り込んで石を置いては、必死で走って出てきたっけ。
大人になった今でも、あの時の手の汗の感覚や、
ぐっとうつむいて走ったときに見ていた、傷んだ靴のつま先。
記憶の奥底に確かに刻まれていて、たまに、思い出したようにぽっと。
浮かんでは、消える。
「なんか、分かる」
「でしょー?何の意味があるんだか分からないんだけどさ、そういうもんだよね、子どもって」
「ふふ、そうですね」
じゃあ、走って戻らないと。
二つ目のボタンを押し終わると、明里ちゃんは走って見せた。
「明里ちゃん、危ないから!」
オレは慌てて追いかける。
右手に、冷たい缶、左手に暖かい缶を握りながら。
やっと追いついた彼女に、飲み口を開けた暖かい紅茶を差し出すと。
オレたちはまた、並んで手を繋いで、歩き出す。
秘密基地には、2人の秘密だけじゃなくて。
オレだけの宝物も置いてある。
「ね、祥行さん?」
「うん?」
「コーヒー、冷たくていいの?寒くない?」
「ああ、うん。いいの、いいの」
君は、気づいてるかな?
冷たい缶コーヒーを、右手で傾けて体に流し込むと。
ぞっと、冷えるんだ、全身が。
でも、ね?
その分。
君と繋いだ左手が、ぽかぽかして。
より一層暖かく感じる、君の右手。
オレだけの、秘密。
オレだけの宝物。
夜の散歩は、特別だ。
夜の秘密基地には、たくさんの幸せなものたちが敷き詰められている。
「祥行さんの手、つめたーい」
月の光や、星の輝き。
家に灯るあかりや、そこから漏れる、夕飯のにおいや笑い声。
そして何より。
明里ちゃんの掌の温度。
「よぼよぼのじいさんになっても、こうやって散歩できたらいいなあ」
…あふれる、幸せ。
未来のかたち。
END
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