夢があった。
それは、格闘技で一番になるとか、ホストでNO.1をとるとか、そういう目指すようなものじゃなくて。
もっとおぼろげで、儚い。
でも、物心付いたときにはすでに抱いていた、根強い、もの。

いつだってオレの一番近いところに見えるのに、決して手は届かない気がしていた。
夢で終わる、夢、だと思っていた。



ねえ、明里ちゃん、オレはずっと、自分の“家族”を作りたかったんだ。



ホントだよ?






【02 髪を撫でて(2)】






真上から照らす光が、オレの肌をジリジリと焼いている。
ああ、暑い。なんて暑い一日なんだろう。
帰ってテレビをつけたら、きっといつものお天気キャスターが言うんだろうな。
「今日は、今年一番の猛暑日でした」って。
でも、明日にはすぐに、記録が更新されちゃうかもしれない。
たしか、今週はずっと晴れの日が続くって聞いたはずだ。

目の前では、明里ちゃんが今にも泣き出しそうな顔をしているのに。
さっきからオレの頭の中は、そんなのんきなことばかりがぐるぐると回っている。
我ながら、なんでこんなときにそんなこと、って。
思ってしっかり考えようとするのに、頭も、心も、思うように力が入らない。

だって、明里ちゃん。
今、何て言った…?
それって、つまり、でも、いやまさか。
ねえ、それって。
それって、そういうこと、なの?

聞きたいことも、答えたいことも、言いたいことも、いっぱいあるのに。
全部抱えようとしたら、手のひらから、腕の間から、ばらばらと落ちてしまった。
オレの足元にごちゃごちゃに散らばった言葉の中から、自分が必要としているものは、うまく探せない。

「…暑いね。とりあえず、ベンチに座ろうか」

慌てて、とっさに拾い上げた言葉は、あまりにも的外れだった。





木陰を探して、そこにあるベンチに座った。
池からは少し離れちゃったけど、水辺よりも日陰のほうがずっと涼しい。
ふうっと息を吐くと、隣に座る明里ちゃんの腕が、かすかに震えているのが視界に入った。
今すぐにでも、その腕を掴んで、言ってあげたかった。
大丈夫だよ、って。
でも、できなかった。オレの腕も、震えていたから。

「…ねえ、明里ちゃん」

怯えたように身を固めて、黙り込んでしまった彼女に話しかける。
「はい」という返事は、かすかだった。消えてしまいそうなほど。

「つまり、さ、そういうこと、なの?」
「……そういうこと、って…」
「ええと、その…つまり、さ。明里ちゃんのお腹に、明里ちゃんじゃない命がある…って、本当なの?」
「……」
「妊娠、したの?」

また、かすかな、消えてしまいそうな声がした。
「はい」、と。
オレの心臓が、ドクリと大きく響く。

「…いつ分かったの?」
「昨日、です」
「病院行ったの?」
「病院じゃなくて、薬局で売ってる検査薬で…生理、来なかったから、」

やってみたら、陽性だったんです。
明里ちゃんは言った。

昔の衛星中継みたいな、妙な時差を生じさせながら。
でも、オレの頭は、少しずつ事態を把握していく。
つまり、つまり、さ。
今、明里ちゃんのお腹には、赤ちゃんがいて。
おそらく、というか、もうほぼ確実に、それはオレの赤ちゃんでもあって。

考えたら、体の震えがぶるぶると大きくなった。
頭が、目が、手が熱くなって、やっぱり、ああ今日は暑いな、と思った。
信じられないくらい暑い。

「祥行さん…?」

明里ちゃんが、オレの名前を呼んだのは聞こえているのに、何がなんだか、分からなかった。
だって、嬉しくて。
言葉も、感情も全部、溢れてとまらなかった。
次々に零れ落ちて、息さえうまくできない気がした。

「夢、みたいだ…」

洪水みたいな体の中から、搾り出すようにそう、声を出したら、明里ちゃんが、驚いた顔をしたのが見えた。
泣きそうな顔で、そっと目を見開くみたいにして。
もう一度、オレの名前を呼んで、そして言った。「なんで?」

「なんでって…え?」
「だって、祥行さん、さっきからすごく辛そうな顔してる」
「そんなことないよ?」
「辛そうに、話してる」
「そんなことないよ」

辛そうなのは、明里ちゃんのほう。
そう言ったら、明里ちゃんは目元をこすった。
あんまりごしごしやるから痛そうで、オレはその腕を掴んだ。

「だ、だって祥行さん、震えてる…」
「それは……だって、嬉しくて」
「…え?」
「すごく、嬉しくて。なんだかさっきから、どうしていいのか分からなくて」

震える自分の腕に、ぐっと力を入れた。
不安そうな顔で泣いて、震える明里ちゃんに、大丈夫だよ、と伝えたくて。
そして。
もう1つの命にも、オレの存在を、伝えたくて。

「ずっと、家族を、作りたかった。オレの夢、だったんだよ」

叶っちゃった。
そう笑ったら、明里ちゃんは涙にぬれた頬を、きゅっと上げて。
笑った。ほっとしたように、笑った。

「よかった…」

自分のお腹に当てるようにした、彼女のもう片方の腕が、とても優しい動きをしたから。
オレの目の奥も、じんわりとと熱くなった。






帰り道は手を繋いで、いつもよりゆっくり歩いた。
オレが明里ちゃんの足元ばかり気にするから、明里ちゃんは呆れていた。

「そんなに簡単に転びませんよ?」
「いや、でも…転んだらどうするの」
「私だって気をつけてますから! 大丈夫です」
「…そうかなあ、危なっかしいなあ」

強情な彼女に、オレがぶつぶつ呟くと、明里ちゃんは握った手に力をこめた。
「大丈夫ですから」、と、まるでオレの不安をやわらげたいみたいに。
本当に不安なのは、彼女のほうなはずなのに。
また一層、彼女が強く、優しくなった気がして、なんだか自分が恥ずかしかった。
こんな父親じゃ、10ヵ月後、初対面のときにがっかりされるかな?

「……ごめんね」
「何がですか?」
「頼りなくて。不安な思い、いっぱいさせたよね?」
「そんなこと、」
「いや、検査とかさ、もっと早く気づいて、一緒にしたかった」
「………それは、私が言えなかったから。祥行さん、子ども、嫌いなのかと思って」
「え?」
「さっきだって、子どもの話したら、話そらすし」
「あ、ああ」
「想像つかない、なんて言うし…」

更に歩みを遅くした明里ちゃんの腕を、軽く引いた。
公園の隅っこ。
オレたちは立ち止まって、向かい合う。

「だってね、夢、だったんだ。本当に。オレなんかが、できるはずないって、そう思ってたんだ」
「そんなこと、」
「うん、でもね。本当に思ってた。だから、怖くて、見ないふりしかできなかった」



「情けないね…ごめん、本当に」



そう言って、明里ちゃんの、髪を撫でた。

「“君”、も。ごめんね」

そして、まだ手の届かない、小さな命に。
呼びかけて、手を伸ばした。



気づけなくて、ごめんね。
不安な思いをさせて、ごめんね。
こんなオレで、ごめんね。
臆病で、ごめんね。

伝えたかったのは、たくさんのごめんね、と。
そして、なによりも。



「ありがとう」



ここにいてくれて、傍にいてくれて。
愛してくれて、伝えてくれて、聴いてくれて。

夢、を。
叶えてくれて。



「私こそ、たくさんごめんなさい……たくさん、ありがとう」
「頼りないかもしれないけど、何でも言って。だって、」



結局、やっぱりこの日の暑さは、この夏一番にならなかったんだけど。
きっと、ずっと、忘れないと思う。
この日の突き抜ける日差しや、暑さ。
木陰で、隠れるみたいにして交わしたキスも。

愛する二人を、初めて。
抱きしめたことの、大きさも。



「だって、これから家族を作るんだから」



かっこいい父親にも、かっこいい旦那さんでもないけれど。
情けなくても、それでも精一杯、愛していこうと思った。

だから、震える手でも、髪を撫でて。
夢は、ここから始まるんだ。






END






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