例えば、ふとした瞬間に。
何気ない、日常に。
【10 合鍵】
「ねえ、当麻さん」
台所から、君の声がして。
振り返れば、エプロンを外すその姿。
「うん?」
「今週末、暇ありますか?」
あなたのためなら暇を作るくらい、大したことじゃないですよ。
…なんて、言えたらいいのに。
「ごめん、ちょっと忙しいかな」
現実は、甘くない。
それこそ、ちょっと無理をすれば作れる暇があれば、喜んでそうしたいけど。
「そうですか…」
「ごめんね」
外したエプロンを無造作にたたみ、床に目を落とした明里ちゃんの姿を見ていた。
その眉は、切なさに寄せられている。
「明里ちゃん」
「は、はい?」
「おいで」
せめて、今くらい。
そう言って、彼女を膝の間にくるよう、手招きした。
最近、仕事がいつもに増して忙しい。
なんとか立ち直ったゴージャスの仕事に、本社の経営関係の仕事。
こっちの仕事のキリがついたと思ったら、また次の仕事。
やればやるほど、評価される。
評価されれば評価されるほど、仕事が増える。
ずっと、それがやりがいだったのに。
なんでだろう、堂々巡りだ…なんて思うなんて。
たまに、分からなくなる。
生きるために働いているのか、働くために生きているのか。
「当麻さん、疲れてます?」
「え…あ、いえいえ、大丈夫ですよ」
疲れている、というより、悩んでいるのだと思う。
いっそのこと、ずっと、君だけのホストでいられたらよかったのに。
君のために、時間を空けることが仕事で。
君が喜ぶことをするのが、仕事ならよかったのに。
矛盾には気づいている。
ホストでいる限り、君をちゃんと愛することはできない。
君を愛することで稼ぎを得るなんて、そんなこと間違っていると気づいている。
それでも、ついこんなことを考えてしまうのは。
仕事じゃなくて、彼女なら。
生きるために彼女を愛する、でも、彼女を愛するために生きる、でも。
どちらでもいいのにと、思うから。
「うそつき」
膝の間で、彼女が言葉を漏らした。
反応するように、彼女の耳の脇に顔を寄せる。
「何が、ですか?」
「最近当麻さん、疲れてます」
「そんなことないよ。大丈夫」
笑いながら、当然のように返したつもりだったのに、明里ちゃんは膝の上でくるっと身をよじる。
そして、目と目をじっと合わせて、少し困ったように笑った。
「気づかないとでも思ってるんですか?当麻さん、ちょっと痩せた」
「そうですか?」
「顔色もよくないです。あんまり食べてないんですか?」
「そうですね…忙しいと抜いちゃうときもありますね」
明里ちゃんは、身体ごとこちらを向いた。
そして、私の前髪を持ち上げて、おでこに手を当てる。
「最近、ちょっと身体火照ってますし…微熱、続いてるんじゃないですか?」
「いやー、あんまり体温を測る習慣がないので分かりませんが」
「ダメですよ!ちょっとは自分を大切にして下さい」
体温計持ってきます、と声が聞こえて、膝がすっと軽くなる。
そんなに熱っぽいかな?と、自分の額に手を当てたけれど、分からなかった。
もしかしたら、手が火照ってるのかもしれなかったから。
小走りで持ってきてくれた体温計を使ってみると、確かに微熱。
あれ?と冗談めいた態度をとってみせたら、明里ちゃんの眉毛がみるみるうちにつり上がった。
「あれ?じゃないです!」
「明里、ちゃん?」
「会えないのはいいです。でも、会えないうちに身体を壊すのだけはやめてください!」
「大丈夫ですよ、そんな、これでも結構丈夫にできてますから」
「ふざけないで!もう十分に体調崩してるじゃないですか!」
いつもの、おっとりとした雰囲気からは想像もつかないような。
力をこめた声でそう言うと、明里ちゃんはてきぱきと、さっきはずしたエプロンをつけ始めた。
「当麻さんは寝てて下さい」
「いや、でも仕事」
「出るまであと1時間あるじゃないですか!ちょっとでも寝てください」
「でも、せっかく君がいるのに」
「いいから!」
背中をぐいぐいと押されて、しぶしぶと立ち上がった。
元気なら。
明里ちゃんとこうしてゆっくり座っていられたほうが、何倍も回復するような気がするんだけれど。
でも、彼女の気迫に、大人しく寝室に向かう。
「起こしますから、ぐっすり寝てください」
「明里ちゃんは、何をするんですか?またエプロンつけて」
「お弁当作ります。仕事の間に、忘れずに食べてください」
「えっ?いや、いいですよ。さっきもご飯作ってもらったのに、そんな」
「もうっ!いいですから、さっさと寝て下さい!」
慌てて台所に踵を返そうとすると、明里ちゃんの手が私の身体を寝室に押しやって。
がちゃり、と。
扉が閉められた。
どうやら、眠るしかないらしい。
扉の向こうに、あまり会えない愛しい人がいると思うと、こんなことしている場合じゃないと頭は理解するのに。
いざベットに座ると、信じられないほどの強い眠気に襲われて、抵抗空しく、まぶたは下りて閉じられた。
「…さん、当麻さん?」
再び、そのまぶたが開いたのは、それからちょうど1時間後。
頬に当たるくすぐったい何かの感覚と、聞きなれた声に反応して、私は目を覚ました。
「……ん、明里、ちゃん?」
「起きました?1時間経ちました」
「ああ、ありがとうございます」
身体を起こして、ベットから立ち上がる。
なんとなくぼっとする頭を振ると、少し眠気が吹っ飛んだ気がした。
「大丈夫ですか?本当は起こすのやめちゃおうかと思ったんですけど」
「いやいや、助かりましたよ。今日はどうしても社に戻らないと」
「そう言うと思いました。それに当麻さん、起こさなかったら、絶対に次は、こんな風に寝てくれなくなっちゃうと思って」
「あはは、そうですね」
準備しましょうか、と明里ちゃんが言って、その後姿に導かれるみたいに、私は寝室を出る。
すると、リビングにふっと香る、懐かしい匂い。
「…ああ、そうか」
「なんですか?」
「お弁当、作ってくれたんですよね。なんだか、学生時代を思い出す匂いがしたので」
「あ、はい。持っていって下さいね」
もちろん、と言いながら、しわになったワイシャツを着替える。
すると、いつそんなに手際よく準備したのか、明里ちゃんはネクタイと上着を手渡してくれた。
「…ごめんね。君はこんなに私のためにしてくれるのに」
「え?」
「何も、返せないのがもどかしいな」
最後にお弁当を受け取って、ありがとう、と言えば。
彼女は首を横に振って、そして、ふんわりと笑う。
そして、
「当麻さんのために何かできるの、嬉しいです」
そう言って、「何か他にできること、ありませんか?」と、私に聞いてくれた。
これ以上、求めることなんて何も、と思いながら、彼女の頭に手を置いたけれど。
ふと、思いとどまる。
君のために、生きたいと思う。
生きるために、君が必要だと思う。
君は私にとって、大きな、大きな存在だから。
ずっと傍にいてくれれば、それ以外になにも求めることなんてない。
それならば。
ポケットを探って、冷たい塊を握った。
そして、そのこぶしを明里ちゃんの前に差し出す。
「じゃあ、これ、持っててくれませんか?」
「なんですか?」
「この部屋のスペアキーです」
手を開いて、それを見せた。
冷たかった銀色の塊は、手のひらの体温を徐々に奪って。
少し温かくなってるんだろうなと思った。
「え…い、いいんですか?」
明里ちゃんは、それに手を伸ばすこともなく、ただ私の顔と見比べてそう言った。
頬がほのかに桃色に染まっている。
「いい、ではなくて、お願いしたいんです。週末、あいにく暇はなさそうですが、よければ一緒に眠りましょう」
「でも、その、勝手に入って…」
「いいんです。明里ちゃんと一緒ならよく眠れそうだし、ご飯もおいしくなりますから」
私は彼女の手を掴んで、その手のひらに鍵を落とした。
私の手は、わずかに火照っていたから。
鍵を手にした彼女の冷たい手が、少しでも暖かさを感じられていればいいなと、なんとなく考えた。
戸惑う明里ちゃんの顔を覗き込んで、笑うと。
彼女は小さな声で、「じゃあ、今日も待ってていいですか?」とうつむいた。
「ええ、もちろん。お願いします」
私の言葉に、彼女はふんわりと笑って、「ありがとう」と言ってくれた。
例えば、ふとした瞬間に。
何気ない日常に。
あなたが傍にいてくれたら、どんなに幸せだろう、と思う。
あなたのためのホストであり続けることが叶わないとしても、
私にとってのあなたのように、あなたにとっての私もも、そんな存在になれたなら。
少しは君を、幸せにできるんじゃないかと思う。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私たちは、とても小さなキスをした。
「新婚さんみたいですね」と笑ったら、彼女はまた頬を一層赤くして、にっこりと笑った。
その表情に。
いつだって、心だけは。
あなたのための、私でありたい。
強くそう思った。
END
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