今まで当たり前だったこと、これから当たり前になること。
変わっていく私たちの間を流れる空気は、照れくさくて。
でも、暖かくて。

むずむずと、まるで唇から全身をめぐるかのように。
満ちていく幸せに、私は戸惑ってしまうんだ。






【14 塞ぐ】






今日も1日が終わって、日が沈みきった夜。
私は、少し遅い夕食の準備のために台所に立つ。
リビングからはテレビの音が聞こえてきて、ソファには悟さんの姿。
いつもの風景なのに、なんだかそわそわしてしまうのは、どうしてだろう。
例えば、ぐつぐつと音を立てるお鍋とか、何気なくいつもしているエプロンだとか。
まるで真新しいもののように、出来事のように感じてしまうのは、なぜだろう。

「明里ちゃん」

名前を呼ばれて、お鍋から顔を上げる。
そこには、私を振り返る悟さんの姿。
別に、特別なことなんてなにもないのに、どきりとしてしまう。

「はい?」

少し上ずった私の返事に、悟さんはふわりと笑う。
いつものこと。
もう、5年も傍にある笑顔なのに、顔に熱が集中するのを感じて、私は少し恥ずかしくなった。

「あはは、声、裏返ったね」
「そ、そうかな」
「それに、顔、赤いよ」
「…や、やだ、」

そんなこと、ないよ。
否定しながら料理を続けると、彼はまた、笑った。

「…籍、いつ入れようか?」

そう言った悟さんのまなざしが今までと比べてとびきり柔らかいのは、きっと気のせいではない。
そう、私は昨日、悟さんにプロポーズされて。
私は、頷いて。

「そ、そうですね…いつにしましょうか」

私たちは、家族になる約束をしたのだ。
特別な約束を。



全てのことを新しく感じてしまうのは、きっとその約束のせいなんだろう。
不安でいっぱいだった、これまでの5年間。
夕食の準備も、台所に置かせてもらっていた私のエプロンも、歯ブラシも、カップも。
全部今までと何一つ変わっていないのに、昨日を境に、それらの持つ意味はころりと変わった。
“必要だから”持ってきたものたち・してきたことたちは、“当たり前に”ここにあるもの・することたちへと。
傍にいたくて必死にしがみついてきたこの立場は、求められるものへと。

初めて、悟さんの中に、私の居場所ができたのだ。
悟さんの妻、という居場所。
悟さんの家族、という居場所。
左手の薬指にはまった指輪が、私たちの関係に、ようやく名前をつけてくれた。
曖昧だった私たちの関係は、たった一つの約束で輪郭を確かなものにした。



どうしていいか分からなくて、私は料理を続ける。
今まで、まるで繋ぎとめるみたいに並べてきた言葉は、もう必要なくなってしまった。
行き場のない想いも、とめどない悩み事も。
こうして、一気になにもかもが解決してしまうと、今まで当たり前にしていたことが、急にできなくなってしまう。
話しかけること、触れること。
笑いあうこと、キスをすること、そして、抱き合うことも。
今までとは違う意味を持つような気がして、私はどう振舞ったらいいのか、分からなくなってしまう。

「越乃雪明里、かあ」

しみじみと、でも突然に悟さんがそんなことを言うから、私は思わず菜箸を落としてしまった。
きっと、この私の反応が楽しいのだろう。
悟さんは立ち上がって、台所までやってくる。(彼は優しく見えて、実はすごくいじわるだ)
私はドキドキして、混乱して。

「こっ、越乃雪明里って、アレですね! ゆきあかりって、なんかそんなの、ありましたよね!」

わけのわからないことをまくし立てながら。
落とした菜箸を慌てて拾い上げて、スポンジでゴシゴシと洗った。
その指に、昨日もらった婚約指輪が見えて、私はもう一度、菜箸をシンクに落としてしまった。

「明里ちゃん」
「な、なんですか? あっ、ごめんなさい、料理? あの、すぐできますから、」
「いや、そうじゃなくて」
「すす、座っててください! あの、本当にすぐですから!」
「違うよ、だから、そうじゃなくて、」

悟さんは、やっぱり笑っている。
それは楽しそうに、幸せそうに。
今までには感じられなかったその柔らかさに、私はもう、視線を合わせることもできない。
だってこんなの、恥ずかしくて照れくさくて。

「あ、ああ、あの、そうですよね! 名字の話をしてたんでした、ゆきあかりって、あれ? なんでしたっけ、」
「明里ちゃん」
「どこかの雪祭りのイルミネーションでしたっけ? 違ったかな、」
「明里ちゃん、落ち着いて」
「見たことあったかな、悟さん、見たことあります? ゆきあかり、なんだか名前負けしそう…」

だって、だってこんなの――

「明里ちゃん、ちょっと、黙って」

だって、こんなの。

「…んっ……!」

幸せ、すぎて。



気がつけば、私は彼の腕の中。
焦るように忙しく動かしていた唇は、彼のそれに、塞がれた。

その甘やかさに、思考がぼんやりと熱を帯びる。
ああ、どうして。
どうしてこんなにも、幸せなんだろう。
うそ、みたいだ。
ずっと、遠くを見ていた彼が、昔の恋人を見ていた彼が、私を見てくれる、なんて。
私と結婚する、だなんて。



今まで当たり前だったこと、これから当たり前になること。
変わっていく私たちの間を流れる空気は、照れくさくて。
でも、暖かくて。

むずむずと、まるで唇から全身をめぐるかのように。
満ちていく幸せに、私は戸惑ってしまうんだ。

「明里ちゃん」

名前を呼ばれる、たったそれだけのことに。
泣きたいほど、感動してしまうんだ。

「明里ちゃん…ちょっと、黙ってて」

彼は、キスを繰り返す。
時には激しく、時には、穏やかに。
降り続くキスに、私の戸惑いの言葉は塞がれる。

私の背中越しに、彼が止めたのだろう。
かちっと音が聞こえて、コンロの火は、消えた。



「…なんだか色々、待ちきれない」
「え?」
「明里ちゃん見てたら、キスしたくてたまらなくなった」

「……早く、一緒の名字になりたくなった」



塞がれてしまった私の口からは、今はまだ、言葉を発することはできないけれど。
このキスの雨が止んだら、私は彼に何を伝えよう?
新しいものだらけのこの空気の中で、うまく伝えられる自信はない、けれど。
でも、とりあえず。

(私も、同じ、気持ちです)

それで、伝わるかな?
彼に塞がれて、すっかり酔ってしまった頭の中。
ぼんやりと、考えていた。






END






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*こっそり、オフ本の後日談のイメージです。