―重いの、鎖みたいに重いの―

明里さんが、言った。






【大人になるということ】






この部屋に明里さんが来なくなって、どのくらいの時間が過ぎただろう。
がらんとしたリビング。
使われなくなった洗面台の歯ブラシ。
主を失った台所。
そして、ぬくもりを失った…おれ。

どうすればよかった?
どうすれば、明里さんを傷つけずに済んだ?
どうすれば……大人になれた?

自問自答を繰り返すけど。
いつまでたっても、答えは出ない。



学校には、行きたくない。
本当はゴージャスにも……行きたくない。

明里さんのいない世の中なんて、意味がない。
酸素がないみたいに、苦しい……。



けれど、それじゃ、ダメなんだ。
大人になりたい。

早く、明里さんと対等になるために。
一日も早く、もう一度思いを伝えるために。

どうすればいいか、分からないけど。

とりあえずできることから、やってみる。
そうでもしないと、離れた意味がない。



「雅也、最近勉強頑張りすぎじゃねぇ? 目の下、クマできてんだけど」
「どうしても、合格したいから……」
「や、大丈夫だろ。お前の成績なら」
「……志望校、変えた」
「えっ、どこだよ」
「K医大……」
「まっ、マジかよ!!」
「うん……一応」
「あぁ〜……そっか。うん、まぁお前なら大丈夫だと思うぜ。あんま無理すんなよ」
「……うん」

無理してでも。
早く大人になりたい。
早く、側に行きたい……。



そう思ったおれは。
その日の夜、ゴージャスで倒れたらしい。

気が付くと、休憩室の長いすに寝ていて。
目の前には、心配そうな顔をした万里さん。

「チヒロ、大丈夫か?」
「あ……おれ…」
「さっき、席立とうとして倒れたんだよ」
「っ! ……すみません、おれ、お客さん…」

状況を把握して、慌てて起きあがる。
だけど、うまくはいかなかった……らしい。
目の前がぐるりと一周したかと思うと、万里さんの腕の感触を背中に感じた。

「おっ、と。ホラホラ、無理しない。テーブルは彬がついてくれてるから。少し休んでから、お詫びに行きなさい」
「……大丈夫です」
「コラ、ウソでしょ? お前、顔色悪すぎ。ちょっとは休む」
「でも……」

まだ、頑張れる。
頑張らなくちゃ、いけないんだ……。

「チヒロ、お前、何焦ってるんだ? 最近ヘンだぞ」

そう、指摘されて……。
おれは、万里さんに話した。
大人になりたいんだって、そう、話した。



「チヒロ、オレはね、大人になるって無理をすることとは違うことだと思うんだよね」

万里さんはおだやかに、そう話してくれる。

「何ができるかとか、何ができないかとか……自分を知ることなんじゃないかって思う。
 そして、できる限りのことを大切な人にしてあげる。そういうのが、大人だと、オレは思ってる」

おれができること、できないこと……明里さんに、してあげられること……。

「大事なモノを守りたいなら、まずは自分を知ることだ。肝心な時に、こんな風に倒れたらまずいでしょ?」

万里さんに、軽く頭をたたかれて。
おれは、少し分かった気がした。
おれに、足りなかったもの。

自分を持つこと。

「……万里さん、ありがとう、ございます。もう、大丈夫です」

そう言って、今度こそ、起きあがる。
まだ頭はぼんやりしていたけれど、少し気分はすっきりした。

「お詫び、してきます」と立ち上がる。
万里さんに会釈をして、休憩室の扉を開ける。

「チヒロ、焦るな? お前は大丈夫だよ」

万里さんの、声がした。



まだ、おれは子どもだけど。
どうすればいいかなんて、分からないけれど。

焦ってても、仕方がないって分かったから、できることから、一歩ずつ。
明里さんに、近づきたい。

……絶対に、近づいてみせる。






end






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