ある日、部屋に帰ると。

明里さんが、難しい顔で本を睨んでいた。






【2個の並んだミニトマト】






「……ん〜……すごい」

今日は、大学の実習が結構長引いて。
だからおれは、「上がって待ってるね」と言っていた明里さんが気がかりで。
少し小走りで帰り道を急いで、チャイムも鳴らさず部屋に飛び込んで。
目に入ったものは、本を広げてうなる明里さん。

「あ、雅也くんおかえり」
「ただ……いま……」

乱れる息をちょっとずつ整えながら。
おれは彼女に近づき、いつものように頬にキスをする。
ただいま、と。
こんな些細なやりとりが、いつまでたっても新鮮で……嬉しい。

「……なに、見てたの?」
「あ、ごめんね、勝手に。これ……参考書? 雅也くんの机の上にあった」
「どれ? ……あー、うん。そうだ…」

明里さんが持っていたのは、家庭教師のバイトで使っている参考書。
数学、みたいだ。

「すごいよね、雅也くんこれ全部分かるんでしょ? 私、全然分からなくて……やっぱり大学受験は大変よね」
「……え……?」
「ん?」

……。

おれが教えているのは、中学生だった……はず。
明里さんの手から参考書を持ち上げ、表紙を確認する。

……やっぱり。

「……違う、これ、高校受験の……中学生のやつ」
「ええっ?! ウソ!! だって、全然分からな……」

明里さんはそう声を上げて、参考書のページをめくりながら、目を白黒させている。
その姿がかわいくて……つい。
おれは、意地悪をしたくなった。

「明里さん、高校は卒業したんだよね……?」
「も、もちろん! ちゃんと卒業したよ! ……そんなに成績は良くなかったけど」
「……じゃあ、できる、はず。普通の難しさだから。その参考書」
「えぇっ?!」
「おれ、着替えてくるから……ちょっとやってみて、何問か」
「む、ムリよ!!」
「……高校は卒業したんだよね?」
「い、一応……」
「……はい、じゃあここ」

簡単な練習問題のページを開き、明里さんに差し出すと。
明里さんは恨めしそうにおれを見上げた。

……かわいい。

その頬にもう一度キスを落とし、俺は洗面所に向かう。
明里さんのうなり声を、背中に聞きながら。



「できた?」

手を洗って、うがいをして。
着替えてから、水を一杯飲んで。
そろそろ終わっているかな、と明里さんの元へ向かう。
……と。

「雅也くーん……」

明里さんは、おれの机に半泣き顔で座っていた。

「今……どのへん…?」

ベットサイドにあった小振りの椅子を引き寄せ、おれは明里さんの横に座る。
目の前のノートに目をやると……。

「………」

全く、進んでいなかった。

「……ど、どうしよう、本気で分からない」



ほんの冗談のつもりだったのに。

「雅也くん、教えて……」

明里さんはすっかりショックを受けてしまってそう呟く。
おなか、減った…… けど。
明里さんがあまりにも本気なので、おれは手元にあったペンを取って、説明を始める。

「これ、因数分解。……因数分解、やったことある、よね?」
「うん、なんか……聞いたことは、ある……かな」
「この、文字の前の数を、この順に書き並べて……こうすると、できる……」
「あー、なんか、思い出したかも!!」
「じゃあこっち、やってみて」
「分かったわ! 任せて!」

一生懸命問題を解く明里さんの横顔を見る。
髪の毛、さらさら……。
……まつげ、長い……肌、柔らかそう。
キス、したい……けど。
いま明里さんに触れてしまうと、顔を見ていられなくなるかな。
少し前のめりになっていた体制を、静かに起こして。
おれはまた、音を立てないように明里さんを見つめる。

明里さんは、おれより年上だから。
いつもは、優しくて、おれの面倒見てくれて。
でも。
今は、眉間にしわを寄せて。うなり声を上げて。
半べそをかきながら、おれを見る。

……。
……なんか。
……なんか、こういうのも。

いい、かも……。



……そんなことを考えていると。

「できたっ!」

明里さんの声が耳に入って、おれは我に返る。

「どれ……?」

慌てて彼女の目の前のノートを見て、答えを確認する。

うん……まぁ。

「……正解」
「やたっ!」
「………半分、は……」

「「………」」



明里さんのつくったおいしい夕飯を2人でつつく。
まだ納得のいっていない明里さんは、落ち込んだ顔でサラダをもそもそ食べている。

「はぁー。私ってこんなにバカだったのね……」
「……そんなことない……多分…」
「…慰めてくれなくていいわ……」
「……」
「やっぱり、社会人としてあれくらいはできたほうがいいわよね……雅也くんもそう思うでしょ?」
「……多分…」
「はぁ……」

確かに、明里さんの解いてた問題は、基礎の基礎で。
中学生でも、つまずく人は……少ない。

……けど。

「でも……大丈夫」
「えっ?」
「あんなの、できなくても……明里さんは……」
「ん?」

「…明里さんは、おれが…幸せにする、から…」

おれは。
自分の言葉に、照れて……顔に血が上って。
慌ててミニトマトをつまみ、サラダに集中しているふりをする。

……こっそり、明里さんに目をやると。
明里さんも、おれと同じように。
サラダのミニトマトを口に運んでいた。

ふと、目が合う。

2人で。
向かい合って。
ミニトマトのような、赤い顔をして……。



おれたちはこっそり、微笑んだ。





END






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