誰にも気づかれないように。

あなたは私に、こっそり魔法をかける。






【香りの魔法】






整然と並んだ机。
カツカツと響くシャープペンの音。

そういえば、私もちょっと前までは音を鳴らす立場だったっけ。
でも今は、「先生」って呼ばれて、試験監督をしている。

不安いっぱいで応募して、どうにか採用された 塾講師のアルバイトを始めて、もう4ヶ月になる。
声が小さいとか字が小さいとかそういう苦情も大分減ったし、 生徒の質問にも慌てないで答えられるようになった。
まだまだ勉強することはたくさんあるけれど、やっと務まるようになってきたと思う。

でも、困っていることが、1つだけ。
ちょうど、私のいる教卓から、右斜めの位置。
窓際の明るい席に座る生徒。

彼、黒須雅也くん……私の、恋人。

初めての授業の日、彼が教室にいたときには驚いた。
雅也くんが塾に通っていることは分かっていたけど、まさか。
薫が紹介してくれたバイト先が、彼の通う塾だったなんて。

ホストのチヒロでもない。
普段の雅也くんでもない。
制服を着て、机に向かう“高校生”の雅也くんの姿を見られるのは嬉しいけれど。

でも、その彼の制服が、“教師”である私にとってはなんだか遠くて。
そしてそれがちょっとだけ、寂しい。



試験が続く教室内。
私はこっそり、窓際に座る雅也くんを見る。
彼は、少し眠そうに目を細めて。
まるで落書きでもしているかのように、すらすらとペンを動かしている。

(頭いいもんなぁ……余裕なんだろうな)

窓からあたる日差しに照らされて、色素の薄い雅也くんの肌は透き通るよう。
端正な顔立ちに、彼の持つ独特のはかない雰囲気が加わって。
彼の周りだけ明るくて、時間がゆっくり流れているような。

その姿に、私は思わず見とれながら、考える。

こうやって、遠くから見てみると。
こんな人が私のことを好きだなんて、夢じゃないかな、なんて。

「は、はいっ! そこまで」

突然のチャイムにチャイムに、私は慌てて立ち上がる。
手を止めて解答用紙を集めて持ってくるよう指示すると、 さっきまで水を打ったように静かだった教室内がざわつき始めた。
集められた解答用紙をそろえながら雅也くんをちらりと見ると、目が合って。
彼も私を見ていたんだと思うと、急に顔が熱くなった。

「はい、お疲れ様です。各自解答を持って帰って、復習しておいてください」

声が上ずらないように気をつけながらそう言って。
解答を教卓の上に置いてから、こっそり彼に微笑んで、私は教室を後にした。






帰り道。
塾から少し離れた場所で、私は雅也くんと和希と合流した。

私があの塾でバイトを始めた頃は、和希は塾なんて通ってなかったのに。
「父さんと母さんが、姉ちゃんの仕事っぷり見張ってろって」
そう言って、わざわざ私と同じ塾を選んで通い始めた。

「っつーかねえちゃん、雅也のこと見すぎ」

今日は月が綺麗だな、なんてぼーっと歩いていると、突然和希がそんなことを言い出すから。
私は思わず、何もない道路につまづきかけて。
支えてくれた雅也くんの腕になんとかとどまると、「ドジ」という容赦ない和希の声が降ってくる。

「かっ、和希! なに言ってんのよ、そんなこと……」
「見てただろ、今日の試験の時間。オレ、雅也に穴開くかと思ったぜ?」
「み、見てないわよ! そんな!」

「見てないよ、ね!」と雅也くんに念を押すと。
雅也くんは嬉しそうににっこりと微笑む。

「雅也も。姉ちゃんのこと見すぎ」
「……うん…」
「ちょっと、雅也くん! 認めないの!」
「でも…見てたから………」
「はぁ……お前ら、ほんとバカップルな」
「ちがっ!」「……うん」
「……はいはい、ご馳走様」

真っ赤になって、否定する私と。
マイペースに笑みを浮かべている雅也くんを見て、和希はため息混じりに苦笑した。

「でもよ、」と和希は続ける。
私は顔の火照りを手で冷ましながら、和希の方に視線を向ける。

「気をつけたほうがいいぜ。噂になってるから」
「え……?」
「私文コースの女子が言ってた。姉ちゃんと雅也、なんか怪しいって」
「うそ?」
「ま、一部の奴の雑談程度の噂だから、あんまり気にしなくても大丈夫だろうけど」

でも、姉ちゃんは仕事してるわけだし、気をつけろよ。
和希の言葉に、私は息を飲む。
今だって。
無駄に話しかけたり、名前で呼んだり、そういうことしないように気をつけてるのに。
こうして一緒に帰るのだって、時間も場所もずらして、弟の和希だって一緒なのに。

「どこからそんな話になるんだろう……」
「ま、あれじゃね?」

雅也くんと、私と。
ほぼ同時に和希を見る。

「あいつら、雅也に気があるから。敏感なんじゃね?」






和希と分かれて帰ってきた、雅也くんの暮らすアパートの部屋。
私はお気に入りのティーカップに注いだ紅茶に口をつけながら、帰り道の和希の言葉を繰り返し考えていた。

雅也くんは、モテる。

そんなこと、分かっていたことなのに。
ゴージャスでお客さんに抱きつかれる彼の姿だって、嫌というほど見てきたのに。
彼のためのシャンパンコールだって、聞き飽きるほど聞いたのに。

なんでだろう、今更。
私は動揺している。

だって、考えてみれば。
ゴージャスの彼はあくまで“チヒロ”で、 制服を着た、“黒須雅也”じゃない。
ホストという、いわば女の人にもてることを仕事としている人。
だけど、塾に通う“黒須雅也”くんは、 本当に、どこにでもいる高校生。
彼の意思で誰かを好きになって、彼の意思で、女の子と話す。

(さっき和希が言ってた女の子とも、話したことあるのかな……)

頭の中に、何人かの女の子の顔が浮かぶ。
どの子も、積極的で、オシャレで可愛くて。
……そして若くて。

(でも、雅也くんの彼女は私だもん……)

不安を打ち消そうと、私の心の中で呟く。



「明里さん?」



突然、雅也くんの顔が正面に現れて、私は思わず声を上げて飛びのいた。

「あ、ごめんなさい……驚かせた?」
「う、ううん! ごめんね、ちょっとぼーっとしてて」

少しこぼしてしまった紅茶を、雅也くんが拭いてくれる。
「熱くなかった?」と聞かれたけど、むしろ紅茶はすっかり冷めてしまっていて、
長い時間物思いにふけっていたことに、私は気がついた。

「ありがとう、大丈夫。それよりごめんね、ぼーっと座ってて」

洗い物くらいするね、と立ち上がると、雅也くんも私に合わせたように立ち上がる。
不思議に思って振り返ると、雅也くんは私の手首を掴んで、少し困ったように私を見る。

「服、しみになっちゃうから……洗おう?」
「あ、そうだね」
「ついでに……」

「ついでにお風呂、一緒に入ろ……?」
「え、ちょ……っ」

待って、と言おうと思ったけど、こういうときの雅也くんってなんだか少し強引で。
私は腕を引かれるがまま、浴室へ向かうしかなかった。





「さっき、なに考えてたの?」

お風呂の中、雅也くんの声が響く。
一緒にお風呂に入るのは初めてじゃないけど、いつまでたってもどうしても慣れない。
私は視線を泳がせながら、何て言ったらいいものかと話しあぐねていた。
すると、雅也くんは私の顔を覗き込むようにして口を開く。

「さっき、和希が言ってたこと……?」
「うん……」

迷いながら、短く返す。
逃れられない彼の視線に、体が火照るのを感じる。

「塾長さんとかに、怒られる?」
「う、ううん、それは大丈夫だと思う。本当に、その子達の間だけで流れてる噂だと思うし」
「でも、元気ない」
「え?」
「明里さん、さっきから元気ない。なんでなのか、話して……?」

年上だから。
嫉妬したり不安になったり、彼に甘えたりするのは、どうしても気が引けて。
私はこういうとき、決まって口が重くなる。

でもそんな私を見て、雅也くんは、彼特有の優しい微笑みを浮かべて。
そして更に、入浴剤の柚の香りがふっと鼻先をくすぐるから、なんだか私の気は緩んで。

「ねえ、雅也くん……さっき言ってた女の子と、話したことある?」

小さく、小さく呟いたはずの言葉が、浴室の壁に響いた。



呆れられるかと思ったけど。
「ない、と思う」雅也くんはまじめな顔をして、考え込むようにしながら答えてくれる。

「和希とか、他にも何人か、喋る人はいるけど……」
「うん」
「……男ばっかり」
「そうなの?」
「うん。女の子、話すの早いから会話にならなくて……」
「そうなんだ……」
「うん。ゴージャスでは仕事だから、話すけど。仕事じゃなくて話せるの、明里さんくらい」
「……」
「居心地いいの、明里さん、だけ」

「ねえ、もしかして、妬いて……くれた?」
「……うん、ちょっと」

「ちょっと、妬いた」

私の言葉に、雅也くんはやっぱり、にっこり微笑んで。
うれしい、と呟いて私を抱きしめた。





のぼせちゃうと洗い場に出て、置かせてもらっている私専用のシャンプーに手をかける。

「まって、明里さん」

すると、浴槽の中聞こえる彼の声。
振り返ると、雅也くんは自分のシャンプーを一押出して私に差し出す。

「なに?」

疑問に首をかしげると。
雅也くんはざぶざぶと音を立ててお風呂から上がり、私の頭をそのシャンプーで洗い始めた。

「どうしたの?」
「香りなら、バレないから……こっそり、おそろい。ダメ?」

微笑む雅也くんに、私もつられて笑って。
そして、彼のまねをして、うれしい、と呟く。
意外に大きな彼の手が、私の頭を丁寧にマッサージしてくれて、 気持ちよさと幸せに、私は目を閉じた。





翌日。
いつものように教室に入ると、昨日と同じ席に座る雅也くんの姿。

私は教師で。
彼は生徒で。

年の差は、どうやったって埋まらないけど。

「こんにちは。それでは授業を始めます」

彼の隣を歩くと香る、おそろいの香り。





その魔法に、私は幸せを感じながら。
だいすき、と、心の中で呟いた。






END






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※10,000HITのリクで書かせていただきました。
 仕上がりが遅い上に、こんなんですみません。こんなバカップルですみません……(和希に激しく同意)。
 ちなみにリクは、「明里が講師のバイトをするがバイト先がカズキ、チヒロがいる学校」という、なんとも素敵な設定!
 チヒロが教師・明里にドキドキとか、ちゃんと出会う前にチヒロが明里ちゃんに一目惚れとか色々考えたのですが、
 たまにはチヒロにメロメロの明里ちゃんということで……ちゃんとリク内容に沿っているでしょうか、本当にこんなんですみません……。
 初めてのキリリク、とっても楽しかったです!
 リク下さったのはらさん、ここまでお読み下さった皆さん、本当にありがとうございます!