言えなかったわけじゃない。
そう、どちらかといえば、私は。
言わなかった、のだ。
【特別な1日】
真っ白の天井を、ただなんとなく眺めている。
小さい頃、熱を出したときもこうしてぼんやり天井ばかり見ていたけれど、今眺めているのは、私の記憶にある天井と違う。
風邪を引いたときは、特別にお母さんの部屋でお母さんの布団を貸してもらうことができたけど、
今私が寝ているのは、お母さんの部屋でもお母さんの布団でもないから。
ついでに言うと、さっきから心配して看病してくれている人も、お母さんじゃなくて、恋人の雅也くん。
つまり、ここが、私の家じゃなくて、雅也くんの部屋だからだ。
シンプルな真っ白の天井にはほこり1つなく、もちろん木目だってないから、なんだか退屈だな、と思った。
木目の天井なら、ウサギの耳や超音波のグラフみたいな柄があって、それを探していれば結構退屈しないのに。
もういい大人になっちゃったから、そんな恥ずかしいこと口には出さないけど、それでもやっぱりつまんないな、と思う。
吸い込まれそうな天井のオフホワイトに目を泳がせていると、急におでこに何かが当たる。
ぺちっ、と音がして、すっごく冷たい。
何だろう、と布団から手を出してそれに触れてみる。
「……雅也くん」
「寝てて、って言った」
もう、大分慣れた、低すぎる雅也くんの手のひらの体温。
頭の上のほう、ぐんっと視線をたどらせると、仏頂面と目が合った。
今日の今頃、私たちは遊園地にいるはずだった。
今週、雅也くんが試験明けの休みに入る予定だったから、たまにはどこかに行こうって、もう1ヶ月以上前から準備していた。
雅也くんは普段、実習だ試験だ勉強だ何だって忙しいから、たまの休みに入ると私はいつも嬉しくて。
どこ行こうか?何しようか?ってはしゃぐのに、返事は決まって「どこでもいい、何でもいい」だった。
(その後に必ず、「明里さんと一緒なら」という一言が入るから、飽きられてしまったわけではないと思うんだけど)
私も出不精だからあまり気にしてなかったけど、
この前、職場の友達に旅行のお土産をもらったときに、ああ、いいなー……と、思わなかったといえばウソになる。
だって、近所のイベントにすら興味の無い私たちは一緒に写っている写真すら数枚しかなくて、
私たちの特別な思い出を探り当てようとしても、それは日常と混じってしまって区別がつかない。
特別ばかりが欲しいわけじゃない。
でも、特別がないのは、少し寂しいと思う。
だから、楽しみにしてたのに。
すごく張り切って準備して、すっごく、すごく楽しみにしてたのに。
「今年の風邪、こじらすと大変だよ?」
「……うん」
そう、私は風邪を引いた。
電車に乗って、遊園地のそばの駅に着くまでは平気なふりができたのに、その後、人ごみに入った瞬間に参ってしまった。
視界がふらりと揺れて、気がついたらその場にへたり込んでいた。
「分かってるなら、寝てて」
「でも、なんか眠れな……」
「だったら目閉じて。大人しくしてて」
熱があることを隠していた私に、雅也くんはご立腹だ。
さっきから、穏やかな語尾に含まれる不機嫌が少し怖い。
雅也くんの怒りは静かだけど、でもとても手ごわいのを、再会して付き合って半年、最近知った。
これ以上ご機嫌を損ねたくなくて、私は言われたとおり、ゆっくり目を閉じる。
「なんで、いつまで経っても……」
耳の遠くのほう、雅也くんの呟きが聞こえた気がする。
視界の最後、オフホワイトが涙に霞んだ。
どのくらい寝ていたんだろう。
目を開くと辺りは薄暗くて、もしかして夜明けなのかと思った。
寝返りを打つと、枕元に置いておいた携帯電話が手にぶつかった。
開いてみると、画面が目に痛いほど眩しい。18時、夕方だった。
喉の奥のほう、かさかさで、少し息苦しい。
関節は痛くて、動かすとぎしぎし鳴る。
ちょっと汗をかいたみたいで、額に張り付いた前髪が気持ち悪かった。
「……ん」
起き上がろうとシーツについた腕に力を込めると、ひんやりした手がそれを留める。
隣に雅也くんがいた。
「……起きた? 気分どう?」
「うん、大分楽になった、かな」
「ほんとう?」
「え、うん」
笑って見せると、雅也くんは私の腕を掴んでいたその手を離した。
そして、私の顔めがけて伸ばしてくる。
私は慌てて顔を背けた。「だ、だめ」
彼は不思議そうな、またちょっと怒ったような顔をする。
「なんで?」
「汗かいてるよ? 汚いから」
「そんなの気にしない」
逃れようと首を振ったけど、横になって布団に入ったままの私の抵抗は適うわけもなく、
雅也くんの手のひらはいとも簡単に額をとらえた。
「まだ熱い」と眉を寄せた彼は、張り付いた私の前髪をそっとずらしてくれる。
冷たい手は気持ちいいし、まるで壊れ物を触るみたいな優しい雅也くんの手つきは嬉しかったけど、
それでも汗だくの自分を考えると、恥ずかしいのと申し訳ない気持ちのほうが断然上だった。
「だ、大丈夫だよ……」
咄嗟に手を振り払ってしまう。しまったと思ったけれど遅かった。
当然、雅也くんはあからさまにムッとした表情を見せた。
「……ねえ、なんで?」
「え、何が……」
「なんでいつまで経っても頼ってくれないの」
雅也くんの切れ長の目が、私をじっと見る。
いつもは優しげに細められていることが多いのに、今は違う。
まるで、私の中の動揺とか、不安とかわがままとか、全部見透かしてしまうような、そんな目。
焦りに、どきりと心臓が音を立てる。
「雅也くん……? そんなこと、ないよ」
「じゃあなんで、今日何も言ってくれなかったの?」
「何で、って、それは……」
「おれが頼りないから、言えなかったんじゃないの?」
違うよ。
否定したけど、雅也くんは全然納得したように見えなかった。
「あなたに、明里さんに頼ってもらえるように、5年、離れたのに。いつまで経っても、ちっとも頼ってくれない」
寂しげに、もどかしそうに。
雅也くんは目を伏せた。
ねえ、雅也くん。
違うよ、そんなんじゃないよ。
言えなかったんじゃない。
私は、言わなかったの。
だって、言ったらどうしてた?
遊園地なんてダメ、って、そう言ったでしょ?
ただ私は、楽しみで仕方なかった。
ジェットコースターみたいな動きが激しいのも、高く高く上る観覧車も、はらはらするお化け屋敷も、
どれもあんまり好きじゃないけど、それでも。
雅也くんと、行きたかったんだよ。
いつもと違うところに、雅也くんと、行きたかっただけなんだよ。
そう伝えたかったのに、乾いて張り付いた喉は、うまく動いてくれない。
頭も。
頭痛にぼんやりして、働いてはくれない。
言葉の変わりに、涙が出る。
ぼろぼろ、バカみたいに。子どもみたいに。
こんなことでって思うのに、なんだか感情が高ぶって止められそうにない。
呼吸にはすぐに嗚咽が混じって、手の甲で口元を覆った。
ついでに、もう片方の手で、目元も。
すぐに、雅也くんの手が私の両手を掴んで、彼の込めたかすかな力がそれを動かそうとする。
いやだ。
いやだ、こんなの、見られたくない。
抵抗したし、首も振ったけど、やっぱり適わない。
ものの数秒で、私の顔は彼の前にさらされる。
また、射抜くような目が、私の水分たっぷりの目と合った。
「やだっ、見ないで」
「やだ」
「あ、汗とか涙とか、汚いから……っ」
「そんなの気にしない」
風邪引いてるんだもん、当たり前。
彼が言う。
「そ、りゃ、雅也くんは、お医者さんになる人だから、気にならない、かもしれないけど」
「違う。やっぱり……分かってない」
「だって、こんなの、っ! 私ばっかり、泣いて、わめいて」
私ばっかり、楽しみにしてて。
「私ばっか、り、風邪なんかひいて」
私ばっかり、がっかりしてて。
「遊園地、行きたかったの! まさやくんと、っ、行きたかっ……」
なんだか、なんだかそんなの、とてつもなく、
「私ばっかり、恥ずかしい……っ」
困ったみたいに、少し笑った雅也くんが、懲りずに私の頭を撫でる。
汗、本当に汚いのに。
でも、もう気力も体力もなくて、私はされるがまま。
「じゃあ、おれだって恥ずかしい」
何が?
目で聞いてみると、雅也くんは目をそらして、控えめに口を開く。
「医者になるから、じゃない」
「え?」
「……こんなの、明里さんだからに決まってる」
「……?」
「好きだから、心配してる。好きだから、どんなでも……いとおしい、って、思う」
おれだけ?
首をかしげた雅也くんは、すごく優しい目をして、私をもう一度見た。
「気づいてる? おれだって、行けなくてがっかりしてる。でも、心配のほうが、上、なだけ」
「あの、で、でも、雅也くん……どこでも、何でもいいって、いつも……」
「……明里さんと、一緒なら。どこへでも行ってみたいし、何でもしてみたい」
「また、行こう? 連れてく……から。だから今は、ゆっくり寝て? こんなときくらい、素直に頼って」
なんで気づかなかったんだろう。
特別な日を思い出そうとするとき、それを紛らせてしまう、たくさんの日常。
もしかしたら、それは、その日常が、限りなく特別に近いから、だとか。
知らなかった私は、やっぱりすごく、雅也くんより恥ずかしいと思うけれど。
風邪にうなされて、とんでもなくみっともない私ですら、愛おしいと言ってくれるから。
恥ずかしくてもなんでも、それでもいいか、と思えてしまうんだ。
「雅也くん、ごめんね」
「……いい、結局、一緒にいられた、し」
今日もきっと、限りなく特別な一日。
END
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※自分で書くとどうもうまく行った気がしないのですが、女の子が、意地を張ったり拗ねたりしているのに激しくもえます。
そんなの余裕で微笑み返して、ハイハイ、ってなだめる男の子に愛おしさを感じます。
つまり、駄々をこねる明里を、チヒロになだめて欲しかっただけです!