もし、明里が産まれていなかったとしたら。
きっと俺には、他の誰かがいたんだと思う。
もし、明里と出会わなかったとしたら。
きっと俺は今、明里じゃない誰かと一緒にいるんだろう。
きっと、誰でもよかった。
明里に出会って、好きになって、そう言う出来事全てに名前をつけるとしたら。
運命とか、奇跡とか、そんな劇的なものじゃない。
きっとそれは、偶然とか、単なる巡り会わせとか、そういう素っ気無いもの。
でも、それでも、俺は、
【白い金魚】
寝苦しさに目を開くと、まだ夜だった。
体中の汗の感覚が気持ち悪い。
今日はものすごい熱帯夜だと、そういえば寝る前に見た天気予報が言っていたかもしれない。
無意識にクーラーのリモコンに手を伸ばして、止めた。
“喉が弱いから、クーラーはちょっと苦手なんです”
一緒に暮らし始めたとき、申し訳なさそうにそう言った明里が、隣で寝息を立てている。
音を立てないように起き上がって、窓際に向かう。
控えめに開けて外の風を通すと。
白のカーテンが、ふわり、と揺れた。
とりわけ、夢見が悪かったわけじゃない。
体調が悪いときによく見る、何かに追われていた夢でも、どっかからか落ちた夢でもない。
多分、今の俺より、ちょっと歳をとった俺が。
朝メシだか昼メシだかを、やたらと明るいテーブルで食べている夢だった。
そこには2人か、それ以上の人数の子どもがいて。そして、俺の奥さんなんだろうなって人も、いた。
夢の中の俺は、幸せだな、と思っていた。
そう、いい夢だったんだ。
でも、ものすげえ怖い夢だった。
だって、そこにいた、俺の“奥さん”は。
明里じゃない。
明里じゃなかったんだ。
それなのに。
俺はなんの違和感もなく、幸せだな、と。
思って、いたんだ。
窓だけじゃなく、カーテンも少し開けて、窓際に椅子を置いて座った。
風は湿って生温かったけれど、それでも部屋の空気よりはずっと冷たかった。
夜のにおいがする。
幸せとか、不安とか、憧れとか、焦りとか。
人間の感情の全てを、少しずつ含んだような匂い。
大分幼い頃から、感じていた。
夜はものすごく不思議だ。
眠れねえ夜の考え事は果てしなくて、それでいて、思考の回転は驚くほど遅い。
時間や空間が、普通のそれとは違う気がする。
物足りないような、でも満たされたような気分になるんだ。
星があんまり見えねえな、と、空を仰いだときだった。
枕がもそもそと、形を変える音を立てた。
振り返ると、明里が目を擦っている。
夜の空気の中、その腕は驚くほど白く、頼りなく見えた。
「……ん、要、さん?」
「起こしたか? 悪い」
「んーん……」
明里の、まだ体半分、夢の世界のその声に、俺は浮かしかけた腰をまた椅子に落ち着けた。
このまま、また寝ちまうかなと思った。
でも明里は、眠そうに目を開いて。
俺を見た。
「眠れないの?」
「ん、まあ……今日は暑いな」
「クーラーつける?」
「や、いいわ。外の風、案外気持ちいい」
明里はもう、確かに目を覚ましていたけれど、俺は椅子に座ったまま。
もうちょっと風に当たったら寝るから、明里は寝な、と伝えた。
すると明里に、笑われた。
「私もそっちに行っていい?」
「あ? いいけど」
「眠れない子どもみたいな顔してる」
そう、笑われた。
向かい合わせに椅子を置いて。
でも視線は向かい合うわけでもなく、2人で外に向ける。
「なあ、明里」
「うん?」
「俺と会わなかったら、今頃、何してたと思う?」
問いかけながら、考える。
俺は?
俺は明里と会わなかったら、今頃どこで誰と、何をしているんだろう。
「そうだなあ……うーん、想像つかないです」
「日本にいたよな、きっと」
「それはきっと、そうですね」
「誰か、他の野郎が隣にいたんだろうな」
「そ、それはどうでしょう。私モテたりしないし」
少し慌てたような明里の声に、俺は言う。「や、明里は可愛いぜ」
それは、口説き文句のつもりでもなんでもなく、まるで息をするのと同じみたいに、ぽろっと出ちまったから。
なんだか逆に照れくさかった。
でも、照れくさかったけど、素知らぬふりができたのは、きっと夜だから。
「だけどよ」
「はい」
「それが今じゃなくても。明里はきっといつか、結婚とかしてたよな。他の誰かと」
「……うーん」
「俺に会わなかったら、他の誰かを好きんなって、他の誰かとこんな風に話してたかもしれねえよな」
「そう、ですね」
一瞬だけ、風がわずかに、強く吹いた。
カーテンが、舞い上がる。
ひらひらと、それはまるで白い金魚のように。
「なんか、すげえ怖い」
「何が?」
「会っちまったから、もう、明里がここに居ねえなんて考えられねえけど。
会わなかったら、きっと、何も感じないんだ。明里がここに居なくても、何も」
明里がいなかったら、きっと、俺も。
他の誰かを好きになって、たまには、こんな風に眠れない夜を過ごしたりして。
お互いに、今、同じ空を眺めている、俺、や、明里がいなくても。
何の違和感もないんだ。
そんなもの、感じるはず、ないんだ。
風が収まると、辺りは無音になった。
どれくらい、黙っていたのか分からない。
すごく長かったような、でも一瞬だったような気もする。
「でも、要さん」
明里が、華奢な膝を椅子の上で抱えて、口を開いた。
その声は思ったよりも部屋に響いて、明里は声を抑えようと肩を縮める。
「それってつまり、要さんと会わなかったら会うはずだった人がいる、ってことになりますよね」
「……そういや、そうだな」
「その人がものすごく大事な人だったのに、今は何も違和感がない、ってのと同じことですよね」
「……そうなる、よな……」
そうだ。
今、こうしてここに居るから、明里がものすげえ大事だけど。
違う誰かといたとしたら、そいつが俺のすげえ大事な奴になるわけで。
(そんなの、想像もつかねえけど。)
全部、偶然なんだ。
明里に会ったのも、好きになったのも、こうして一緒にいるのも、全部。
たまたま、同じ時間にゴージャスにいて、些細な接点が、巡り会わせで発展した。
それはまるで、下り坂で、不意に足に当たった空き缶みたいに。
ちょっとの偶然が、勢いついて転がっただけ。
「それでも、私は今、要さんと夜風に当たってる」
「……うん」
「結局、どうやっても大事な誰かができるんだから、運命や奇跡なんて、そんなすごいものじゃないかもしれないですけど」
「うん」
「すごく素敵な偶然だと思います」
明里が、笑った。
華奢な腕を、揺らしながら。
「要さんで、よかった、と思います」
相変わらず、白のカーテンはふわふわと揺れている。
夜のにおいがする。
色んな感情が混じったような、少し、切ないにおい。
その中で俺は、キスをした。
あんなに頼りなく見えた腕を掴めば、思ったよりも熱い体温を感じた。
その体温が。
なんだか、すごく、愛おしくて仕方なかった。
もし、明里が産まれていなかったとしたら。
きっと俺には、他の誰かがいたんだと思う。
もし、明里と出会わなかったとしたら。
きっと俺は今、明里じゃない誰かと一緒にいるんだろう。
きっと、誰でもよかった。
明里に出会って、好きになって、そう言う出来事全てに名前をつけるとしたら。
運命とか、奇跡とか、そんな劇的なものじゃない。
きっとそれは、偶然とか、単なる巡り会わせとか、そういう素っ気無いもの。
でも、それでも、俺は、
「……明里で、よかった」
「明里が、よかった」
夜はやっぱり、明ける気配すらみせなくて。
静かな空間の中。
俺たちは何度もキスを繰り返す。
ここにある、幸せを。
たよりない、偶然と巡り会わせを。
確かめるみたいに、何度も何度も、繰り返した。
END
>ラスエス短編・連載
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