ベランダに出ると、遠くから「カラカラカラ」と、カエルの合唱が聞こえた。
そろそろ、雨が来るのかもしれない。
とっくに取り込んだと思っていた洗濯物が、隅っこの方に1つ、
忘れられたことにしょんぼりとうなだれるように下がっていて、慌てて取り込んだ。
サンダルは突っかけたまま、窓の近くにあったカゴにそれを入れると、部屋の中からは夕飯のにおいが溢れてきた。
煮炊きをしているせいだろう、じめじめと暑い室内が少し気持ち悪くて、だから私はもう一度、ベランダに出た。

冷たい、気持ちのいい風が吹いている。
でも、風は湿り気を帯びていて、やっぱり、そろそろ雨が来るのだろうと思った。






【夕暮れの静かな音】






結婚を決めて、数日が過ぎようとしている。
今日までふわふわと、まるで現実味のないような数日間を過ごしていたような感覚だけれど、
別に、具体的にはまだ変わったことなんて何もない、そんな曖昧な毎日。
きっと、まだ動き出す前の静かな環境に対して、やけにうるさい私の頭の中が、チグハグしているんだろうと思う。
忙しく考え事をしてみたり、かと思ったらぼっと空っぽになってみたり、突然の状況を飲み込みきれずにいるのだ。

ベランダの柵にもたれて考える。
この雨の前のカエルの合唱のように、何か予兆があればよかったのに、と。
今、背中の方、久しぶりに戻ってきた実家のリビングで私の父とビールを寄せ合っている、彼。
そう、私の恋人の要さんは、つい数日前、何の前触れもなしに、突然結婚しようと私に言ったのだ。



何も今回に限ったことじゃない。
思い返してみれば、彼のすることは、いつも突然だった。
初めて話をしたときだって、付き合おうと言われたときだって。
私は気がついたらジェットコースターに乗せられていて、風よりも速いスピードで、信じられない道をぐるぐる。
目が回る、なんてもんじゃない。
気がついたらこんなところまで来ていて、私はもう、目を回す暇もなかったんじゃないかって、思ってしまう。

要さんと私が結婚するだなんて。

突然のプロポーズに、私は戸惑いつつも、引き寄せられるように頷いてしまったけれど、
でも、今度こそ、もっとちゃんと考えて考えて、答えを出すべきことだったのではないだろうか。
あれれ?と思ったのも束の間、私の返事に要さんがそれはそれは暖かく笑うものだから、
一瞬の迷いなんてすぐ、その幸せに包まれてほわっと蒸発するみたいに消えてしまったけれど。
でも、流れていく時間に思考が冷やされて、戻ってくる。
そういう迷いや不安、そして、私でいいんだろうかという、焦り。



これが、マリッジ・ブルー、というものなのだろうか。



夕日に染まったこのベランダからの景色が、私の記憶の隅っこをちょこんと引っ張って、その気分に拍車をかける。
例えば、あの坂。
自転車の補助輪がなかなか外れなかった私は、父に後ろを支えてもらいながら、あの坂でよく練習をした。
いつだったか、父が何も言わずに手を離すもんだから、それに気づいた私は驚いて派手に転んじゃったんだっけ。
例えば、あの住宅街の自動販売機。
小学生の頃、男の子にからかわれては泣いて帰ってくる私を心配して、母がよく待っててくれた場所。
私の手をぎゅっと握ってくれる母の手は、いつも冷えていた。私に買ってくれる、オレンジジュースのせいだった。

他にも、友達が好きな人の名前を棒切れで砂に書いてこっそり教えてくれた公園だとか、その子といつもばいばいする角だとか。
忘れていたはずだったもの。とっくに思い出に変わってしまったはずの、たくさんの今が、よみがえる。
景色が、風が、温度が、この色の一つ一つが。
私の中のまあるい優しい思い出を引っ張り出しては弾ませて、私をこの場所に留めようとする。



(別に、結婚するのが嫌、なわけじゃないんだけれど。)



茜色の空に、言い訳をする。
そう、別に嫌なわけじゃない。そうじゃなくって、ただ、私はなんとなく思ってしまうのだ。
今までお父さんとお母さんの“こども”だった私は、ここでおしまいだ、って。
初めてお酒を飲んだときよりも、成人式で着物を着たときよりも、はっきりと。
私は一人の大人になる。
今まで守られてきた家族を離れて、また。新しい家族を作るのだと、そう感じてしまうのだ。

(……できる、の?)

きっと、大好きな人と家族を作るのは、幸せなことだろう。でも。
急に、そういうことになってしまうと、不安の方を大きく感じてしまう。
だって、合図もなかったのだ。
「カラカラカラ」と、雨の前に泣くささやかなカエルの合図さえなく、私は結婚を決めてしまったのだ。
よかったのだろうか、本当に。
私に、要さんが告げてくれた未来を、つくることができるのだろうか。

不安に、涙が押し出されそうになる。
決めちゃったんだからと、強がって鼻をツンっと背けてみたけれど、敵うはずもない。
不安の方が大きくて、私の目は雨よりも早く、足元にぽつりと水滴を落とす。

「明里ー?」

そのときだった。
ベランダの影からひょっこり、要さんが顔を出した。
どうだろう、この、私をジェットコースターに引っ張り込んだ張本人は。
なんでこんなにもひょうひょうと、へらへら笑っているのだろう。
気づかれないように、そっと涙をぬぐう。
どうやらそれはうまくいったようで、彼は「どした? 外になんかある?」と、
お父さんのサンダルを突っかけて、私の隣にやってきた。

「そういうんじゃないですけど。なんか、涼しくって」
「おー、ほんとだ。涼しー」
「ね、ですよね」

ちょっとだけ背をかがめて、窮屈そうにしている要さんの向こう。
両親と和希の笑顔が見えて、私の胸はまた、きゅっと音をたてた。







二人で夕風にあたる。
私より背の高い要さんの髪の毛は、視線の上の方、茜色をキラキラと反射させながら揺れている。

「ほんと、気持ちいいな」
「でしょ? 要さん、パパと飲んでたから、余計に気持ちいいんじゃありません?」
「ぶほっ、バレてた?」
「……もう、二人して、昼間からお酒なんて」

仕方がないなあ、と、私が笑う。
要さんは、少し子どもじみた顔で「わりい」と笑った。

「でも、あー、ほんと、酔いもさめそうだな。いい風」

空を仰いでそう呟いた彼に、「でしょ?」と返す。
すると彼は、私を振り返って、急にまじめな顔をした。
お酒に火照った頬を、まるでアンバランスにして。

「でも、」
「うん?」
「明里は言ってるほど気持ち良さそうじゃねえけど、どした?」
「……え?」
「泣くなよ。心配すんだろ?」

どうして分かるの、なんて、そんなの口にする気にもならない。
これだけ一緒にいたんだ。
日本でも、アメリカでも、ずっと、ずっと。
ジェットコースターの隣で、彼はいつだって、私に笑いかけてくれたから。
私を見ていてくれたんだから。
隠し通せると思った自分に呆れながら、観念した私は、ゆっくり、口を開くことにした。

「あの、」
「ああ」
「別に嫌、とか、辛い、とかじゃないんですけど」
「うん」
「外、見てみたら、こどもだった私の思い出があちこちに転がってて、なんか……その、なんていうか、」

しどろもどろな私の説明に要さんはニッと笑って、私の腕をぐんっと引いて、そして、抱きしめてくれて。
実家でこんな、どうしたもんだろうと思っていると、頭の上から声がした。

「つまり、あれだ」
「は、い?」
「どうぞ? 思う存分泣いてみれば?」

何でもお見通し、の、声がした。



要さんの腕にきゅっと締め付けられながら。
私は思い浮かぶことと、溢れる涙を、ぽつりぽつりとこぼした。

心配性で、ちょっと頑固で。でも最後にはいつも味方になってくれたお父さんのこと。
優しくて、でも、もらった小言は数え切れないほど。私の一番の支えだった、母のこと。
生意気で怒りんぼ、でも、たまにまるでお兄ちゃんみたいに私を守ってくれる、和希のこと。
友達のことや、学校の思い出、近所の犬のこと。
そういう思いつく限り、全部。

何が言いたいのか自分でもよく分からない、分からないけれど、でも私の言葉と涙は止まらなかった。
止まらないほどたくさんの思い出が、止まらないほどたくさんの涙を押し出した。
要さんはずっと相槌を打ちながら、背中をぽんぽん、と、叩いてくれた。
とても優しく、叩いてくれた。

一通り、話し終わったとき。
要さんは私のおでこに合図みたいなキスを残して、腕を緩めた。
そして、あのとき、プロポーズのときと同じ、暖かな笑顔で、口を開いた。

「大丈夫」
「……は?」

なんともシンプルな彼の言葉に、私は思わずぽかんと口を開いてしまった。

「大丈夫、そういうの、全部丸ごと愛してるから。明里の全部」
「え……?」
「だから、明里の家族とか友達とか、思い出とかそういうの全部、まとめて大事にすっから」

その言葉の意味が、どうにも飲み込めなくて。
まだぼんやりとしていると、要さんはその暖かな笑顔の目元を、更にとろん、と緩めた。
そして、言った。

「それに、増えてくから。きっと、自然に。俺の大事なもんも、明里の大事なもんも。
 もしかしたらさ、ホラ、子どもとかできちゃったら、そいつの大事なもんも。」

私で、できるかな?
私でいいのかな?

涙と一緒にそうこぼしたら、要さんはちゅ、と。
唇にキスをして、にーっと笑った。

「なんも、難しくねえよ。つくるもんじゃねえ、きっとできてくもんだから。」
「できてく、もの?」
「明里の両親がさ、明里を愛してんのと同じ。当たり前に、できてくよ、きっと」






「俺は、明里じゃなきゃ無理だから。当たり前に愛せるのは、明里だけ」






どうしたもんだろう、ジェットコースターは、止まらない。
やっぱり予兆なんてなく、信じられない道を、ぐるぐる。

「……私は?」
「え?」
「私は、要さんじゃなきゃダメなんて、一言も言ってない、ですよ?」

風よりも早く進んできた、今までの道。
でも、そうだ。
こんなとんでもない道を無事に進んでこられたのは。投げ出されなかったのは。

「え、ちょ、マジ?! 今更、結婚やめるとか言っちゃうわけ?」
「……んー」
「だ、ダメだダメだダメだ! 頼む、それだけは勘弁!」

いつの間にか、当たり前になっていた。
この速度、頬に当たる風の強さ。
隣で笑ってくれる、要さんの暖かさ。
たくさんの、幸せ。

「……まさか」
「え?」

あっけにとられている、その彼の唇に。
今度は私がキスを一つ。






「まさか、そんなこと言いません! こちらこそ、よろしく、お願いします」






やっぱり降ってきてしまった雨に、二人で苦笑して部屋に上がった。
リビングにはすでに、湯気をゆらす少し懐かしい、見慣れた料理が並んでいた。
その周りには、やっぱり見慣れた三人が、当たり前のように座ってこっちを見ている。

「おせーよ、姉ちゃん。夕飯冷めちまう」
「ほら、二人とも、座って。そろそろ食べましょう」
「母さん、ビール」
「父ちゃん、そんくらいにしておけよ」

その風景に、どうしたって涙はこぼれてしまうけれど。
でも、これでいいんだ。
だって、少しだけ切ないけれど、でも絶対にこれは、幸せな涙だから。



外は雨。
リビングに座ってから、隣の要さんに、こっそり耳打ちをした。

「明日は、晴れるかな?」
「晴れるぜ」

なんで分かるの?
私の問いかけに、彼は何も答えなかったけれど。
明日はきっと、晴天なのだろう。
だって彼は、いつだって予兆なんてなしに、たくさんの大切な感情を、私の両手一杯にくれたから。
お日様のひかりみたいなきらきらを、たくさんくれたから。






翌日、カーテンを開けて、ベランダに出た私を待っていたのは。
真っ青な空と、「ほらな?」と勝気に笑う。



大事な、大好きな、彼の笑顔だった。






END






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*08年6月まで開催されていた企画、ラスエス祭さんに投稿させていただいたSSを、一部加筆・修正しました。
 悟さんで投稿する予定だったのですが、気づけば炎樹を書いていました。
 発売からだいぶ時間も経ちましたが、やっぱりラスエスが、そして炎樹と明里ちゃんが大好きだなあと思いました。
 素敵な企画、本当にありがとうございました!