好きだ、と思った。
でも、口には出せなかった。
こうするしかないと思っていた。
だから私は、いつでもへらっと笑って見せた。
聞きわけがいいふりをしていた。
もしかしたら私は、大人になってみせることで、なんとか持ちこたえていたのかもしれない。
叶わない、ならばせめて、惨めにならないように。
あの子より大人になることで、私は私の自信を、なんとか立てていたのかもしれない。
好きだ、と、思った、その相手は。
親友の、好きな人、だった。
【実る頃】
カウンターの中で、カップを丁寧に磨くその手を、なんとなく目で追っていた。
見慣れすぎてしまったこの喫茶店の風景は、私の感情を何も動かさない。
だから、居心地がいい、と思う。
まるで空気の流れを、時間を、止めてしまったような空間。
ここにいれば、私は外の世界から、完全に隔離されて、守られる。
「薫」
呼びかけられたその声に、ゆっくりと視線をあげる。
そこには、見慣れた従兄弟の顔。
「うん?」
と、我ながら間抜けな返事をすると、呆れたような笑顔が返ってくる。
「悩み事かい?」
「まさか。悩みなら、つい最近、やっと解決したところよ」
「じゃ、考え事だ」
ずばり、と言い当てた従兄弟の笑顔が鬱陶しくて、私は視線を元の位置に降ろす。
カップを磨く従兄弟の指は、とても綺麗。
悔しいから、そんなこと言ってやらないけれど。
「考え事っていうより、なんていうか、気が抜けてたトコなの。そんだけ。」
親友の恋が実ったのは、ほんの数日前。
青い空に漂う真っ白の雲が浮かび上がるようにくっきりとした、気持ちのいい日だった。
「薫、私ね、付き合うことにしたの」
嬉しそうに、恥ずかしそうに。
少しだけ、不安そうに。
親友はその恋の実りを、こっそりと私に教えてくれた。
親友の片思いは決して長くはなかったけれど、でも、とても辛くて暗い片思いだった。
隣で見ていた私は、早く叶えてあげたいと思ったし、でもそれと同時に、砕けちゃえばいい、と逆のことも思った。
先の見えない恋に思えた。
もちろん、親友が好きな人に愛されればいいなと思っていたけれど、
でも、はたから見ていても二人は対等な関係に見えなかったから、だから私は、親友が傷つくことを防ぎたい、とも思ったのだ。
「よかったじゃん! おめでとう」
それでも、私は笑って、準備していた言葉を息に乗せた。
そうしようと決めていたから。
ぼやぼやしているように見えて、実は人一倍、熱いところのある私の親友。
言っても譲らないことは分かっていたし、それよりも何よりも、長い間、彼女の片思いを見守ってきて、気づいたことがあったから。
弱い子だと思っていた。
弱いから、自分じゃ決められないから、だから、私がいなきゃダメなんだ、って。
でも、違った。
彼女は恋をして、強く、美しくなった。
「幸せになるんだよ、明里」
親友の出した結論は確かなものだと思ったし、その後、彼女を迎えに来た彼の暖かな表情を見て、
きっと二人は大丈夫なんじゃないかと、私は心底ほっとした。
確かに、ほっとしたのだ。でも、その後。
私はなんだかもやもやして、気分が晴れなくて、何度も何度も、ため息を吐いた。
喉の奥に、何かがつっかえているような感覚が気持ち悪かった。
でも、ため息をついてみたって、そんなの、簡単に消えるはずがないんだって、なんとなく気づき始めていた。
好きだった。
親友の好きな彼を、私も、好きだった。
奪おうなんて考えたことはもちろん一度もない。
叶わない覚悟なんてとっくにできていたし、それに不満なんて、あるはずもない。
分かっていたのだ。
不器用で、不安定で不恰好だったけれど、彼は確かに親友を愛していた。
彼女をひたすらに見つめる瞳だとか、彼女の感情をなんとか掴もうと必死に言葉を紡ぐ口だとか、
そういうものには偽りなんて一つもなくて、彼はいつも、彼女に向かって、一生懸命で。
入る隙間なんて、なかった。
恋をした相手の親友、というスペースしか、私には開かれていなかった、のだ。
別にそんなのが、苦しいわけじゃないけれど、と、心の中で言い訳をしてから、目の前のカップに口をつける。
喉元に、渋みだけが残る。
中に入っていた従兄弟ご自慢の琥珀色のストレートティーは、すっかり冷めてしまっていたらしい。
「入れなおそうか?」
「いいよ。せっかく淹れてもらったんだもん。最後までいただく」
「そう」
カウンターの中の従兄弟は、私の言葉に肩をすくめて苦笑する。
そして、磨き上げたカップを丁寧にしまってから、私の隣に移動してきた。
手には、ゆらゆらと湯気を漂わせる琥珀色で満たしたカップを携えて。
「…薫はいつもそうだよなあ」
隣に座った従兄弟から発された言葉に、私は短く、「え?」と返す。
「え? “そう”、って、どう?」
「よく言えば、物事の一つ一つに、すごく誠実。はじめたことを途中で投げ出さない子だったよね、小さい頃から」
「うーん、そうかな」
「でもまあ、逆に言えば、諦めるのが下手な子。さばさばしてるように見えて、実は執着してるんだよな」
「しゅ、執着って! それ、どういう意味よ」
「自分の中で決着をつけるからスッキリして見えるけど、でも実は、そうしないと先に進めない。違う?」
従兄弟の指摘に、私は「別に」とふてくされて見せた。
この人の言うことは、的確すぎるんだ、いつも。
小さい頃は、私の良き理解者として随分助けられたりもしたけれど、こうなるとただの厄介者だ。
だって今更、こんなことを自覚しなおしたところで、どうしようもないのだから。
カップの中身を、ぐいっと飲み干す。
琥珀色のフィルターが取れたそこには、私でも知っている有名ブランドのラベル。
私とよく趣味のあう従兄弟が選んだこのカップは、いつもなら私をほんのちょっと幸せな気分にするのに。
今はただ、私のイライラを促進するだけ。
気取りやがって、と、妙に面白くない気分になって、私はさっさとそのカップをソーサーに戻す。
もう帰ろう。
帰って、大好きなアヴリルのライブのDVDでも見て、そしたらその後、半身浴をしよう。
この恋に、決着なんてつけなくたって、私は平気だ。
だって、執着なんてしていない。
叶わないって、とっくに覚悟していたんだから、本気になんて、なるはずないんだから。
いつもみたいに、楽しいことをしながら毎日を暮らしていけば、こんな気持ちももやもやも、きっと風化していくんだ。
「…ご馳走様。今日は帰る。また、」
また、来るから、と、続けようとしたのを、従兄弟の声が遮った。
「好きだったんだろ、明里ちゃんの恋人のこと」
全身が、かっと熱くなるのを感じる。
浮かしかけた腰に、うまく力が入らない。
気づいていたんだ、この人、は。
気づいていて、それで今まで、私に言わずに黙っていたんだ。
「…うだよ」
かすれた私の声に、従兄弟が「え?」と首をかしげる。
考えれば、簡単に分かることだ。
私の従兄弟はきっと、私以上に私のことをわかっている。
そんな彼が、私の恋心に気づかないわけがない。
私が頑張って隠したとしたって、それは小さい頃、押入れに隠した36点のテストを探し当てられたように、
簡単に見つかってしまうんだ。
「そうだよ! 好きだったよ! だから何?!」
ムキになった私は、きっとあの頃から何一つ成長していない。
親友の前で、大好きな人の前で、ずっと強がっていた。
二人が幸せになれれば、なんてそんなの、本当は自分だって幸せになりたかったくせに。
本気じゃないっていいながら、何度も何度も唇を噛んだ。
ぐっと、堪えるときの私の癖。
いつだったろう、それを指摘したのも、目の前の従兄弟だった。
「好きでも、どうしようもないじゃん。諦めるしかないんだよ!」
「薫」
「認めたところで、何も変わらないじゃん! 惨めになるだけじゃん!」
「薫、落ち着け」
「こんな気持ち、なんの意味もないじゃん!」
「薫、落ち着けって!」
ぐいっと、腕を引かれた。
力なく従兄弟の方へ倒れこんだ私の体は、しっかりと抱きかかえられて、そして。
背中に回った従兄弟の手が、ぽんぽん、とテンポよく、私を叩くようにさする。
まるで、母親が子どもをあやすみたいに。
じわじわと、涙がこみ上げてくるのを感じる。
ずっと、凍らせていた涙が、従兄弟の体温に溶かされていく。
「薫、意味ない、なんて言うなよ」
「…なんで」
「知ってるから、だよ。僕は、ちゃんと知ってるつもり。
薫が明里ちゃんを大事にしてたのも、明里ちゃんが好きな人のことを大事にしてたのも」
従兄弟は続ける。
「二人が思い合ってるのを大事にしていたのも、二人の関係を大事に考えていたのも。
薫は二人が大好きで、だから、すごく大事にしていたのを、僕は知ってるんだ」
「だから何なの? そうだったら尚更、私の気持ちなんて、邪魔なだけじゃん」
「そんなことないだろ。叶うかどうかじゃない、だって、気持ちに優劣なんてあるわけないんだから」
ぎゅ、と。
私に回った腕に、力が入る。
堪えている涙が、ちょっとずつ絞り出されて、とうとうあふれ出しそうになっていく。
「薫が頑張ってたのも知ってる。だからそろそろ、自分を認める番だろ?」
「…っ……っく」
「もう、我慢しなくていいよ。二人を幸せにした、薫の暖かい気持ち、認めてやれよ」
従兄弟は言う。
認めて、そして――。
「そして、いっぱい泣いて、幸せになれよ」
「今度は、薫の番だよ」
恥ずかしい、この歳になって、従兄弟の胸でわんわん泣いてしまう、なんて。
バカみたい、私は必死にしがみついて、まるで親に怒られて泣きついた幼い日のように、従兄弟に抱きしめられて泣きじゃくってしまった。
でも、こうやって私は、気づくんだ。
強がりながら、でもきっと、本当はずっと誰かに認めて欲しかったこと。
叶わないと分かっていても、抱えてしまった気持ちは消すことなんてできなくて、だからずっと、苦しかったこと。
言葉にすらならなかった、私の気持ち。
受け止めて欲しい人はもう、遠いところへ行ってしまったけれど、でもこうして、認めてくれる人がいる。
ただ、それだけで。
私は前に進めるんじゃないかって、ちょっとだけ、強気な自分に戻れるんだ。
「薫、知ってるかい?」
泣きじゃくる私の耳元、まるで子守唄でも歌うみたいに、従兄弟は教えてくれた。
熟れたメロンに、そっと刃を入れたとき。
その実はまるでそのときを待ちわびていたかのようにぱっくりと二つに割れて、甘い香りを漂わせるのだ、という。
熟れなかった、私の気持ちもいつか。
時が来れば、甘い甘い幸せを香らせて、幸せを運ぶのだ、と。
従兄弟が作ってくれたパフェのメロンは、まだ少しだけ青かったけれど。
私は最後まで、スプーンを動かした。
大好き、と、伝えられなかった思いにさよならするみたいに。
残さず全部、食べてしまおう、と思った。
涙でぼやけた視界の端。
従兄弟ご自慢の琥珀色が、また静かに湯気を揺らしはじめた。
END
>ラスエス 短編
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