お父さんとお母さんはどこで出会ったの?と聞いたら、小学校、と言われた。
お母さんいわく、お父さんはずっとクラス委員で、頭も良くて運動もできる優等生で、
お父さんいわく、お母さんは保健委員で、大人しくて静かな真っ白い肌の女の子だったらしい。

じゃあ、その頃から二人は好き同士だったの?と聞いたら。
二人は顔を見合わせて、笑ったような困ったような顔をしただけだった。

でも、僕は知っている。

その頃からお母さんはお父さんのことを好きだったし、
お父さんもお母さんのことが大好きだったんだ。



このこと、二人はまだ知らないみたいだけれど。






【夕日とビルのシルエット】






僕は、小学校の帰り、並木の道の角にある公園から見る夕日が大好きだ。
ここの公園から見る夕日は、この辺で一番高いビルにちょうど重なるように沈んでいく。
だから、太陽を後ろに背負った大きなビルは、真っ黒のシルエットになる。
あのビルは昼間に見ると、色も、規則正しく並んだ窓も平凡で大したことないけれど。
後ろから光を浴びた瞬間、まるでそれは後光がさしたように尊大に見える。
『なんだかお父さんみたいでしょ?』
そう言ったのはお母さんだった。僕はもちろん、納得して頷いた。

ここには毎日寄ることにしているわけじゃなかったんだけど、最近僕は毎日公園に寄り道して帰る。
寄らなきゃいけない事情ができたから。
夕日が沈む頃の時間になると必ずここに来て、僕と一緒に夕日を眺めるまだ名前も知らない女の子。
あの子のお話を聞いてやらなきゃいけないから、僕はここに来なくちゃいけない。



ビルが正面に見えるブランコに立って、なんとなく少し漕いだりしていると。
今日もあの女の子が来た。

「こんにちは」
「おう」

今日の女の子は、ジーンズのスカートに水色のポロシャツをきている。
やった、今日は“当たりの日”だ。
あの子の着ている服は、白っぽいものや黒っぽいものが多いけれど、僕は色のあるのを着ている彼女のほうがいいと思う。
特に、青いのはいい。

「今日は早かったのね」
「うん。友達、塾だって」
「へえ。あなたは行かないの?」
「俺は、家でお父さんに教えてもらうから行かない」
「そっか」

女の子はにっこりわらって、僕の隣のブランコに座る。
僕は立ったままでゆらゆらとブランコを漕ぎ続けた。



女の子の話は、いつも色々だ。
会ったばかりのころは、彼女が飼っている子犬のチャロさんの話でもちきりだったし、
その後は彼女の学校で流行っている願いが叶うマニキュアの話だった。
運動会が近づけば運動会の話をしたし、今日の給食の話をすることもあった。

決まっているのは、彼女といられる時間はいつも15分だけ、ということ。
ここに来てから15分ぴったりで、彼女は迎えに来るお母さんと一緒に帰ってしまう。
(ママはこの近くでレジのお仕事をしている、と彼女は言った。)

「ねえ」
「何?」
「初恋は叶わないんだって」

今日の彼女の話はこれだった。
初恋は、叶わない。
僕は思わず眉をひそめた。
だって最近、クラスの友達の間でも、誰がかわいいとか誰が優しいとかそんな話ばっかりで。
なんだかみんな敏感になっていて、僕が隣の子にちょっとノートを貸したくらいで「樫宮あいつのこと好きなんだろ?」とかってからかわれるんだ。
(僕は少なくとも隣の子のことを好きじゃないし、ノートは好きな子にしか貸さない主義でもない。)

「それがどうしたの」

思わず口をついた言葉は予想外に冷たく響いた。
慌てて女の子を見ると、ちょっと泣きそうな目と目が合った。
僕は慌てて言い直す。「どうして急にそんな話なの?」

「お姉ちゃんが教えてくれたの。初恋は叶わないんだよって」
「ふーん。そうなんだ」
「最初の恋はね、必ず失敗するんだって。うまくいくのは、2回目より後からなんだって」
「ふーん」

大して興味もなかったから、僕はなんとなくふーんとはへーとか言っていた。
でも、言いながら気になっていた。
さっきからゆれるブランコからちらちら見える彼女の表情がいつもと違う。
口はへの字に曲がっていて、ほっぺたの頂点はいつもより低い。
悲しそう、なんだ。

何かあったの?と聞こうかと思ったけれど、なんだかそんなこと改めて言うのも恥ずかしくて。
出てきた言葉は、「それで困ってるの?」だった。
僕の言葉に彼女は驚いたように目をまん丸にしてこくりと頷いた。
そして、一言。

「初恋だって、叶うかもしれないよね?」

そう質問を投げかけるもんだから、今度は僕が困るしかなかった。
だって、僕は知らない。初恋が叶うかどうかなんて。
やっぱり曖昧にふーんとかうーんとか言っているうちに、あっという間に15分は過ぎてしまった。





次の日そのまた次の日も、いつものように女の子は公園に来た。
結局答えはでなかったのに、あの日のことなんてなかったみたいに元気だったから、僕は拍子抜けした。
でも、僕の中に彼女のことばはしっかりと残っている。
あの子には、叶えたい初恋がある…?
彼女には、今誰か好きなやつでもいるんだろうか。
家に帰ってからも、僕は“叶わない初恋の話”ばかりが気になっていた。
お母さんなら、何か知ってるだろうか?
いつだったか、お父さんとお母さんは小学生の頃から同級生だったって聞いた気がする。
夕飯の後、食器を洗うお母さんに、飲み終わった牛乳のコップを手渡して聞いてみた。

「ねえ、お母さん」

お母さんは、「うん?」といいながら手を動かしている。
左手の薬指にはまった指輪が、お皿にぶつかってかちゃんと音を立てる。

「お母さんは…」

…初恋って、叶わないものだと思う?
そう続けようと思ったけど、さすがにあからさまでできなかった。
変わりに口から出たのは、それでもやっぱりあからさまな質問だった。

「初恋ってどんなんだった?」

しまった、と思ったけれど遅かった。
それまで僕のことを横目で見ていたお母さんは、途端に僕を直視する。
そして、にこーっと笑って僕の耳に口を近づける。

「好きな子でもできたの?」
「違うよ!」

慌てて否定したけど、慌てたせいで僕は余計怪しくなった。
お母さんはそっかーとにっこりしたけど、僕がうそをついたと思っている(と僕は思う)。
やっぱりいいや、と背を向けようかと思ったけれど、お母さんは水道の水を止めて話を続けようとした。
だから僕は、なんとなく立ち止まってそっと話を始めてみた。

「…友達が初恋は叶わないもんだって、悩んでるんだ」
「へえ、そうなの。その子、好きな子がいるの?」
「分かんない。でも、それがほんとだったら困るって言ってたから、多分いる」

あの日の、あの子の顔を思い出した。
ジーンズのスカートに、水色のポロシャツを着ていたあの日の女の子。
こぐわけでもないのにブランコに乗って、彼女はずっと足で小さく地面を蹴っていた。

「相談に乗ってあげてるんだ?」
「うーん…ううん。違うよ。ただ聞いてるだけ。だって俺、初恋が叶うかなんて知らないし」
「そうなの」
「うん。ふーんとか、へーとか言ってると、勝手にしゃべるんだ、そいつ」

本当の本当は、もっと他のことが言えればいいのに、と思うけれど。
でも、どう考えたってそんなことはできそうにないから、仕方ない。
僕があの子にしてやれるのは、あの子のお母さんが来るまでの15分、一緒にいてやることだけ。
ビルに重なる夕日を、一緒に眺めることだけ。
たったそれだけなんだから。

「いいこと教えてあげよっか?」
「なに?」
「耳かして」

お母さんはそう言って、僕の耳の脇に手を添える。
そろそろ10歳になる僕のお母さんなのに、そのしぐさは僕が見てもちょっと子どもっぽい。
ちょっとかっこ悪いけど、でもお父さんはお母さんのこういうところが好きなんだろうなーって、なんとなく思う。
だって、僕もお母さんのこういうところ、ちょっと好きだから。
僕の耳に、ちょっとあったかい息がぼそぼそとぶつかる。
そのとき聞こえたことばに、僕は息を飲んだ。



「……お母さんの初恋はね、お父さんなの」



ほんと?と聞き返したら、内緒だよ、とお母さんは自分の人差し指を僕の唇に当てた。

「初恋だって、叶うこともあるのよ」
「へぇ…」
「その子に、教えてあげてね」
「うん、気が向いたらね」

僕の口は、天邪鬼に動いたけれど。
明日会ったら、絶対に教えてあげようと思った。
それを言ったら、あの子は笑うかな?
笑ったあの子の顔は大好きだから、笑わせてやりたい。
でも。
なんでかな?僕はちょっぴり、あの子が笑ったら寂しいと思った。





次の日、僕は急いであの公園に向かった。
友達は今日は塾じゃなかったけど、終わりの会のさようならの挨拶も適当に鞄を掴んで教室を出た。
風を切って走れば、景色はぐんぐん後ろに進んだ。
途中で、あの大きなビルが見えた。
まだ太陽は少し高い位置にあったから、ビルは平凡でなんてことなかった。
こういうところも、お父さんみたいだと思う。
お父さんはぱっと見ると、どこにでもあるスーツを着て、メガネをかけて、まるでただのサラリーマンみたいだ。
(確かに、サラリーマンだってことに間違いはないんだけど。)

でも、僕は知っている。
お母さんといるとき、お父さんはとても優しい顔をする。
お父さんはめったに笑わないけれど、でもお母さんを見るときはいつも目で微笑んでいる。
それに、あの大きな手や、低い声。たまにお母さんをかばうように動かす、堅い腕。
すごく、かっこいいんだ。平凡なスーツさえ、あこがれちゃうくらい。
ものすごく、かっこいいんだ。



公園の前まで来ると、僕は額の汗を腕でぬぐった。
背中にはりつくTシャツの感覚が気持ち悪くて、背負っていた鞄を少し乱暴に下ろす。
いつものようにブランコに向かう途中で、僕は思わず息を飲んだ。

まだ、夕日の時間までは間があるのに。
女の子は淡いオレンジのワンピースを着て、うつむいてブランコに座っていた。

「どうしたの」

思わず口に出た言葉は、かすれていて僕は少しむせた。
走りすぎて喉がかわいたんだ、と思った。
女の子は顔を上げて、口だけを動かす。

「………こんにちは」

いつもは、僕を見ると笑ってくれるのに。
今日は口だけしか動かない。

「こんにちは。どうしたの?」
「………」
「何かあったの?」

隣のブランコに座って聞いてみたけれど、彼女は何も答えない。
空はまだ青くて、僕はなんだか変な感じがした。

「…泣いてるの?」
「………」
「何かあったの?誰かにいじめられた?」
「…………」
「どっか痛い?苦しい?…なあ、大丈夫か?」

思わずブランコから降りて彼女の前にしゃがんでみれば、真っ赤な目と目があった。
泣いているのかな、と思ったけれど、彼女の目に涙はなかった。
大丈夫?ともう一度聞けば、彼女は力なく頷いた。「大丈夫」
全然大丈夫じゃないその様子に、僕はなんだか息が苦しくなった。
もう何も言えなくて、僕は黙って、彼女の前にしゃがんでいた。
夕日の時間までずっと、そうしていた。



「…やっぱりね、初恋は叶わないの」



そろそろ特等席に座らないといけない時間だ、と僕がブランコに座ったときだった。
あれほど堅く口をつぐんでいた彼女が、静かに話を始めた。

「お引越し、するの」
「え?」
「お引越しするんだって。遠くで働いてたパパが帰ってくるから」

彼女は小さく地面を蹴る。

「だからね、ママ、レジのお仕事やめるんだって」

僕は、うそ、と言った。
女の子はうつむいた顔をぶんぶん振って、ほんとう、と言った。

「だからもう、明日からここに来られないの」
「…本当に?」
「うん」
「……うそだ」
「ほんとう、なの。今日、ママお仕事やめちゃうの」
「うそだ」
「…ごめんね?」
「そんなのうそだ」
「ずっと、一緒にいてくれたのにごめんね?」
「うそだ!!」

「ずっとずっと、一緒に夕日見てくれたのに、ごめんね」
「うそだ!信じないぞ!」

気づけば僕は叫んでいた。
足元をぐっとにらみつけながら。
あたりは一面オレンジ色で、こぼれそうになった涙をぐっとぬぐって上を向けば、もう夕日はビルの中だった。
大きな大きなシルエットは、いつもみたいにかっこよくて。
さっき見たビルとは全然違った。
全然違って、お父さんみたいだった。

「…初恋だって、叶うんだ」

え?と女の子は僕を見る。

「初恋だって、叶うんだ。俺は知ってる」
「…なんで?」
「…母さんは、初恋だってって言った。父さんのこと」
「それ、ほんとう?」
「ほんとうだよ。母さんは俺くらいのときから、父さんのこと好きだった」

僕は、ビルを見た。
あと少しで夕日は沈んでしまう。
僕もいつか、お父さんみたいになれるのかな。
好きになった女の子を。
あんな風に優しい目で見て、優しい声で話しかけて、優しい腕で守ってあげて。
そんな、平凡に見えるけれどすごくかっこいい、お父さんみたいな男になれるのかな。

それはきっと、大変なことなんだろうけど。
でも、いつか絶対に、なってみせるから。
だから。

「…俺も、叶えてみせるよ。初恋」

女の子に言う。
できるだけ、優しい目で。声で。
俺のはやっぱりまだ、誰でも同じような真似っこで、昼間のビルみたいだけど。

「だから、信じて」

これで、お別れだなんていわないで。
ごめんね、なんていわないで。



「俺はずっとずっと、君が好きだよ」



夕日が沈みきると、あたりは急に群青色に染まる。
でも、俺の前の君だけは、いつまでも淡いオレンジ色だった。
彼女は頷く。
俺の言葉を確かめるように、うん、と深く。一度だけ、頷く。





「私も、あなたが大好きよ」





真っ暗になってしまった帰り道。
僕は途中でお父さんを見つけた。

「お父さん!」

駆け寄れば、振り返って、そして笑顔。
お母さんに見せるのとは違うけれど、でも、僕だけに向けてくれる特別な笑顔。

「遅かったな」
「うん。ごめんなさい」
「気をつけろよ」
「うん」

並んで歩くと、感じるのはまだまだ届かない僕の背丈の小ささ。
そして、なんだか物足りないお父さんの横顔。

「どうした?」
「ううん」

そうか。
夕日がないとビルが味気ないみたいに。
お父さんの隣にはお母さんがいないと、なんだか少し物足りないんだ。
ずっと、昔から決まっていたみたいに。
お父さんとお母さんは、一緒にいることになってたんだ。

「…ねえ、お父さんの初恋はお母さん?」

小さく口にすると。
案の定、頭の上に痛くないゲンコツが降りてきた。
でも、僕はもう分かっている。
お父さんの、赤く染まった耳の端。
お父さんが、お母さん以外の女の人を愛せるはずはないんだ。

出会った頃からお母さんはお父さんのことを好きだったし、お父さんもお母さんのことが大好きだったんだ。
このこと、二人はまだ知らないみたいだけれど。
言ったら、どんな顔をするんだろう?



「帰ろう。明里が待ってる」



僕の手を引いたお父さんの手を、強く握り返す。
そして、頭の中で繰り返すのは。
今日初めて教えてもらったあの子の名前。

そうだ。
いつか、あの公園に帰ろう。
一歩一歩、足を動かしながら、強く思う。

お父さんを待つ、お母さんがいるように。
きっと、あの子が僕を、僕があの子を、ずっとずっと待っている。



ビルの夕日は沈みきったけれど。



玄関で、お帰り、と笑ったお母さんは。
お父さんを優しく照らして、とても綺麗だった。





END





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