晩御飯を食べ終え、食器を2人で片付けて。
明里がリビングに戻ると、夫の要がなにやら重そうなBOXを抱えて立っていた。

「あれ、要さん、それ、どうしたの?」

脱ぎがけたエプロンの裾で何気なく手をふき、明里は首をかしげた。
要はそのBOXをどかっとリビングテーブルの上に置き、にやりと笑う。

「俺のアルバム。ホームシックっての? 
 まあ、そこまでじゃねえんだけど、なんか見たくなってさ。実家から送ってもらったんだ」

要はそう言って、ソファに座った。
そして、BOXからアルバムを1冊を取り出す。
明里がエプロンを縫いでたたみ終えると、要はぽんぽんと自分の隣を叩いた。
それに従い、明里はそこにすとんと座る。

「要さんのアルバム、じっくり見るの初めてかも」

2人は並んで眺めた。
笑いながら、たまには少し切なくなったり、悔しくなったり、恥ずかしくなったり、色んな気持ちをつまみ食いしながら。
めくるページの先に、1つの小さな、奇跡のような思い出が隠れている。そのことも知らずに。

「あ」

“それ”、に。
最初に気づいたのは、明里のほうだった。
アルバムの端っこ、集合写真を指差して明里は口をあんぐりとあけた。

「要さん、これ!」
「え?」
「私、わたし、も! この写真、持ってる!」



これは、ずっと、ずっと昔の話。
偶然が起こした、奇跡の始まりの、物語。






【ファースト・キス】






遊園地の帰り道、30人を越える小学校3・4年生の子どもを乗せたバスは、高速道路を一定の速度で走っていた。
流れる景色に変化はない。
続くのは、防音のために立てられた、壁、壁、壁。
そして、山を貫くトンネル。

(1・2・3・4…)

バスの前方、真っ青な顔をした女の子が、声を出さずに指を折って数を数えている。
その指折りは、トンネルに入る瞬間に始まって、トンネルを出た瞬間に終わる。
彼女の名前は、作上明里という。
この、3つの町内会が合同で催した、夏休み遊園地旅行の参加者だった。

(8・9・10・11…)

帰り道を走るバスの車内は、来るときとは打って変わって静まり返っていた。
みんな、疲れているのだろう。
低く響くバスの走行音と、たまに気の抜けたいびきが聞こえる以外は、何も聞こえてこなかった。
明里は、不安だった。
人見知りが激しく、学校でもなかなか友達ができない彼女は、半ば親に押し出されるようにしてこの旅行に参加したのだけれど、どこに行っても結局同じ。
今日も1日、彼女はほとんど1人でベンチに座っていた。
話しかけてくれる子もいたし、お世話係の大人も気に掛けてくれたけれど、それでも、どうしても緊張がとけなかった。

(17・18・19……19、かあ)

結局なじめないまま、こうして帰りのバスに乗っている。
やっぱり…というのか、なんというのか。
普段から乗り物酔いしやすい明里は、しっかりバスに酔ってしまっていた。
一日中、なんとなく緊張していたのだから当然といえば当然だ。
酔いやすいから、と、明里の母はお世話係の人に伝えてはいたのだけれど、
やんちゃ盛り30人の相手は、やはりたやすいことではなかったのだろう。
お世話係の大人は、「大丈夫?」と、今通り過ぎたトンネルの3つ前のトンネルの中で明里に問いかけたのを最後に、眠りの世界に行ってしまった。

(さっきのトンネルより、短いな)

明里は、ただじっと、数を数えて堪えていた。
早く家に着かないかなと、それだけを考えていた。



そしてもう一人、このバスの中で起きている少年が後方の席にいた。
名前を、綾織要、という。

要は、明里とは間逆のタイプだった。
この旅行の参加も自ら決めて、今日1日、同じ学校の友達とも知らない子とも目一杯喋って、遊んだ。
人見知りはしないほう。
今起きているのだって、周りの子たちと“誰が一番起きていられるか競争”をしていたからだった。
要の勝ちはとっくに決まっていた。
要の前後左右からは、すやすやと穏やかな寝息が聞こえている。

(あーあ、つまんねえの)

要は通路側の席から窓の外を見た。
流れる景色は、グレーの壁の遠くに見える山や、家並み。
動きのないものはつまらない、と、ため息を一つついて、うんっと背伸びをした。
仕方ないから俺も寝るかな、と、瞼を閉じかける。
すると、霞む視界の隅、小さな頭が左右に動いていることに気がついた。

(え、あいつ、起きてる?)

その頭は、要の席の遙か前方にある
寝ぼけているのとは違う、そのおどおどとした動きは明らかに不自然で、要は思わず席を立った。
そして、だらりと手を投げ出したり、隣の子に寄りかかったり、そんなふうに力の抜けた子たちが座る椅子の間の通路を、慎重に、慎重に歩いた。
この空気を壊したくない。
秘密の何かが始まるんじゃないかと、要はわくわくしていたのだ。

明里の隣に到着すると、要はゆっくりと腰をかがめて明里の顔を覗き込んだ。
今日一日、一緒に旅行をしていたのに、覚えのない顔だった。
ということは、話をしていない相手だろう。
要は躊躇なく、明里の座る席の隣の補助椅子を、がたん、と下ろした。

「…え?」

その音に気がついた明里は、要のいる方を振り返った。
要は楽しそうに笑っていた。
そんな彼とは対照的に、明里は表情を硬くした。

「おう、お前、よく起きてんのな」

話題を振ったのは、やはり要の方だった。
こそこそと声を潜めて、明里に話しかける。

「後ろもさ、みんな寝ちまって。
 ここまで来る間にも、真ん中辺の席、ずっとも見てきたけどみんな寝てやんの。つまんねーの、と思ってさ」

明里は困惑した。
知らない人と話すのが苦手なのだ。
しどろもどろに、ああ、とか、うん、とか、短く相槌だけを返す。
要はそれでも楽しそうに、ニコニコと話を続けた。

「今日、楽しかったよなー。あの、足ぶらぶらのジェットコースター、おまえ乗った?」
「え、あ、ううん」
「えー、なんでだよ。めちゃくちゃすごかったぜ、アレ」
「そうなんだ」
「あとさ、バイキング…なんだっけ? あれも良かったけど。俺、スリル系すっゲー好きなんだ」
「へえ、そうなんだ」

加速する要の話に、明里は混乱した。
嫌だなあ、早くどこかに行ってくれないかなと思っていた。でも。

「あー、もっかい行きてえな。っつーか、今から戻ってもいいくらいだぜ、俺」

新緑のような爽やかな声色に思わず顔を上げると、そこには極上の笑顔が広がっていて。
わあ、と、思わず明里はつられて頬を緩めてしまうと、あとはもう、簡単だった。
硬くなった気持ちが、表情が、肩が、ゆるゆると柔らかくなる。
途中にいくつかトンネルを通過したけれど、明里はもう、指を折らなかった。
楽しかったのだ。
要の話が尽きないのも、みんなが寝ている車内で、こそこそと、まるで悪いことをしているかのように内緒話をするのも。
明里にとっては全て新しくて、楽しいことだったのだ。



一方、要も楽しんでいた。
明里の反応は小さなものだったけれど、一生懸命話を聞いてくれることが嬉しかったし、
たった2人だけ起きているのだということも、なんだか特別な気がして。
なにより。
明里がたまに見せる笑顔が、ふわふわと、まるでマシュマロみたいにやわらかいのが気持ちよくて、
小さく漏れる声が、プールびらきの日の水のようにさらさらきらきらしていて、気持ちよくて。
明里が、可愛くて。

2人はしばらく、話を続けていた。
でもやがて、酔いの覚めた明里が、たまにうとうとと、頭を揺らし始めた。
相槌も、曖昧になっていった。

「なあ、聞いてる?」

そんな明里に気がついて、要は明里にそう問いかけた。
返事はなかった。

(なんだよー…)

つまんねえから、ゆすり起こしちまおうか。
要はそう思って、明里の前に身を乗り出した。
でも、その考えは一瞬にして吹き飛んだ。
驚いたのだ。明里の寝顔に。
それはまるで、干したての布団のように心地良さそうで、寝息のひそやかさは、まるでその布団の上に敷く、洗いざらしのシーツのようで。

(な、んだ、これ)

要は明里から目が離せなくなった。
そして、気がつけば要の頭の中は光を浴びたように真っ白になっていた。
引き寄せられるように、要は明里の前に身を乗り出した。
無意識に明里の顔の両側に、自分の手をそっと、突っ張って。

ちゅ、と。

ほんの、一瞬だっただろう。
要の唇が、明里のそれに重なった。
寝ている明里はもちろん、自分からくっつけた要にさえ、何が起きたのか分からない。
何をしたのか、分からない。
状況が把握できたのは、それからしばらくして、明里の後ろに座っていた子が、「ううん…」と唸り声のような声をあげ、目を開いたとき。
要は、分かった。分かってしまった。

(うわ、これ、ファースト・キス、ってやつ?)

自覚した瞬間、要の鼓動は速度を上げた。
立ち上がって慌てて補助椅子を元に戻すと、何もなかったようにずんずんと自分の席まで歩いていく。
途中でいくつかの体にぶつかって、何人かの子が起きた。
それは伝染するように広がって、要が自分の席に戻る頃には、ほとんどの子が目を覚ましていた。
まるで、今のことが夢だったように。

「あれ? おれ、寝てた?」

席に座った要は、隣の少年にそう問いかけられた。
要は、笑った。
どきどきしていたけれど、でも、なんでもないふりをして、笑った。



「ああ、みんな寝てやんの。俺の勝ちな!」



その後、バスはすぐに到着してしまい、降りてすぐに町内会ごとの集合がかかり、解散になってしまった。
要と明里は、一言も言葉を交わさなかった。
本当に、なにもなかったみたいに。
名前すら聞かなかったな、と、要と明里がそう気がついたのは、家に帰って、この集合写真を見てからだった。
明里は、あの日できたたった1人の友達を、要はファースト・キスの相手を、しばらくの間忘れられずにいたけれど。
小・中と学区の違う2人にその後の接点はなく、お互いのことはあの日の思い出と一緒に次第に霞んで、
いつのまにか、また会いたいという思いは時間の波にさらわれるように消えてしまった。

二人が再会するのは、それからずっと後。
要は芸能人に、明里は父経営のホストクラブに顔を出すようになってからのことになる。






「え、マジ?! これ、明里なの?!」

大人になって結婚した2人は、今、やっと1枚の写真に再会する。

「そうだよ、これ。これ、私ですよ! 要さん、これでしょ?」

お互いが、思い出す。
あの日、皆が寝てしまった車内で話したこと。
こっそりこっそり、笑いあったこと。

「うわ、うっわー…なんか、すげえんだけど」

明里は、たった1人の友達を。
要は、ファースト・キスの相手を。
思い出して、2人でまた、笑った。
まるで奇跡のような偶然が、おかしくて、不思議で、笑った。
笑いながら、要は考えていた。
あのファースト・キスを、妻に打ち明けようか。どうしようか?



それは、ずっと、ずっと昔の話。
偶然が起こした、奇跡の始まりの、物語。

(やっぱり、なんかもったいねえから、あのときのキスは、内緒にしておこう)

運命のキスの、物語。






END






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