小さな子どもは好きじゃない。
所かまわず騒ぎ散らすし、それを注意すれば大泣きするし、普通にしていても怯えるし、懐かないし。
そんな俺が、どうしてこんなことになっているのだろう。






【ごめんね、だいすき】






真夏のビジネス街、昼下がり。
スーツ姿の樫宮は、どうしたものかとため息をつきながら、木陰のベンチで少女と向き合っていた。

「で、君、名前は」

少女は答えない。
口を噤んだまま、怯えた表情で樫宮を見上げて、それから視線を落とした。



この少女を樫宮が見つけたのは、ほんの五分前のことになる。
かっちりとしたスーツを着た人たちが、早足で行きかうこの場所で、少女はぽろぽろと涙をこぼしていた。
その浮いた姿は明らかに目立っていたけど、忙しそうな人々は視線をチラリと向けるだけで、誰も足を止めようとはしなかった。
樫宮も、その大人たちの一人になるはずだった。
でも、通り過ぎた瞬間、視界の隅に映った少女の影はとても小さく頼りなく。
樫宮は後ろ髪を引かれるように、思わず振り返ってしまった。
頭が固いくせに、面倒なことは嫌いなくせに。
それ以上に樫宮は、心配性で生真面目なのだ。
放っておくことなど、できるはずがなかった。
気がつけば樫宮は少女の前に足をすすめ、「どうした」と、声をかけていた。



しかし、困ったことに、この5分間、少女はだんまりを決め込んでいた。
樫宮は頭を悩ませていた。
営業という仕事の昼休み時間は、ある程度融通が効く。
とはいえ、ずっとこのまま、ここでこうしているわけにはいかない。
それに、こんな人の多い通りで、スーツ姿の男と、幼い少女が二人…通行人の視線を気にしないことも、難しかった。

どうしたものだろう。
樫宮は首を軽く傾げたが、やっぱり少女は口を開く気配すらない。
小学校の3〜4年生くらいだろうか、顔そのものはとても端整で大人びているのに、その表情やしぐさはアンバランスに幼い。

(しかし、名前も言えない歳でもないだろうに)

苛立ちは募れど、このままこうしていても仕方がないことは明らかだった。
今更何事もなかったように立ち去ることなどできるはずもないと、小さくため息をついた樫宮は、膝を折った。

「君の、名前。言えるか?」

今までよりもゆっくり、目線を合わせてそう聞いてみる。
すると、少女は恐る恐る口を開いた。

「あ…あかり」

樫宮は一瞬、驚きに目を見開いた。
偶然にも、今朝ケンカをしてきた、自分の妻と同じ名前だったのだ。

「ん…あ、あかり、さん、というのか。そうか」

冷静を取り戻すために、こほん、と一つ咳払いをしてから、そう応える。
続けて、「苗字は?」と、促した。
でも、樫宮の動揺を敏感に読み取ったのだろう。
少女はまた表情を固くして、口を開こうとしなかった。



今日は、とことんついていない日だ。
樫宮は、そう思った。

妻と朝からケンカをするし、ビジネス街で泣いている少女を見つけて話しかければ、この有様だし。
大人しい顔をして強情な妻と、頑固な樫宮がケンカをするのはいつものことだし、
昔から、気がつくと学級委員だの生徒会だの、割と損な役回りを引き受けていることも多かったから、
こんな不運は慣れっこだと言ってしまえば、そのとおりなのだけれど。

樫宮は心の中で舌打ちをし、口を噤む少女にこれ以上の質問をすることを諦めた。
知っていたのだ。こういうときは、焦っても仕方ない。面倒ごとを解決するには、いつだって忍耐が必要だ。
樫宮はベンチに腰を下ろす。
角度を変えた真っ黒の営業鞄が、太陽の光をきらりと反射した。

「…今日は暑い。喉が、渇くな」

どうせ返事がないだろうことは分かっていた。
樫宮の予想通り、その言葉は独り言になり、宙に浮かんで、すぐに消えた。
しかし、間もなくして、樫宮の前に、真っ白な小さなてのひらが差し出された。
その手のひらの上には、オレンジ色のキャンディーが一つ。

「どうした?」

樫宮は身を前に倒し、少女を覗き込む。
すると、あかりと名乗ったその少女は、樫宮をちらりと見ることもなく、

「少しは、のど、ましになるかも、しれないです、から」

そう途切れ途切れに呟いて、キャンディーをまた少し、樫宮に近づけた。

「あ、ああ…ありがとう」

からからの喉に、見るからに甘ったるそうなキャンディーは気が進まなかったけれど。
でも、キャンディーのオレンジがあまりにもおいしそうに光るものだから、柄にもなく、樫宮はそのキャンディーの袋を開け、口に入れた。
とても、懐かしい味がした。

「うまいな」
「あ…よかった、です」
「ありがとう」



時間はゆっくりと、ゆっくりと流れていた。
これから行かなくてはならない得意先のことも、昼休みのオフィス街を行きかう人の視線も、もう、さほど気にならなくなっていた。
それは諦めでもあったし、オレンジキャンディーの懐かしい味が樫宮の遠い思い出を引き出したせいでもあった。
相変わらず、黙ってうつむく少女の横顔が、そっくりだったのだ。
その心細げな眉や頼りない目が、妻の明里の幼い頃に重なって、
なんだか甘酸っぱいような、くすぐったいような、そんな気持ちになっていたのだ。

「…君に、何があったのかは、分からないが」
「え…?」
「俺も今日、嫌なことがあってな。奥さんとケンカして、弁当作ってもらえなかったんだ」

樫宮は、「嫌な日もあるもんだよな」と、少し笑った。
我ながら、愚痴交じりの下手な励ましが照れくさくて、樫宮は眼鏡を少し上げた。
少女はその言葉に少し笑って、その後に寂しそうな顔をした。

「私は…私、も。委員長に、怒られちゃって」
「ん?」
「体育の準備で、ハードル並べるの、失敗しちゃって、私、怪我しちゃって…
 委員長が、お前がぼさっとしてるからだって、言うから、わたし…ハードルの準備、できなく、なっちゃって」

樫宮は驚いて、まじまじと少女を見た。
『委員長』、『あかり』…繋がりが、濃くなった気がしたのだ。
顔や雰囲気だけじゃない。
少女の言葉までもが、樫宮の懐かしい思い出に重なる。

夢を見ているのではないか。
樫宮は本気で思った。
さらりと吹いた風にきらりと光った、木漏れ日のはかなさとか。
少女越しに樫宮の視界に移る、遠くのアスファルトの上、ゆらゆらと揺れる、蜃気楼だとか。
当たり前の景色なのに、一つ一つが全身にしみこんでいくようで、樫宮の思考は懐かしい日の夏の濃い匂いに同化していく。
樫宮の口から、無意識に、言葉がこぼれた。

「その、」

委員長、の、名前は――。
しかし、言葉の途中で少女はすくっと立ち上がった。そして、頼りない顔で、笑った。

「やっぱり、謝ってきます」
「え、あ、ああ」
「お兄さんも、奥さんに、謝ってみた、ら…?」

今度は、少女が樫宮を見下ろしている。
そして、力強い声で樫宮に言った。

「私、委員長に、嫌われたくない、ん、です。だから、えっと、お兄さんも、がんばってください」

少女はぺこり、と、一つお辞儀をして「話を聞いてくれて、ありがとうございます。これよければ、あめ、もう一個、どうぞ」と、小さな声で言った。
樫宮は、「あ、ああ、ありがとう」と、返事をしたが、あまりにもその声は小さすぎて、少女に届いたかどうかはわからなかった。
去っていく少女の後姿は、次第に小さくなっていく。
その影が遠くに揺れる蜃気楼に包まれるまで、樫宮は、そこを動けずにいた。
ふわふわ、ゆらゆら、
まるで、タイムスリップの感覚に酔ってしまったように。
動けずにいた。






本当に、ついていない一日だった。
樫宮はあのあと、遅刻した得意先には怒られ、昼ごはんも食べそびれた。
全ての時間がずれ込んでしまったため、社に戻ってから処理するはずだった案件にきりをつけて、時計を見たら、すでに時計は十一時を回っていた。

最終の電車で家に帰り、玄関の前で鞄の中の鍵を探った。
きっともう、妻は寝てしまっているだろうと思っていたのだ。
昨日の今日どころではない。今朝、ケンカをしてしまったのだから。
そうじゃなくても、起きていて待っている時間でもないから、樫宮はチャイムを鳴らすことはせず、探り出した鍵でドアを開けた。

真っ暗だろうと予想していたのに。
リビングからは温かな光がひっそりと漏れていた。
樫宮は少し不思議に思いつつ、消し忘れだろうかとリビングに向かい、そのドアを開けた。

「わっ!!」
「う、わっ?!」

驚いた二色の声が、深夜のリビングに響く。
樫宮の予想に反して、明里は起きていた。
パジャマ姿にカーディガンを羽織り、ダイニングテーブルで眠気覚ましのコーヒーを飲みながら。

「びっ、びっくりしたあ…チャイム、鳴らしてよ」
「いや、てっきり、寝ているかと思って」

今朝の空気の続き。
二人は少しぎこちなく、そう言葉を交わしながら、樫宮はスーツを脱ぎ、明里は夕食を温めに席を立った。
二人の視線は、ずれていた。



樫宮が、その上着をハンガーにかけようとしたとき。
ポケットから一つ、何かが転がり落ちた。
昼休みに会った少女が、別れ際に手渡してくれた、キャンディー。
今度はリビングの光に反射して、オレンジ色がきらりと光った。

―お兄さんも、がんばって、ください。

蘇った言葉に、樫宮は苦笑した。
なんだか、変な感じがしたからだ。
妻とのケンカの仲直りを、妻と同じ名前、妻と同じような雰囲気を持つ少女に、励まされたことが。
結局、あの少女と委員長とやらは、仲直りできたのだろうか。
できたのかもしれない。
でも、なんだか、妻の明里と同級生だった自分の小学生時代と重なって、
もしかしたらまたケンカと言うかなんというか、委員長の“好きな子いじめ”が始まったかもしれないな、と、なんとなく思った。

「明里」
「うん?」

リビングに戻るとテーブルの上には、湯気の立つ料理が並んでいる。
ゆらゆら揺れる蜃気楼に消えていった、少女の後姿が頭に浮かんだ。
その残像に後押しされるように、樫宮は言葉を紡いだ。

「今朝は、悪かったな」
「え…どうしたの? 珍しい」
「たまには素直になるのも悪くないと思ってな」
「…へんなの、祐一郎」

いただきます、と。
今日はじめてのまともな食事を前に、樫宮は手を合わせる。
目の前では、妻の明里が眠たそうな顔で、樫宮の方をぼんやりと眺めていた。

「なあ、明里」
「うん?」
「飴は、何味が好きだ?」
「は…? 本当に、何か変よ、祐一郎」
「いいから」

昔と同じ。
二人はいつまでたっても仲直りが下手くそで、お互いに、なんとなく不機嫌な空気を纏っている。
でも、それでも一緒にいるのは。こうして明里が樫宮の帰りを待っていて、樫宮が、明里にぎこちなく話しかけるのは。

「うーん…オレンジ、かな?」

明里の答えに、樫宮は心の中で、満足げに、笑った。



――私、委員長に、嫌われたくない、ん、です。



結局は、そういうこと。
樫宮は明里を好きで、明里は樫宮を好きで。そういうこと。ただ、それだけのこと。
やっぱりな、と、笑った樫宮を、明里は不思議そうに眺めていた。
樫宮が「ごちそうさま」と箸を置くまで、ずっと。ずっと、そうしていた。






END






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