昔から、腕っ節は強いほうだった。ケンカでは負けなし、敵討ちも失敗なし。
だけどちょっぴり、勉強は苦手。
絵に描いたような、近所のガキ大将だった。
家常祥行、30歳。
大人になった今は、格闘家養成ジムでコーチをしている。
【ひらひら、泳ぐ】
額から流れる汗を手の甲でぬぐって、祥行は太陽を仰いだ。
今日も太陽は元気に光を放ち、公園のベンチを、噴水の水面を、青々とした芝生を、容赦なく照らしている。
真夏のサウナスーツほど不快なものはない。
祥行はふうっと長く息を吐いて、体に纏わりつくそれを指でつまんでさわさわと動かした。
その動作に、汗のにおいがむわっと立ち込めて、祥行は思わず「うわ、汗くっせー…」言葉をこぼした。
コーチになった今、ここまで減量に励む必要はないんだけど。
祥行は背中を伝う汗の感覚に、ほんの少し眉尻を下げ、でも、と思考を巡らす。
あまりだらしのない体をしていては教え子に示しがつかないし、
何より妻が最近、「祥行さん、おなか」、としきりに笑うから、なんとなくやらずにはいられないのだ、と。
さあ、もう一走りするかな。
祥行はその場で小さく跳ね、そして、軽く腕を回してからジョギングを再開した。
公園を出て、この外を大回りしてみようか。
そう思って足を進めた先で、彼はランドセルの一団に遭遇した。
(くろ、くろ、くろ、くろ、くろ。あか)
横目にランドセルの色をたどると、どうやら、5人の男の子に女の子が1人混じっているようだった。
どこぞの静ちゃん状態か? と、そんなことを考えながら横を通り過ぎようとしたら、思わぬ一言が耳に入った。
「返して欲しいなら、取り返してみろよ!」
思わず足を止める。
今度はランドセルの一団を真正面にとらえてみると、その光景は、静ちゃん状態なんてそんなほのぼのしたものではなかった。
背の低い赤いランドセルの女の子は、黒のランドセルに埋もれるかのように囲まれている。
そして、その黒のランドセルの中でも、一際背の高い男の子の手には、クリーム色のハンカチ。
「か、かえし…」
「とっろいよなー、コイツ」
祥行は、大きなため息をついた。
今度は、サウナスーツに、ではない。
目の前に広がる、なんだか懐かしいような、でもあまり気持ちの良くない、そんな光景にため息が出てしまったのだ。
女の子は、からかわれている、もしくは、いじめられているようだった。
祥行の目には、ひらひらと空中を泳ぐハンカチと、それに向かって賢明に伸ばされる小さな、真っ白の手が映っている。
仕方がないな、と、祥行はゆっくり、足を進める方向を変えた。
「はーい、終了、っと」
せわしなく動いていたハンカチを、祥行がすっと取り上げる。
近づいてみればなんてことはない、一際大きく見えた黒のランドセルの男の子も、赤いランドセルの女の子と同じくらい小さかった。
きっと、遠くから見れば祥行だけがまるでガリバーのように大きいのだろう。
「な、なんだよ、おまえ」
黒の一団は予期せぬ展開に驚いて振り返り、そして祥行の姿に、一瞬で怯えたようだった。
ざし、と、砂と靴のすれる音が、小さな足元から聞こえる。
「なにって、そうだなあ…正義の味方、とか」
祥行はそう言って、にやっと笑って見せた。
そしてそのあと、その5つの黒のランドセルを順にぐいっと引っ張り、そして一人ひとりの額を拳でコツンと小突く。
男の子たちは、大袈裟に「いてっ」と呟いた。
「寄ってたかって女の子いじめるなんて、弱い奴のやることだよ?」
その一言に、男の子たちはぐっと押し黙る。
彼らの瞳の色は反抗的ではあったが、祥行に対抗する様子はなかった。
本能とでもいうのだろうか、まるで勝ち目がないことを悟ったように、彼らの足は少しも前に進まない。
「分かったなら、ホラ、この子に謝って。健康的にスポーツでもやりなさい」
男の子たちは少し罰の悪そうな顔をして、それぞれに女の子を一瞥した。
その視線は謝罪というには不十分だったが、一応、悪いことをしたという自覚はあるようだった。
女の子のこわばっていた肩は、少しだけ力を抜いたように祥行の目に映った。
結局、謝罪は声にはならなかったけれど、「面白くねえの」と一人が呟いたのをきっかけに、男の子たちは尻尾を巻いた。
彼らの背にある黒のランドセルが、太陽の光を反射してきらりと光る。
そして、その黒の集団はがちゃがちゃと音を立てながら、祥行と少女の前から遠ざかっていった。
彼らが走っていった方向を、まるでガリバーのように大きな祥行と、小柄な女の子は並んでじっと見つめていた。
太陽は、相変わらず強い日差しであたりを照らす。
黒にも、赤にも。
いじめっ子にもいじめられっ子にも、大人にも子どもにも、ただ、平等に。
木陰では、賑やかな日差しに加勢するように蝉が声を上げている。
「はい、これ。ハンカチ」
祥行は身をかがめて女の子と視線を合わせ、さっき手にしたハンカチを差し出した。
女の子は小さくお辞儀をして、おずおずと手を伸ばす。
「ダメだよ? 次からは、ちゃんと、“返して”って言わないと」
無口な女の子に祥行はゆっくりとそう言って、頭に2回、ぽんぽんと手を置いた。
ハンカチは、祥行の大きな手からゆっくりと少女の手に渡っていく。
頼りないその姿に、じゃあね、と、祥行は微笑んだ。
「あの、おにいさん、汗」
背中を向けようと思った瞬間だった。
女の子が、真っ赤な目で祥行を見つめて、そしてハンカチを持った手を伸ばしてきた。
そして、女の子は祥行の額の汗をぬぐう。「ありがとう、ございます」と、何度も、何度も。
そして、ひとしきり汗を拭き終えると、「よければ、これ、使ってください」と、
クリーム色のハンカチを祥行に押し付けるようにして、走って行ってしまった。
今度は少女の背中の赤が、太陽の光をきらきらと反射しながら遠ざかっていく。
その姿を眺めながら、祥行は昔のことを思い出していた。
やんちゃだった頃の自分。ケンカをやっては人を傷つけていた、そんな自分。
(バカ、だったよなあ…誰が正義の味方、だか)
さっきの女の子の涙にそんなことを考えて、途方に暮れる。
次々に思い出される、若い日の過ち。
あの頃、太陽の光は平等だなんて知らなかった。自分ばかりが不幸だと思っていた。
背負っている黒いものは誰かのせいで、それは一生消えないものだと信じて疑わなかった。
(優しくなりたいと思えるようになったのは、いつ頃からだっけ?)
記憶を辿る。
親と別れた頃? 初めて彼女ができた頃? 今働くジムのおやっさんに会った頃…?
たらり、と、額に汗が流れる。
祥行はさっきの女の子から押し付けられたハンカチでその汗をぬぐった。
さっと、そのクリーム色を広げてみる。
ひらひらと、風に泳ぐハンカチ。
それは、自宅で見るベランダの洗濯物と重なった。
(そっか、明里ちゃんと一緒になりたいと思った頃だ)
祥行は、妻のことを思い出した。
臆病で、ついからかいたくなるような、妻の明里。
最初は、ただ初々しい子だなって、そう思っただけだった。からかったときの反応が面白くて可愛いだけだった。
軽い気持ちで遊びに誘ったりもした。
でも、それでも彼女は下らない冗談にもいつも笑ってくれて、いつも真剣に話を聞いてくれて。
祥行が目を患ったときもそうだった。
なんでもないような態度で、辛抱強くずっと傍にいてくれた。
真っ暗な世界に、一生懸命光を注いでくれた。
祥行は、明里に会って初めて知ったのだ。
光に背を向ければ、目の前に影が広がる。耳を塞げば、孤独になる。でも。
向き合えば、そこに光がある。
(光が反射するみたいに。真っ暗な世界を照らしてくれる彼女に、何かを返したいって思ったんだ)
祥行は苦笑して、首を捻る。
できているのだろうか。
妻を、幸せにしたいとそう思うけれど、でも、本当にできているのだろうか。
自信はない。
彼女のくれる愛はいつでも大きすぎて、自分のできることなんてちっぽけに思える。
(結局、もらってばかりだ、いつも)
きらりと光った太陽に、ハンカチが透けた。
その光に誘われるみたいに、祥行はハンカチ越しに空を仰ぐ。
ふと視界に入ったのは、ハンカチの隅に書いてある、小さな名前。
その文字を何気なくたどり、祥行は息を飲んだ。「はっ?!」
―さがみ あかり
決してありふれた名前じゃない、旧姓の頃の妻と同じ名前に、祥行はぐっとツバを飲む。
状況が理解できない。
さっきの小さな女の子の顔を思い出す。似てなくもない。
でも、妻は今、自宅で子守をしているはずであって…。
混乱しながらそのハンカチをじっと見ていると、ポケットで祥行の携帯電話がぶるぶると震えた。
そこには、新着メール1件の文字。
祥行はいつもの動作で、妻の名前で埋まった受信ボックスの一番上、未読のそれを開いた。
そしてもう一度、息を飲んだ。
『家族が、増えたみたいです』
祥行は、その嬉しさに体を震わせた。
だらしなく頬を緩ませた。
何度も何度も、メールを読み返した。
目頭が熱くなった。
涙が、零れた。
ぬれた顔をハンカチでぬぐう。
そして、祥行は思った。
さっき泣きべそをかいていた、妻と同じ名前の幼い女の子。
あの子は、もしかしたら、幼い日の妻なのかもしれない、と。
幼い日の妻が、また、贈り物を届けに来てくれたのかもしれないと。
なにを、返信しようか。
何を言っても、返せない気がする。
でも、優しくなりたいと思う。妻を、子どもを、精一杯、愛したいと思う。
全て、妻が教えてくれたこと。
祥行は携帯のボタンに手をかける。
そして、天を仰いだ。
真っ青な空。貫くような、太陽。
ハンカチをひらひら、もう一度風に泳がせた。
透かして見える太陽を、携帯のカメラで、ぱしゃり、と切り抜いた。
そして、返信メールにはその写真と、そこに一言。
『いつも、大切なものを、ありがとう』
君を、愛せてよかった。
祥行はそんなことを心の中で呟きながら、送信ボタンに置いた指に力をこめた。
END
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