たまに、遠くを見ている。
私を通り越して、ずっと、ずっと遠く。
窓のガラスや、ベランダの洗濯物なんてまるでそこにないものみたいに、突き抜ける。
彼の強くて、とても寂しい視線。

どこを見ているんだろう、何を。
もしかしたら、ここにはないものなのかもしれない。
ここではない、どこかずっと遠く。



私たちとは繋がらない、せかい、なのかもしれない。






【ウォータープルーフ】






休日の夕方というのは、どうしてこんなに切ないのだろう。
空気を甘い色に染める夕日も、今日1日で使い古してしまった、すこしよどんだ風も。
外を歩けば漂ってくる夕飯の香りだって物悲しいし、
部屋にいれば部屋にいたで、この狭いアパートじゃ隣の部屋の休日独特のテレビ音が漏れてくる。

フローリングの床が冷たいから、椅子の上で膝を抱えた。
そして、首をひねる。
どうしてだろう、と。

(もしかしたら、すべてが惰性で作られてるから、だ。)

自分で出した問いの答えは、いつだって独りよがりで、だからこそ完璧だと思う。
簡単なことなのだ。
例えばこの切なさの原因が、休日の喜びの惰性だとしても、そうじゃなかったとしても。
そんなことはきっと、どうだっていい。
だって、私は自分が納得いく答えが欲しくて、問いかけてみただけ、なんだから。

隣から聞こえてくるテレビの音は、安っぽい効果音と単調な喋りの繰り返しだ。
することがないからと言う理由で、ただなんとなく眺められるテレビ番組は、やっぱりそれ相応になってしまう気がする。
日曜の番組は、なんとなく番組表を埋めるために、なんとなく作られていて、それは。
それはきっと、自問自答と、同じ、なのだ。







一人でいるとき、私は全然テレビをつけない。
テレビは熱心に見る人のためのものだから。
こんな生半可な気持ちでスイッチを入れても、映るのはきっとつまらない番組ばかりだ。
だから私は一人きりで、大抵恋について考えている。
あと1時間ちょっとで帰ってくる、とてもハンサムな恋人との恋について、だ。

私たちには、壁がある。
とても大きくて厚くて、決して崩してはいけない壁。
恋人には、愛していた人がいた。
もう過去のことだけど、でも、きちんと終わっていない、過去。

「彼女は、死んだんだ」

聞いた瞬間に、なんで聞いてしまったんだろう、と、思ってしまった。
ハンサムな私の彼の、昔の恋。その終わりが、相手の死、だなんて。
知らないでいるには、大きすぎることだったことは確か。
でも、知ってしまっても、なかなか抱えることが出来ないことだったのも、確か。
なんにせよ、その事実は、私にとって重く、とても大きかった。

「愛していたよ、とても。最後の恋のつもりだった」

次第に、なんて面倒な恋をしてしまったのだろうと思うようになった。
死んだ人には、どうやったって勝つことはできない。
だって死んだ人は誰かを裏切ったりしないし、妬んだり、ひがんだりもしない。
思い出をつくることができない、その代わりに。
残された思い出は持つ人によってとても大切に磨かれて、澄み切った光を綺麗に反射する。
都合の悪いことは、グラスについた汚れのように、跡形もなく拭き取られて。

悔しい。
私は生きているから、裏切ることもできるし、妬むこともひがむことだってできてしまう。
恋はとても愚かなものだ。
拭き取るスピードになんて追いつかない、くらいに、私は彼に恋をしてたくさんの感情を抱く。
私と彼の思い出は、ところどころに、かみ合わない歯車が残した傷や油染みを含んで。

「明里ちゃん、僕はこういう男だよ。だから、」
「悟さん、やめて下さい」
「…うん?」
「…それでも、私はあなたが好きです」

できることなんて、それくらいなんだ。いつでも。
私ができて、彼女にできないこと。
それは、今の愛を伝えること、くらいだ。






待ちくたびれてきたから、台所に立って、グラスに氷を入れてみた。
初夏と言うにもまだ早い時期だから、これでは中身が冷えすぎてしまうことは目に見えていたけれど、
氷の入らない水はなんだか古い気がして、あまり好きになれない。
冷蔵庫を空けて、モスグリーンのボトルキャップのミネラルウォーターを取り出しす。
このボトルキャップは、私専用のしるし。
別に彼と水を共有することは嫌じゃない(本当は、むしろそうしたい)のだけれど、彼の飲み水は私には飲めない。
天然水、なのだ。
自然の中で採取して、あまり手を加えていない水を、私はどうしてか嫌悪してしまうから。

ふたを開けて、ボトルの口ををグラスに傾ける。
こっこっこ、と、音を立てて水が移動していく。
空気がうまく抜けないのだろう、ボトルの側面が、まるで息をするみたいに小さく幅を変える。
飛び散った水が一滴、手首に、ついた。

「ただいまー」

玄関から、待ちわびていた声が響いた。
私は慌てて手首を手のひらでぬぐって、声の方へ小さく走る。
水と氷の入ったグラスは、その場に置いてけぼりにして。

錯角なのは、とうに分かってる。
彼はいたって普通の人だから、空気の色や温度を変えることができないこと、くらい。
でも、私はよく知っている。
彼がいるだけで、この部屋の退屈な空気は動き出すことを。途端に色づくこと、を。
そしてその瞬間を、私はまるで連ドラの続きを待ちわびている退屈な人のように、心待ちにしていること、を。

「おかえりなさい!」
「ああ、ただいま」

抱きついて、キスをする。
その何気ない動作が。
私にとって何よりの幸せで、かけがえのない、よりどころ、なのだ。
とても頼りないのだけれど、それでも、ここが私の居場所、なのだ。






「…好きよ」
「……明里ちゃんはいつも、突然だね」
「だって、大好きです」
「ありがとう、僕も、君が好きだよ」






彩が戻った、休日の夕方の部屋。
リビングのソファに座って、シャツの第一ボタンをけだるく外した彼は、窓の外を見ている。
きっと、彼が見ているのは、こことはつながらないせかい。
彼が感じたがっているのは、私じゃない、あの人、の、こと。

どうしてだろう。
それでも彼と一緒にいたい、なんて。
幸せな恋とはいえない、こんな独りよがりの頼りない恋を。
よりどころにしてしまうのは、どうして、だろう。

(それはきっと、私が彼を、愛しているから、だ)

冷蔵庫から、今度はアイアンブルーのボトルキャップの水を取り出した。
彼こだわりの天然水。私にはなじめない水。
それでもいいと思う。混じったり、溶け合ったりすることができなくても、隣にいることができれば。

「…ありがとう」
「お水を注いだだけですよ? 悟さんはいつも、どうってことないことにお礼を言いますね」
「違うんだ、なんていうか…その、色々、ありがとう」
「…お礼を言うのは、きっと、私のほうです」

この恋は、とても自問自答に似ている。
いつも少しだけ寂しくて、独りよがりで、どこかが満たされない。それでも。
帰ってくる答えは、いつだって完璧、だから。



暗くて寒い、冷蔵庫の中。
隣り合うアイアンブルーとモスグリーンを、ぼんやりと思い浮かべながら。
私は氷が浮かぶグラスの中身を一口だけ口に含んで、そして彼に寄り添った。

気がつけば、隣の部屋のチャンネルは変わっていた。
聴こえてくるのは穏やかな優しい音だけで、それは妙に、心地よかった。






END






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