【キリンの見る夢】
身体の上を通り抜ける風が、ざわざわと音を立てた。
太陽はちょうど真上に昇っていて、今、この場所には影らしい影がない。
屋上なんて空に面した場所は、眠るには眩しすぎたと後悔したくなるけれど、
それ以前に、むき出しの腕に当たる砂の感覚が気持ち悪かったから、校舎から出たこと自体間違いだったのだ。
サボりなんて、慣れない事はするもんじゃない。
「あれ、じゃん」
諦めて身体を起こして、乱れた髪を手ぐしで押さえつけていると、上のほうから声がした。
反射的に顔を上げたら、目に思いっきり光が入って痛かった。
逆光の中、かろうじて見えたのは、見覚えのあるめちゃくちゃなくせっ毛。
「…きりはら?」
すんなり名前が出てきたのは、切原の頭や声が特徴的だとか、そういうことに関係があるけれど。
それだけじゃない。
私は毎日、気づけば切原を目で追って、声がすれば思わず耳をそばだてているから。
「へえ、珍しい。サボりかよ、」
「ん、まあ。そういう切原は、珍しくもなんともないね」
「まあな」
5時限目、満腹で最も眠くなる時間。
切原は、十中八九教室にいないから、きっとよくここに来るんだろうと思った。
「そこ、指定席なの?」と聞いたら、切原は屋上の中でも一番太陽に近い場所で、にやっと笑った。
切原とは、特別仲がいいわけじゃない。
どちらかといえば、クラスの中でも言葉を交わしたことが少ない人たちの部類に入ると思う。
でも別に、避けているわけでも、もちろん嫌いなわけでもない。
何か理由があるとすれば、それは切原の存在そのもの。
うまく言えないけれど、、切原はクラスの中で少し異質な存在だ。
教室にはいないことが多いし、いると思えば大抵寝ている。
だからといって仲間はずれにされているわけでも、皆から嫌われているわけでもなくて、たまに男女問わずバカ話をして、盛り上がってる姿も見る。
でも、切原と一番仲がいい人、と聞かれると、それこそ毎日切原をバカみたいに目で追ってる私でも答えるのは難しいくらいで。
もしかしたら、真田先輩なんじゃないかと思うけれど、彼が心を許している人はいないんじゃないかとも思う。
人を遠ざけないけれど、寄せ付けない。
誰も切原を縛ることなんかできなくて、彼の行動を決めるのは彼自身だけ。
切原の世界は、切原一人で完結しているように見える。
それはまるで、群れることのない肉食獣のように。
強いからこそできることなのかもしれない。
群れなければ生きていけない草食動物のような私は、切原のそういうところに強く憧れているわけなんだけど。
「なんかあったのか?急にサボりなんて」
私よりも人一人分くらい高い位置から、切原の声がした。
私は切原が乗っかってる場所の下、壁によりかかって顔を上げる。
寝転がっているのか、切原の姿は見えなかった。
「どうしたって…うーん、別に。そういう切原こそどうしたの?心配なんて柄じゃないでしょ」
「別に心配なんてしてねーし」
「そりゃ失礼しました」
「どっちかっつーと、サンほどの優等生が、サボる理由って何かなって。ちょっと興味あっただけ」
そうですかーと上に向かって答えると、「ま、別にどうでもいいけど」と、切原が付け足した。
切原らしいその一言に、思わず私は小さく笑ってしまう。
「ってかさ、私ってそんな優等生?」
少し影ができてきた足元を見て、私は自分の膝を抱える。
さっきから、スカートからむき出しになっている足の日焼けが心配だったから。
全部は収まらなかったけれど、身体の半分以上は日陰に収めることができた。
「優等生っつーか、マジメ?ガリガリしてねえけど、周りに迷惑かけたりって絶対しねーじゃん」
「ふうん。そんな風に見えるんだ」
「なんだよ、違うのかよ?」
「わかんないよ。自分のことなんて」
抱えた膝小僧を見ていた。
この前ぶつけてできたあざが茶色くなって、治りかけている。
どうしてそう思ったの?私は切原に聞く。
「なんかさ、アンタ、いい子じゃん。いっつも笑ってるし。怒ってんのとか、見たことねーし」
「そうかな?」
「イヤとか言ってんのも聞いたことねーし。なんかアンタ、いっつもめんどくさそうな雑用ばっかやってんじゃん」
「…そんな風に見えるんだ」
「なんだよ、違うのかよ?」
切原がバカの一つ覚えみたいにさっきと同じことを言うから、私は声を出して、あはは、と笑った。
「ううん、違わないかもしれない」
2年生になって、切原と同じクラスになるまで、私は切原を知らなかった。
同じ学年に、テニス部のキレた奴がいるっていう噂を聞いたことがなかったわけじゃないけれど、スポーツに興味のない私にはどうでもいいことだった。
それに、そういうめんどくさそうな人とは関わりたくないと思ったのも事実だった。
(例えば、切原の“キレてる”が、テニスの腕が“キレてる”だけならば特に問題はないのだけれど、
切原に限ってそれだけで済むはずがないことは噂で知っていた。)
昔から、なぜか先生に好かれる私は、めんどくさそうな人を皆の輪に入れるようにサポートするという役を仰せつかったり、
めんどくさそうな人に傷つけられた人のお世話をするように命じられたりする。
だから、クラス替えで真新しくなったメンバーを見て、噂の切原がいることを知ったとき、正直なところ、面倒なことになったと思った。
見るからににぎやかそうな何人かの女の子は、切原を見ながら何か嬉しそうに騒いでいたけれど。
私は別に切原なんてかっこいいともなんとも思わなかったし、とりあえず大人しくしといてくださいと願うだけだった。
でも、予想に反して、私が心配したような事態は起こらなくて。
何度か担任に、切原がいないから探してこいと言われたことはあったけれど、一度教室を出てしまった切原を見つけることは至難の業だったし、
とりあえず切原が仲間はずれにされているわけじゃないことが分かると、あとは担任もさほど気にしなくなったから。
部活中に切原がキレたという噂は何度か聞いたけれど、でも教室での彼は終始穏やかだった。
寝て、起きて。ぼーっと外を眺めて、たまに笑って。
周りの人を巻き込むことなんて少しもなく、巻き込まれることだってもちろんなく、切原は切原のペースで生きていた。
きっと切原は、生まれながらにしてああいうポジションにいる人なんだ。
「…確かに、いつも気づけば雑用ばっかやってるし、サボったのも初めてだけど」
ちょっと昔を振り返りながら、そういえば、とそう言うと。
「だろ?だからさ、そんなアンタがさ、授業サボっちゃうって、どんな心境なのかなと思っただけっス」
切原はそう言って、大きなあくびを一つした。
きっと、サボりなれている彼は私と違って、かすかに砂がこぼれているこの場所でぐうぐうと眠ることができるんだろう。
家にある自分の布団の次に、落ち着ける場所なのかもしれない。
自分の部屋から出てもそんな場所のある切原が、なんだかすごく羨ましい。
「…なんかさ、疲れちゃって」
切原がしゃべらなくなったのを見計らって、ぽつりとこぼしてみる。
まるで独り言を言うみたいに。
「たまにね、しゃべるのが億劫になるの。こう言ったらどう思われるかな、とか、そんなことを考えてると」
「…ふーん」
「相手がどう言って欲しいのか考えて、言葉を選んでるうちに、何を言っても間違いな気がして。
そして、そうやって人の顔色を伺ってる自分が、すごく惨めで滑稽に思えて」
空を仰ぐ。
入道雲はどっしりとした底辺を持ち、上へ上へと膨らんでいる。
切原みたい、と思った。
大きな大きな、存在感。重くも軽くもなく、いつも、触れられない場所に、とても高く。
「じゃあそんなことやめればいいのにね。そう思っても、無意識に言葉を選んでることに気がついて。
イヤだなと思って。なんだか、疲れたなーと思って。抜け出したくなった」
そんなことを言って、何気ないふりをしながら。
さっきから私の心臓は、信じられないほどの速度で走っている。
気がつけば、噂の中の存在の切原を。
面倒としか感じていなかった切原を。
目で追うようになってしまうなんて。声を聞きたいと思ってしまうなんて。
人間の感情って、不可解。
この切原への気持ちも、うまく言葉にできない。
切原の返事はなかった。
寝ているのかもしれない。貫くような太陽の光を、逃げることなく一身に浴びながら。
屋上に来てから2度目の風が、またざわざわと音を立てる。
静かに舞い上がった髪の毛を目で追って上を見ると、視界に白いシャツが入った。
切原は、寝てなんかいなかった。
高くなっているところのふち、ちょうど私の真上にあぐらをかいて、空を眺めている。
「そういうの、オレには分からねえ」
返事、というには時間差のありすぎるそれに。
は?と。
私の口から思わず出た音は、間延びした昼下がりの空気に間抜けに響いた。
「話したいときに話したいこと話せばいいと思うし、別にそこまで周りに気回す必要もねえと思うし」
「…ごもっとも」
でも、それができないんだよ。
と、喉まで出かかったんだけど、すぐに切原が話し出したから、その言葉は行き場を失った。
言葉を選ぶ私は、いつもほんの少し、テンポが遅れているのかもしれない。
「でもよ、しょうがねえよな。それがなんだし」
出所を逃して引っかかっていた言葉が、切原の一言に存在を薄くする。
「いいんじゃね?別にイヤだとか思わなくても。疲れたら、たまにサボればそれで」
「う、うーん…」
「人間、そう簡単に変われねーし。しょうがねえじゃん、アンタはアンタなんだし」
目の上で、白いシャツが後ろに遠のいていくのが見えた。
切原は寝転がったらしい。
それと同時に、私の足元の影が動いて、気がついた。私が入っていた影は、切原の影だったんだ。
「いつでも来いよ。グチくらい聞いてやる。んでもって、ここでは言葉選ばなくていーよ」
そう一言、残して切原は、すぐに寝息をたてはじめた。
立ち上がって背伸びをして、その様子を覗き見れば。
切原は四肢を投げ出して、仰向けに、それはそれは気持ちよさそうに眠っていた。
あんまり気持ちがよさそうだから、私もそこに上って、隣で切原の姿勢をまねしてみたけれど。
やっぱり太陽はまぶしすぎるし、砂がじゃりじゃりする。
「…なんでこいつ、こんな気持ちよさそうなのよ……」
苦笑して、私はやっぱり膝を抱えた。
上手なサボり方、今度切原に教えてもらおうか。
そんなことを考えながら。
空には、大きな入道雲が、刻一刻と姿を変えながら、でも確かに存在している。
触れられないと分かっていて、私は手を伸ばした。
高く、高く。
1ミリでも近づけるように。
触れたいと願って、手を伸ばし続ければ。
いつかキリンの首が伸びたみたいに、私の手も長くなって。
触れることができればいいのに。
私の下のほう、どこか遠くに、授業開始のチャイムが聞こえた。
END
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