その場所は、いつでも強い風が吹いていたのを、今でもよく覚えとる。
あの日も、そうだった。
まだ春というには早すぎたあの日、吹き抜ける強い風は、肌を刺すように冷たかった。
なんとなく漂っていたレモンの香りは、多分あの時、が食ってたアメ。
そして二人で並んで目に映していたのは、俺たちの頭上を飛ぶ、大きな黒い影。
「いつか、うんと遠くに行こうな」
轟音の中、俺が小さくつぶやいた言葉を聞き漏らさなかったは、笑って頷いた。
俺は俺で、影がちらつくその場所でも、の表情を、見逃すことはなかった。
「一緒に行こう、アレに乗って」
あの頃の、俺は。
にばかり神経を傾けて、その一挙一動、一言一言を、こぼしたりしないように必死で。
ポケットに突っ込んでいた手を、どうやって繋げようか。
そんなことばかり、考えていた気がする。
【突き抜ける青を横切る影を見たか】
どこだか分からんような、街中で。
どこの誰だか分からん女が、俺の前で笑っている。
不快ではなかった。でも、心地よくもなかった。
「ね、仁王くん」
せがまれる様に手を差し出されたけれど、俺はポケットに突っ込んだ手を出す気にはならなかった。
ん?と鼻で返事をして、目の前の恐ろしく華奢な手を無視した。
懲りずに、その手は俺の腕に回された。これはちょっと不快かもしれん。
「なんよ?」
「何って、触れたいだけ」
「ふーん」
「ダメ?」
「別に」
好きにすりゃいい。
それが皮肉だと言うことに気づかなかったのか、女は笑う。
だいすき、と。そう言って、笑った。
ウンザリして、空を見上げる。
そこには、飛行機が一機、白い尾を引きながら飛んでいる。
あんなにも遠く、高い高い場所を飛ぶ飛行機なんて、俺は知らん。
俺が知っとるのは、轟音を響かせて、まるで眼前に迫るように飛ぶ飛行機。
目を閉じて、思い出せば。
ふと、レモンの香りが漂った気がして、俺は腕にからむ華奢な手を振り払った。
大分前、これは、俺に「ペテン師」という異名が付く、ずっと前の話になる。
その頃、俺はまだ、この言葉を覚えた産まれ故郷に住んでいた。
そこは、年寄りと、山と畑とまずい特産品しかない田舎。
俺が小学生の頃にはもう、働き手も金も減る一方で、とうとう苦し紛れの地域おこしが始まるところだった。
どっからだか補助金とやらをもらって、空港を作る、という。
「静かに暮らしたいもんじゃねえ」
多くの年寄りはそう言った。
年寄りだけじゃなかったのかもしれん。
お袋も、学校の先生も、理由はそれぞれだったけど、いい顔はしていなかった。
だから俺もも、空港はワルモノなんだと思った。
飛行機なんて、乗ったことはもちろん、間近に見たこともなかったけれど、悪にさえ思っていた。
それでも空港が出来上がったのは、俺が中2のとき。
事情はよく知らん。たぶん、偉い奴が押し切ったんだと思う。
どんどん人がいなくなるあの場所で、できることがそのくらいしかなかったのも、確かな事実じゃけど。
「危ないけん、近づくんじゃなかとよ」
大人たちは、口をそろえて俺たちにそう言った。
学校でも、頭が痛うなるほど何度も注意された。
「分かっとうよ」
いつも、そう返事をしていた。
そう、返事だけ。
ワルモノだと思えば思うほど、危険だと言われれば言われるほど、行ってみたくなるのがガキの心情ってもんで。
興味を持って近づこうとした奴は、いっぱいおった。もちろん俺も。
でも、他の奴らが次々に見つかって、大人の足止めを食らう中、たどり着くのに成功したのは俺とだけじゃった。
俺はそういうことには長けとったし、はトロかったけど、そういうことを失敗するような荒い神経の持ち主ではなかった。
(俺はのそういうところを気に入っていた。もちろん、それだけじゃないけど。)
滑走路を囲う、フェンスと有刺鉄線の外にたどり着くと、その場所では、
見たこともない、でっかい鉄の塊が、全てを打ち消すような地響きを鳴らして、空へ空へと向かっていて。
夢を、見とるんかと思った。
ワルモノだった飛行機は、一瞬で。憧れに、変わった。
「すご…」
「……ああ」
予想以上の騒音と振動を起こす、公害の発生現場のようなその場所から、人はどんどん遠ざかって。
でも、憧れだけを頼りに、俺はいつだってを後ろに乗せて、全力で自転車を漕いでそこに向かった。
そして、見上げた。
でっかい空を遮るみたいに飛び立つ飛行機が、眼前を横切る瞬間が、大好きだった。
憧れだけで、自転車のペダルに置いた足に、力をこめられたあの頃。
俺たちにとって、その田舎の世界は狭かった。
山で囲まれたその場所を抜ければ、外には無限の世界が広がっていると信じとったし、
無限の世界には無限の可能性があると信じていた。
「このままなんて、イヤだな」
中学を卒業したら、バスで1時間の隣町の高校に行って。
高校を卒業したら、地元にある工業団地なんかに就職して、その辺にいる同級生あたりと結婚して。
農業をやりながら子育てをして、親の面倒を見て。
それが、この辺りじゃほとんどの奴が送る人生だった。
は、口癖のように言っていた。「そんなの、イヤだな」
雅治は?聞かれて、鼻で笑う。
よりひねくれとった俺は、夢を語るなんちゅーことは、こっ恥ずかしいから絶対せんかったけど。
俺だって、絶対にイヤじゃと思っとった。もしかしたら、よりも強く。
「プロテニスの選手とか、なりたいと思わないの?」
「どうじゃろうな。分からんけど。でも、テニスは楽しかとよ」
「そっか。雅治、強いもんね。外行っても、絶対負けないと思う」
「でも、テニスに縛られることもないじゃろ」
「え、勿体ない」
「何でも、したいことすればいい。そのほうがよか」
俺たちよりもずっと重い鉄の塊が飛べるんだから、俺たちは何でもできる、と信じられたのは。
幼かったからだと、今は思う。
俺とは、寝そべって、その鉄の塊を見上げながら、言った。
「いつか、うんと遠くに行こうな」
「うん」
「アレに乗って、一緒に行こうな」
中学卒業を間近に控えたある日、いつものようにとあの場所に行って、最終便を見送ってから家に帰ってくると。
近くの工業団地に勤めている親父が、紙切れを持って帰ってきた。
転勤の辞令だった。
「どこよ?」
お袋が、エプロンのすそで手をぬぐいながら、俺の上を飛び越えていった。
(重いお袋が俺の上を飛び越えるこの光景は、飛行機に少し似ちょる。違うのは、たまに俺を蹴り転がすこと。)
「参ったわ、よりによって、親会社から呼ばれたわ」つぶやいた親父が、紙切れをお袋に渡す。
その紙切れを、お袋の肩越しに見た姉貴が、大袈裟に声を上げた。
「神奈川!」
興味がない風を装って、寝転がったままテレビを見ていた俺の心臓が、どくり、と嫌な音を立てた。
――カナガワ。
咄嗟に場所が思い浮かばないということは、それほど遠い場所だってことで。
瞬間、頭をよぎったのは、通うはずになっていた隣町の高校のことじゃない。
産まれてからずっと暮らしてきたこのボロ家のことでも、もちろん、畑のことでも田んぼのことでもない。
。
さっきまで、並んで空を見上げていた、の横顔だった。
「どうするの、あと1ヶ月もないやないの。住むとことか」
「会社が用意してくれるけん、身一つで行けばええそうじゃ」
「身一つったって…色々あるじゃろ、引越しとか、手続きとか」
「そうじゃな。したら明日辺り、休憩中に役場行って聞いてくるわ」
お袋と親父の声が、まるで目の前でチカチカしとるテレビみたいに、どっか遠くの、関係ない音に聞こえた。
。
これを聞いたら、どんな顔するんじゃろ。驚くんじゃろか、それとも、ああそう、といつもの無表情で聞き流すんじゃろか。
よかったね、と笑うかもしれん。
遠くに行きたいって言ってたもんね、よかったね、と。
あの白い横顔をこっちに向けて、目を細めて笑うかもしれん。
「しかし、急すぎじゃなかと?雅治の高校の手続き、とっくに済んどるよ」
「なんでも、急に欠員がでたらしい。本来なら、関東転勤は半年前に打診があるんじゃけど」
「困るわ…お姉ちゃんはあっちで仕事決まっとるし、チビは小学校やからまだええけど、雅治は…」
「数年で帰ってこれるかもしれん。なんなら、お前と雅治はこっち残ったらええ。単身赴任も考えちょる」
「でも、長引くかもしれんのやろ?ずっとあっち、いうのもあるんじゃろ?」
「そうじゃけど」
ねえ、雅治。
俺の思考を遮るように、お袋が声を上げた。「ねえ、雅治」
その声に、急に辺りが現実味を帯びる。
「お父ちゃんこう言っとるけど、どうする?」
「あ?」
「こっち残る?それとも、お父ちゃんと一緒に神奈川行く?」
子どもでいることを嫌っとった俺は、感覚でなんとなく知っとった。
決断はいつだって、前触れなく求められる、と。
そして、そんなとき、その決断は。9割方、勝手に決まっとることを。
後から、ふと考えたことがある。
このときの決断は、幸村と初めて試合をしたとき。
負け試合の確信ともいえる予感を感じたときのそれに、よく似ていた。
「行かん、言ったらどうなる?」
「………」
「会社の事情も、親父の転勤も、もう決まったことなんじゃろ」
「でも、アンタがこっちいたい言うなら…」
「どうにかなんの?ならんじゃろ。そこまで無理してこっちに残る意味なんて、なんもあらせんのに」
嘘こけ。
あるくせに。
さっきからずっと、その意味が頭ん中埋め尽くして、思考がうまく働かんくせに。
「安心しぃ。俺じゃって、こんな田舎、出られてせいせいするわ」
吐き捨てて、立ち上がる。
親父ともお袋とも目をあわさず、背中を向けて玄関へ向かう。
「どこ行くの」姉貴の言葉に、後ろ手を振った。「散歩」
暗がりの中、自転車を漕いだ。
俺一人分の体重はあまりに軽く、自転車のペダルは驚くほど簡単に動いた。
目に映る景色は、あっけなく過ぎていく。
そこに確かに存在している草も、木も、道路も川も橋も。
目に映った次の瞬間には記憶から消えて、また次々に現れる同じようなものたちとの違いなんて、見つける暇もない。
俺は半端に幼い頭で、考えていた。こんなもんなんじゃろか。
例えば、あたりまえにここにある俺の家、見慣れた通学路、古臭い学校。
家族、友達、先生、そして――。
猛スピードで過ぎていく人生の中では、そんなものは一瞬の景色であって、こうしてあっけなく過ぎ去って。
そしてまた、同じような景色が現れる?
見分けがつかないような、失ったものがなんだったかすらも忘れてしまうような、代わりのものがまたやってくる?
そして、答えを導き出した。そんなもんなのかもしれん。
だって、鉄の塊だって飛べるこの世界は、きっと無限に広がっていて。
縛られることなんて、何もない。
こんなちっぽけな場所に立ち止まっている理由なんて、なにも、ない。
自転車を降りると、暗い滑走路には朝を待つ飛行機が静かに並んでいた。
いつもは寝転がるその場所で、俺はぼんやりと立ち尽くす。
子どもらしく取り乱せたなら、もっと楽だったんじゃろか。
思考はもう、迷惑なほど澄み渡っていて、はっきりとしたままだった。
おかげで、後ろに迫る気配も、簡単に気がついてしまった。
「。こんなところで何しとるんじゃ」
「…気づいてたの?」
「当たり前。俺が気づかんわけないじゃろ」
「そうだけど…。何してるの?こんなところで。雅治んち、行ったんだよ?」
振り向くことはしなかった。
も俺の背後でぽつり、ぽつりと零すように言葉を紡いでいて、それ以上近づく様子はなかった。
「何か用じゃったか」
「…うちのお父さんに聞いたの。雅治のお父さん、転勤するって」
「早いのう。ま、同じ会社におるんじゃから、当たり前か」
「神奈川、でしょ?」
「そうらしいぜよ。たしか、関東だったか」
夜空に風が吹いて、鳥肌が立った。
でも、きっと、1ヶ月もすれば、春はすぐに来てしまう。
ポケットに突っ込んだ手を、寒さに堪えるみたいに拳にした。
「…雅治、は。残るんだよね?」
「………」
「高校も決まってるし、こっちにいるんだよね?」
「…………」
「一緒の高校、行くんだよ…ね?神奈川なんて、行かないよね?」
願うみたいなその声に、耐え切れずに振り返った。
頼むから、これ以上。
そんな辛そうに、そんなことを言うのは止めて。
よかったね、と、笑って。目を細めて、笑って。
その気持ちは、苛立ちに近い。
「行くよ」
全てを終わらせたくて、努めて冷静に声を出した。
早く過ぎればいい。
の声も、の顔も、あんなに繋ぎたいと思ったの小さな手も。
全て一瞬のように過ぎて、忘れてしまえればいい。
このしんどさも、最初からなかったみたいに、消えてなくなればいい。
「…うそつき」
は、うつむいて震えていた。
いつの間にか、俺よりずっと小さくなってしまった肩を怒らせて。
「一緒に行くって言ったじゃん。うんと遠くに」
「………」
「アレん乗って、一緒に行こうなって、雅治そう言った!!」
涙が、こぼれた。
のうつむいた顔から、ありえんほどの涙が、ぼろぼろと零れ落ちた。
俺の胸、奥の真ん中辺りが、潰れるかと思った。ものすごく、痛い。
「行っちゃうのは、雅治一人じゃない!!!うそつき!!!!」
それから、毎日は実にあっけなく過ぎた。
家の片づけやら、転居手続きやら、お袋も親父も毎日忙しそうで、俺はあっちでの学校選びで、放課後は毎日、担任と面談だった。
「立海大学の付属高校。レベルは高いけど、テニスの強豪やけん、仁王に向いとるじゃろ?」
「ふうん、どこでもよか。先生決めて」
「あんなぁ…お前の話やけん。いくら担任やって、そこまでは決められんよ」
「じゃあそこで決定で」
「そこで決定って…レベル高い言うとるじゃろ。ほれ、滑り止めも。いくつか選びんしゃい」
「めんどくさ。先生選んで」
「ええ加減にせえ、仁王…」
とはあれ以来、一言も喋っとらんかった。
放課後に一緒に向かっていた空港にも、行くことはなくなった。
もしかしたら、は一人で行っとるのかもしれなかったけど、俺はそれを確かめんかった。
どうでもいいことだ、と思うことにしていた。
もう、ここの人間じゃなくなる俺には。から離れる俺には、関係のないこと。
「じゃあ、こことこことここ」
「仁王お前、今適当に指したじゃろ」
「あ、気づいた?」
「はあー…分かった。いくつか選んでみるけえ、今日はもう帰りんしゃい」
「ピヨ」
がいない日々は、本当にあっけなく。
一人で乗ったあの夜の自転車のみたいに、簡単に進んでいった。
そして、本当に一言も言葉を交わすことなく、俺たちは卒業式を迎えた。
卒業式の日は、小憎たらしいほどの晴天だった。
この3年、ちゃんと着た覚えはあまりない学ランは、少し暑苦しく、そして窮屈だった。
そこには、卒業生用の安っぽい造花が付けられて、それを着た自分を鏡越しに見たら、なんだか笑えた。
「じゃあ雅治、卒業式終わったら、すぐに空港行くけんね。荷物、まとめといてね」
「分かっとうよ」
お袋と分かれて教室に付くと、窓際にの姿があった。
いつ見ても、ちっとも可愛くない古いセーラーに、やっぱり同じ、安い造花が付けられている。
でも、ちっとも笑えなかった。
久しぶりにまじまじと見たの横顔はなんだか大人びて、少し綺麗に見えた。
瞬く間に、鼓動が早くなったのを感じた。こんなんなら、もっと早くあの手を繋いでおけばよかった。
たとえ離れてしまうとしても、一度でも。繋いで、言えばよかった。「好いとうよ」
思えば、一度だって、そんなことはしたことがなくて。
後悔とも、諦めともいえぬ感情が、頭んなか、ずっと渦巻いていた。
柄にもなく名残惜しくて、それから式が終わるまでの間、ずっと眺めていた。
の透き通るように白い横顔を、早い、鼓動のままで。
俺と、就職組の数人を除けば、進路はほぼ同じで、式後も教室内はずっと明るかった。
そっけなく出て行くはずだったのに、気づけばテンションの上がりきった奴らに捕まって、空港まで見送りに行くと言われた。
「ええよ、そんなん」
「なーに言っとんじゃ、どうせ皆暇やけん」
「なんじゃ、暇つぶしか」
「そうそう。ほれ、行くで。派手に見送ったる」
最後に一言くらい、やっぱりと話そうかと思っていたけれど。
俺が捕まっている輪から、あいつははるか遠く。
のんきに桜なんかを見上げながら、今にも帰ってしまいそうな雰囲気じゃった。
「…じゃあ、最後じゃし。お願いしてみようかの」
「おう、任しとき!んじゃ、行こう」
集団に囲まれて、教室を出る。
これで、よかったんじゃ。
もう、関係ない。もう、俺たちはきっと、会うこともない。
――こうするしか、なかったんじゃ。
言い聞かせるみたいにしながら歩いてみたけれど、俺も案外頑固なもんで。
思考も、身体も、言うことを聞かせるのは困難じゃった。
だって。
たとえ、過ぎ去ってしまう、一瞬の景色だとしても。
俺も、も、今は確かに、ここに存在していて。
俺の気持ちも、との約束も、全部。
まだ、過ぎ去った景色じゃない。
目の前に、触れられる位置に、ここに―――ある。
他のものと一緒になんてできない、唯一無二の、存在なんじゃから。
引きずるみたいにして進めていた足を、止めた。
そして、踵を返す。
「おいっ、におー!?」
驚いた同級生らが、でっかい声を上げた。
その中の一人、外れのほうにいた奴が引っ張っていた自転車を、俺はひょいと奪う。
「悪いな、ちょいと急用。空港には後で行くけん、先行っとって」
「は?!おい、仁王!」
「忘れ物。取りに行ってくるわ」
横道に入り、ぐんぐんペダルを漕ぐ。
きっとは、あの場所にいる。
あの、突き抜ける青を横切る影を見上げる場所に。
なんだか知らんけど、そんな気がしてならんかった。
その勘が外れていなかったことを、俺は滑走路を囲うフェンスがかろうじて見える場所。
いつも俺とが寝転んだ場所から、少し離れた場所で知った。
ふと、漂ったのはレモンの香り。
が好きで、いつも舐めていた飴。
足音を忍ばせて近づけば、さっき、あれほど眺めていた横顔があった。
「…何しとう」
あの日みたいに、少し距離を保ったまま、声をかけた。
の体が、びくりと揺れる。
でも、の視線は俺を捕らえることはなく、寝転がったまま、ただ空に向けられている。
「こんなところで、何しとう、」
「…雅治こそ。そろそろ発つんでしょ」
「よく知っとるな」
「どれだけ、ここで飛行機見てたと思ってんの?」
便数少ないんだから、イヤでも分かるよ。
はつまらないことだと言いたげに、そうつぶやいた。
「を、探しに来た」
「…何か用」
「言い忘れたことがあるけえ」
何度も、何度も、風が吹いた。
そのたびに鼻先をレモンの香りが掠めて、胸が痛かった。
この景色も、この香りも、の横顔も、少し不機嫌な声も、全部、全部。
今日で最後。今日で、お別れ。
「好いとったよ。のこと。他の、誰より」
言葉にしてみて、改めて気づいたのは。
こんなにも、強く、確かに。
今ここにある小さな体温を持つ生き物を、大切に思っていた、ということ。
本当は、過去形になんてできないくらい。
大切に、大切に思っているということ。
「そんだけ。言いたかった」
それじゃあ、元気でな。
言い残して背を向ければ、が動いたのを、気配で感じた。「何よ、それ」
俺の歩みが、とまる。
「…何よそれ、もっと、他に言うことあるでしょ?」
「……」
「約束、破ったくせに!一人で遠くに行っちゃうくせに!!」
「私のことなんて、忘れちゃうくせに!!ここのことも、この町のことも、全部、全部、」
「私との思い出なんて、全部忘れちゃうくせに!!!!」
草むらに、崩れるように座ったが。
悲鳴みたいな声を上げて、泣いた。
俺よりも、いっとう小さいの体は、裂けて消えてしまうんじゃないかと思った。
そんくらい激しく、泣いた。
「…俺だって、忘れたくなかとよ。こんなん、望んだわけじゃなか」
「じゃあ、過去形になんてしないでよ」
「……」
「好いとったなんて、昔のことみたいに言わないで」
ためらっていた俺の体が、まるで何かから解かれたみたいに、動く。
一歩、二歩、に近づいて、そして、しゃがんだ。
「……好いとうよ」
ポケットに突っ込んでいたはずの手は、もうの手を、しっかりと掴んで。
そして、力をこめて、を引っ張り寄せていた。
まだ幼さの残るの体温が、俺の身体にじんわりとなじむ。
まるで、シャツにしみこむ、涙みたいに。
「好いとうよ、。好いとう」
少し上の目線から、の唇に自分のそれを寄せる。
涙と、レモンの味がした。
一度離してから、切なさに思わずもう一度、唇を合わせれば。
が、今まで見た中で、一番綺麗な顔で。
笑った。
「雅治、ありがとう」
あれから2年とちょっと。
俺は担任にあれほど心配されたにも関わらず、持ち前の勘と運で立海に合格して。
今は、テニス部。
プロなんてやっぱりまだ考えとらんけど、あの頃より多分ずっと、強くなった。
分かったことは、2つ。
1つは、世界は確かに広かったけど、可能性なんてそう簡単には開けないということ。
上には、上がおる。手段を選ぶ暇があったら、なりふり構わず勝ち取っていかんと、世界はどんどん狭くなる。
立海の三強から、学んだ。おかげで今は、ペテン師なんて呼ばれとる。
そして、もう1つ。
変わりの効かないものは、確かに存在するということ。
こっちに来てから、俺の周りの景色は、あの日一人で漕いだ自転車のように、猛スピードで進むけれど。
でも、忘れることなんて、できなかった。
日々曖昧になると思っていた、記憶と今の違いでさえ。
まだ、はっきりと感じられてしまう。
あの日見た、の横顔。
俺の耳を、身体を貫いた、涙。叫ぶような声。
溶けなければいいと願ったのに、ものの数分で跡形もなくなったレモンの味でさえ。
まだ、数分前の感覚のように、はっきりと俺の中に残っている。
目の前の、誰だか分からん女が、眉を吊り上げる。
俺に腕を振り払われたのが、よっぽど気に食わんらしい。
「付き合うって言ったじゃない」
「買い物に、じゃろ?」
「ふざけないで!」
なあ、どうして本気で思えたんじゃろな。
の代えが効くなんて。
は、一瞬の景色でしかないなんて。
いつもおまえは、自転車の後ろに乗っていたのに。
流れる景色なんかじゃ、なかったのに。
「…俺が好いとうのは、一人だけじゃよ」
「何言ってんの?」
「お前さんじゃ、なかと」
女が、音を立てて、俺の顔を平手で打った。
頬に鈍い痛みを感じる。
でもこんなもん、あの日のの涙に比べたら、痛くも、なんともなかった。
「最低!」
女が去っていくのを、なんとなくおかしな気持ちで眺めていた。
さっき上を飛んでいた飛行機は、もうどこかへ行ってしまった。
細い、あまりにも頼りない軌跡だけを残して。
あの、おぼろげな軌跡を辿っていったら、あいつのところに行けるじゃろうか。
あいつはまだ、あの場所で。
憧れが飛び立つ瞬間を、見上げたりしとるんじゃろか。
「あー……会いたいなあ」
あの、突き抜ける青を影が横切るとき。
その一瞬が、きっと俺の世界の、全てだった。
なりふり構わず掴めばよかった。
何度も、何度も。今でも。
考える。
「なあ、。……好いとうよ、今でも」
好いとうよ。
今でも。明日も。
きっと、ずっと。
“雅治、ありがとう”
目の前で、が。
笑った気がした。
飛行機はもう、遥か遠く。
END
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