彼女のことは、もちろん好きだ。
だから彼女といる時間も好きだし、彼女のことを考える時間も好きだ。
彼女の声を聞くのも、彼女の温もりに触れるのも、彼女の笑顔を見るのも、全部、好きだ。
ただ1つ。
彼女といるときの俺は、あまり好きじゃない。
【涙をからすまで】
こうして台所に並んでいると新婚みたいだと思う。
俺はこういうことは口に出してこそ効果を発揮することを知っているから、ねえ、と彼女を振り返った。
でも、ちょっとタイミング悪かったらしい。
ちょうどその瞬間、彼女は最後に洗い終わった片手の小さな鍋を俺に差し出した。
「はい、これで終了ー」
そうほっと息をついた彼女に、言いかけた言葉を飲み込んで、「お疲れ様」とそれを受け取った。
今何か言いかけなかった?と聞かれたけど、俺は首を横に振って笑って見せた。
「これ、どこにしまえばいいかな」
「えっとね、棚の上。拭き終わったらちょうだい。私しまうから」
「いいよ。高いだろ? えーっと…ここ?」
「うん。そこの上から2段目」
言われた場所にそれをしまうと、隣から、彼女が自分の手を拭いていたタオルを差し出してくれた。
ありがとう、と受け取って手をぬぐうと、こちらこそ、と彼女が笑った。
視線がぶつかる。
彼女がキスをせがむみたいに目を閉じたから、俺はゆっくり、彼女の唇に自分のそれを近づける。
触れる、ほんの一瞬前。
彼女の真っ赤にはれあがった瞼が視界に入って、少しだけ胸が、ちくりとした。
俺たちが付き合うようになって、そろそろ3ヶ月が過ぎようとしている。
俺の彼女のは、俺が通う六角高校から電車で5つの駅の近くに一人暮らしをしていて、高校3年の俺と歳は片手ほど離れているOLさんだ。
何の接点もない俺たちの出会いは、テニスの試合会場。
試合の合間、広場でバネと打ち合いしていたボールが、見事彼女の頭にクリティカルヒットして、が倒れてしまったのがきっかけだ。
飛んできた医務係は「軽い脳震盪」と言ったけれど、よりによってぶつかったのがバネのバカ力な打球だったもんだから、
俺とバネは気が気じゃなくて、試合を終えてすぐ、彼女が運ばれた医務室に向かった。
もしかしたら、一大事になっているかも、という不安を抱きながら。
でも、そこにいたのは。
はっきりと目を覚まして丸椅子に座る、いかにも申し訳なさそうな顔をしただった。
「あの、すみません、大丈夫ですか?」
「いえ、そんな…むしろすみません、どんくさくて」
これが最初の会話。
ちなみに、出会いだけじゃなくて、恋をしたのもこのとき。
何度も謝る俺とバネに、自分が悪いんだとは小さくなってそれこそ何度も謝り返してくれて、その姿がどこまでも健気なもんだから。
それに、よく見てみれば、スッキリした猫目もちょっと太めで凛とした眉も、小さな鼻も形のいい口も、
肌の白さやちょっと癖のある茶色がかった髪も、完璧なまでに俺の好みで、なんていうかもう、瞬間的なものだった。
「心配なので、送らせてください」
それが、俺たちの出会いで、俺の恋のはじまりの、はじまり。
テニスに興味はない。やったことも、もちろん見たこともないというがなんであの場所にいたか、そんなのは簡単で、
なんてことはない、は試合会場の大学の学部4年生だった、ということだった。
てっきりどこかの学校の応援に来ている高校生だと思い込んでいたから、
結局送らせてもらうことになった帰り道でそれを聞かされたときにはさすがにショックだったけど、
それでも諦めようと思わなかったのは、一番に、歳なんか関係ないほど俺がに惚れこんでいたから。
俺にはちょうどと同い年の姉がいたことと、がまだ、かろうじて学生だったことも、俺を後押しした。
そりゃ、から、「佐伯くん、やっぱり若いなあ」って言われる度に、なんとなく腑に落ちない気分になって怖気づいたりしたけれど、
これに、「さんだってまだ、大学生だろ?」と返せたのは、やっぱり大きい。(この頃はまだ、俺はのことを“さん”と呼んでいた。)
あと1年、俺が遅れて生まれていたらこうはいかなかったんじゃないかと、この前、ふとした瞬間に考えてぞっとした。
働いて稼いで、自立している人に、これと同じ口答えは通用しない。
去年まではなんだかんだってピンチになると、お袋を拝み倒して財布を開けてもらっていた姉貴が、
逆にお袋にお金を渡しているのを見て、なんとなくそんなことに気が付いた。
もっとも、こうしてと付き合っていなければこんなことは考えないわけで、
出会った頃の俺だったら、やっぱり関係なしに突っ走ってしまったのかもしれないから、まあ、なんともいえない部分もあるけれど。
「…サエ?」
の声にはっとして、思考を現実に戻す。
手元には、借りたままのタオルが一枚。
随分熱心に手を拭くのね、とが笑ったから、俺は苦笑した。
「ごめん、ちょっと、考え事してた」
「え、なに? もしかして、悩み事?」
「違う違う。のこと、考えてたんだよ」
俺の言葉に、タオルを受け取りかけたの手がこわばった。
こういうところ、素直に可愛いと思う。
一目見たときに気に入った、その外見以上。性格はもっと、俺好み。
こういうとき真っ先に、いじめたい、と考えてしまうのが俺の性格。
だから、真っ赤になったその顔に、自分の顔をぎりぎりまで近づけた。
「、顔赤いけどどうしたの? 具合悪い?」
「ち、違っ! サエがっ」
「うん、俺が?」
「っ……、もうっ、なんでもない! 知らない!」
サエのいじわる、と背を向けようとするから、その直前、肩を掴んでそれを制止して、右手で後頭部を固定した。
触れそうで触れない額、鼻先、唇。
真っ赤な顔が可愛くて、思わず頬が緩む。
「俺のいじわる、好きなくせに」
「…バカサエ」
「素直じゃないなあ。お仕置き」
「……なに」
「ね、、キスして」
俺の“おしおき”に、戸惑うように下げられたの視線が、もう一度上がってきたとき。
震える彼女の小さな手が俺の制服のYシャツをぎゅっと握って、そして、刹那。
唇が触れた。
「…はい、よくできました」
そんなふうに、俺は出会ったときから年の差なんてさほど気にしちゃいなかったけれど、
の方はそうでもなかったようで、付き合うまでに大体1年半の時間がかかった。
あの、バネのボールがクリティカルヒットしたその日、「念のため明日病院に行く」と言ったに、
「何かあったら」と俺の携帯の番号とアドレスを教えて、翌日、「大丈夫でした」とメールがあって。
治療費はもちろん払おうとバネと話していたから、そのことを返信するメールで伝えると、
は電話をくれて「私の不注意だから気にしないで」ということを言ってくれた。
でも、それじゃあ気が済まないと俺も粘って、結局、一度ご飯を奢るという話をが受けてくれて、そこから俺の猛アピールが始まった。
(ちなみに、最初のこの食事はもちろんバネも一緒だった。バネは自分のボールでが倒れたことにすごく責任を感じていた。)
まだ半年先の姉貴の誕生日を使って、プレゼントの相談に乗ってもらったり、
の通っていた大学が偶然にも俺の志望校だったもんだから、それを口実に大学を案内してもらったり。
ちょっと仲良くなってからは、試験だ大会だって、にしてみればくだらない用事でメールしたり、電話したり、
とにかくもう、思いつく限りの接点を必死にたぐりよせた。
は、卒論と4月からの就職を前に忙しそうだったから、俺なりに自粛していたつもりだったけれど、
後になってから、相当邪魔だったんじゃないかと不安になったほどだ。
告白は俺から。の大学の卒業式の日に、の大学まで押しかけてって、した。
メールをしても電話をしても、食事や映画に誘っても、いつもは嫌な顔一つしなかったけれど、
でも、からそれをしてくれることなんてほとんど、というかもう、ほぼゼロだったから、OKしてもらえる確率は3割くらいかなと思っていた。
(なんで0じゃないかって、それはの性格が受身一辺倒だということを、この頃にはもう分かっていたからだ。)
だから、が小さく「…私も」と言ってくれたとき、俺はそこが大学の中だということも忘れて、夢中でを抱きしめた。
オレたちが出会った場所。テニスコートの傍だった。
ついでに、俺たちの初キスもこのとき。
後に、「手が早いからびっくりした」、と、はこぼした。
「あんなに何も考えられなくなってキスしたのは、が初めてだよ。だから、俺もビックリした」
もちろん、本当のことだった。
思えば、あの卒業式の日が、最後かもしれない。
そんなことを、隣でくすん、と鼻を小さく鳴らしたを横目で盗み見ながら考える。
夕飯の後の洗物を終えた俺たちは、の一人暮らしの部屋にある、黄緑色のカバーがかけられたソファの上。
隣にいるは、今期一番視聴率をとっているらしいドラマを見て、涙を流していた。
――……あれだけ泣いたのに、まだ泣くのか。
今日、半日の休みを取ったという彼女に会いに、部活を終えたその足でここに来た俺を迎えたのは、
目を真っ赤に充血させて、まぶたは腫れ上がらせただった。
午前中で仕事を終えて帰ってきてから、多分ずっと泣いていたんだろう。
いや、もしかしたら昨晩からなのかもしれない。いつもきれいにしてあるくずかごは、ティッシュでいっぱいだった。
――原因はどうせ、仕事、なんだろうな。
いつもそうだ。
部屋にゴキブリが出ただとか、風邪を引いただとか、電車に乗り遅れた、お気に入りの鏡をなくした、テレビ番組が怖かった。
そういう、もしかしたら自分ひとりでも解決できそうなことのときは、すぐに「サエー…」って俺を呼んで泣きつくくせに、
こうして肝心な、くずがごを溢れさせるほど泣いても解決できない悩みのときは何も言わずに塞ぎこむ。
今だって、本当に泣きたい理由は別にあるくせに、わざとらしく、テレビドラマのせいなんかにしちゃって。
――年下だから、か。
俺たちが恋人になった日、は言った。「5歳も年上なのに、私は佐伯くんを好きでいいのかな…?」
そうだ、考えてみれば、が歳の差の不安を口に出したのは、あのときが最後。
なんで、どうして言ってくれないんだろう。
俺が何も聞かないから? 気づかないふりをしているから?
そんなの、が何もなかったみたいに振舞うから、だから、触れないほうがいいのかなって、そう思っているだけなのに。
こういうとき、自分の幼さを思い知らされて、もどかしい。
俺はの前にも年上の人と付き合ったことがあった(にはまだ話していない)けど、ここまで惨めな気持ちにはならなかった。
それはきっと、今までの彼女が何につけても年上ぶって意地を張るのに対して、だけは、どうでもいいときは俺を頼ってみせるからだ。
は、気づいているのかな? そうやって、俺のできることとできないことを、的確に見分けてしまう、その冷静さに。
俺はいつもどうしようもなくむしゃくしゃする。
歳の差を見せ付けられている気がして、腹が立つ。
「…」
テレビに視線をやって、まだぐしぐし泣き続ける彼女を呼ぶ。
ちらりと俺を振り返った彼女は、「今いいところ」と、すぐに視線をテレビに戻した。
「、いいからちょっと聞いて」
「ごめん、サエ、あと5分くらいで終わるから」
「…ねえ、は何を見て泣いてるの?」
「え、ドラマ、だよ?」
はそんなんで、本気で俺をごまかせるって思ってるの?
そうだとしたら、バカにしてる。
歳うんぬんだけじゃない、俺がどれだけを見ていて、どれだけのことを考えているかが分かっていない。
「…、そのドラマの主人公の名前は?」
唐突な俺の質問に、彼女はきょとんと俺を見る。
知ってるんだよ、がこのドラマの主役の名前を分かってないことくらい。
「サ、エ? どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ。名前は?」
「何、怒ってるの?」
「あれ、もしかして名前知らない? そんなに一生懸命見てるのに」
「……」
「分かるわけないよな、だって先週も先々週も、はこの時間、まだ仕事してた」
冷たい俺の口調に、がうつむいた。
その頬から、まだ止まらない涙が、ぽたぽたと流れる。
「…そんな風に、泣くなよ」
「え…」
「は、俺が気づいてないって思ってるの? あのさ、聞かないことと、気づいてないことは違うんだよ」
「…サエ」
「何かあって、今日1日泣いてたのも知ってる。でも、それは俺にはどうしようもないことだから、だから黙ってるのも知ってる」
「……」
「話したくないんだろうなって、知ってたから、だから聞かなかっただけだよ」
リモコンを取って、テレビを消した。ぷつっという音の後、画面は真っ黒になったけど、は何も言わなかった。
途端に、音をなくした部屋の中。
手を伸ばして、肩を引き寄せて、横からぎゅっと抱きしめる。
いつも小さい彼女が、もっともっと小さくなってしまったように感じる。
減ったのはきっと、今日流したとんでもない量の、涙の分。
「…ねえ、こうされるのが嫌だった?」
「ちが…っ! そうじゃな、い。違うの、サエ…」
「じゃあなんで、ちゃんと泣かないの。別に俺、追及するようなことしないよ」
「ごめ…」
謝ったの瞼に、キスを一つ。
そして「謝っても許さないよ」と呟いたら、彼女の体が震えた。
「ドラマのせいにしないで、ちゃんと泣けよ。泣いていいから」
「……っ」
「…泣かせることくらいしか、きっと俺にはできないんだろうから」
ぽん、と背中を叩けば。
それを合図にしたように、彼女が声を上げて、わんわん泣き出した。
――本当、は。
追求したい。追求して、全部吐き出させて、それを何もなかったことみたいに、ぬぐってやって。
それができたら、俺はどんなに幸せだろうと思うのに、やっぱりどうしても俺は年下で、幼い。
こうして俺にしがみついて泣いてくれるも、その声も、体温も大好きだ。
大好きだ、から。
俺はといるときの自分が、たまらなく無力で、すごく、嫌いだ。
「…、好きだよ」
「私も、サエが好き、だよ」
もしも、時間を埋めることのできるピースがあったなら。
ちょっとくらいのリスクを背負ったとしても、俺は手を伸ばしてしまうんだろう、と思う。
だって、じゃなきゃ、ダメなんだ。
どうしようもない隔たりがあるのに、俺じゃ足りないって分かってるのに、それでも、じゃなきゃ――。
まだ泣き足りないと言いたげに、呼吸を荒げるの呼吸を、自分の唇でわざと塞いだ。
せめて涙がかれるまで、泣きつくせる、ように。
苦しげに首をふったの目じりから、俺の流させた涙が一筋、すっと零れ落ちていった。
END
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