例えば、一歩。
そう、たった一歩でも近づくことができたなら、状況は変わるんだろう。
いつまでも平行に伸びる、俺と君の人生。
少しでも、軌道を変えることができたなら、事態はきっと、変化する。
でも、じゃあなんで、いつまで経っても、挨拶すらできないんだろう。
自己紹介もしたことないのに、君の情報はすでに俺の頭の中。
名前も、クラスも部活も委員会も、一番仲がいい子も知ってるのに。
でもなんで、君の声だけ知らないんだろう。
ちょっとのきっかけと、あと、ひとさじの勇気。
ほんのひとさじの勇気があれば。
平行線の関係なんて、変えて見せるのに。
【風が、飛行機雲を動かすように】
火曜日の3限は化学で、だから俺はいつも化学実験室にいる。
そこは普通の教室とは違って4人で1つの机を使うようになっていて、その机の端には蛇口にホースみたいなのがついた水道がある。
椅子は、丸椅子。金属製。
いつ来てもなんとなく薬品の匂いがする。たぶん、隣にある準備室にずらりと並ぶ、薬品の香り。
同じ薬のにおいでも、病院のは清潔な感じがするけれど、ここのはそうでもない。
なんとなく、古い、たぶん何年も前から同じ香り。
俺はこの教室が、あまり好きじゃなかった。
椅子は低く、机の下は窮屈で、よく足をつっかえるから。
なのに机の位置は少しだけ高くて、なんとなくノートをとりにくいから。
薄暗いから。
だから、あまり好きじゃなかった。
…数ヶ月前までは。
2年に上がってから、気持ちは一変した。
鼻をつく薬品の匂いも、座ると堅くて冷たい椅子も、つっかえる足も、薄暗さも。
そんなもの、全然気にならないほど、ここは大切な場所になった。
火曜の4限。
ちょうど俺のクラスが化学室で授業を受ける、すぐ後の時間。
君の、クラスが。ここで授業だと知ったから。
授業の後、俺は好きじゃなかったこの場所に、長居するようになった。
することもないのに、わざわざ教室の中でノートをまとめ直すふりなんかしてみせながら、休み時間ぎりぎりまでいつも粘った。
そうして待っていれば、3回に1回くらいは、君は俺がいるうちに、この教室に来るから。
もっとも、君の窓際一番前の一番端の席と、俺の廊下側後ろから2番目の一番端の席は、あまりにも遠くて何も接点はなかったけれど。
それでも、一目でも見たくて、同じ教室にいたくて、俺はこの教室に少しでも長くいたいと粘った。
暗くて、臭くて、なんだか冷たい、嫌な場所だけど。
それでも君が来ると知ってれば、どこだって悪くない場所だと思えてしまう。
俺はおかしいかな?
授業開始のチャイムが鳴るまで、あと5分。
化学実験室から俺の教室まで、ダッシュで3分半くらい。
あと1分半、あと1分半だけ、粘ってみよう。
時計の秒針も、俺の鼓動も、その短い時間を急かすように時を刻んでいる。
今日は、来る。
来ない、来る、来ない、来る、来ない、来て。
まるで、運命をサイで決める、気まぐれな神様みたいに、淡々とそう告げるように。
化学実験室は、もうたくさんの制服であふれていた。
その中には同じテニス部の日吉の姿もあって、目が合った。
(俺は笑顔で手を上げてみせたけど、日吉は何事もなかったかのように視線をずらした。あいつはいつもそうだ。)
なのに、君の姿はない。
お願いだから、早く。一目でいいから。
あと45秒。
…と思ったときだった。
準備室の扉が、がちゃりと音を立てた。
先生だった。
タイムリミットは、思ったよりも43秒早く来てしまった。
俺はこっそり、だけど深い深いため息をついて、目の前に広げていた教科書と、他の教科よりも格段に充実してしまったノートを閉じて立ち上がる。
今日は、3回に2回の方の日だったらしい。
ダッシュとまではいかなくても、急がないと次の間に合わないことは確実で、俺は未練を振り切るみたいに、駆け足で教室を後にした。
幅も長さもある氷帝の整然とした廊下を、大またで走る。
同じクラスとまでは行かなくても、せめて、もう少し教室が近ければよかったのに。
君の教室は俺の教室と同じ階の東側。俺は西側。
階段や廊下すら、同じところを使うことなんて滅多になくって、だから今だって、君は東側の渡り廊下を使ってる。
遠回りしたいけど。
でも、そっちを通れば、ダッシュで6分。もう、間に合わない。
なんでこんなにも、接点がないんだろう。
君と俺は、まるで平行線をたどるみたいに。
ずっとずっと、ぶつかることも、交わることもない。
一定の距離を保って、どこまでも、どこまでも伸び続ける。
そういうことなのか?
そうだとすれば、ほんのわずかでも。
進む軌道を変えられたなら。
ねえ、誰か。
時間を刻むみたいに、鼓動を打つみたいに、淡々とサイを振り続ける神様でもいい。なんでもいい。
どうか、俺に小さなチャンスと、ひとさじの勇気を。
それだけあれば、あとはなんとか、自分で軌道を変えて見せるから。
だからそれを、俺に下さい。
願いながら、勢いをつけて曲がり角を曲がる。
君と平行にすすむ俺の線も、こんな風に簡単に曲げられたらいいのに…なんて。
考えていたら、その一瞬、身体に強い衝撃を感じた。
「う、わっ!!」
「あっ」
目の前には何もなくて、でも教科書とノートが落ちる音を聞いて。
バランスを崩しかけた体をなんとか留めると、ちょうどみぞおちの辺りに鈍い痛みを感じた。
「ご、ごめんなさい!!」
みぞおちをさすりながら、ふんわりと響いた声を辿ってうつむけば、そこには女子の制服を着た人の姿。
撒き散らしたものを拾おうとしたのか、うつむいた顔に、髪の毛が流れて、さらさら揺れた。
そして、次の瞬間。
俺の顔が、腕が、足が、さすったみぞおちが、心臓が、頭が、心が。
大きく、揺れた。
「、さん?」
心の中で、何度も、何度も繰り返していたその名前。
初めて声にしたら、まるで一度も使ったことのない傘を開くみたいに、照れくさく響いて。
俺は驚いて咄嗟に口を押さえた。
君…、さんは。
教科書を拾い上げた手を半端に、顔だけ大きく上にそらした。
「はい?」
初めて、声を聞いた。初めて目が合った。
何か返事をしなきゃと焦って、俺が発したのは情けない言葉だった。「あ、いや、その」
さんは首をかしげる。
「その…ご、ごめんね!俺走ってて、ぶつかっちゃって」
「あ、いえ。私も走ってたんです。ごめんなさい、前よく見てなくて」
「いや、俺のが絶対勢いあったし。どこかケガしてない?大丈夫?」
「えと、はい。大丈夫です」
その返事に胸をなでおろしていると、君に教科書を拾わせてしまっている事実に初めて気がついた。
慌ててしゃがむ。
「ごめん!」と言うと、さんは「いえ」と小さく返事をして、俺に教科書を手渡してくれた。
「その…大丈夫ですか?」
「え?あ、ああ、俺のこと?もちろん、大丈夫だよ」
「よかった。それじゃ、わたし、急いでるんで失礼します」
「え、あ!うわ、あの!さん!」
教科書を受け取った手を慌てて君に向かって伸ばした。
せっかく、変わりそうな軌道、逃してたまるか。
「はい?」
振り返った君の顔は、明らかに焦りに染まっている。
そりゃそうだ。あと1分でチャイムがなる。
ここから化学実験室までは、2分半。
俺の足でそうなんだから、さんの足じゃもっとかかるだろう。
「あの、えっと」
半端に差し出した教科書をそのままに、俺は言葉を探した。
名前なんていうの?…って、さっき呼んじゃったし。
大丈夫?…って、さっき聞いたし。
そろそろチャイム鳴るよ…って、そんなの分かってるから急いでるんだし。
何を、何て言えば。
顔が熱い。息も熱い。鼓動が、どんどんどんどん早くなる。
ごめん、何でもない。引き止めてごめんね――そう言うしかない、思ったときだった。
目線、ちょっと下にある君の表情が変わって、「あっ!」と一言、声が上がった。
「え?」
「あ! あの、教科書! それ、2年の化学ですよね?!」
「え? ああ、これ? そうだけど」
教科書をちょっと持ち上げるように動かすと、さんは、それを掴んだ。
「お願い、貸してください!」
「え、なに?」
「これ! この教科書、貸して! 次、化学なの。忘れちゃって」
「あ、ああ、いいよ。はい、どうぞ」
意外な展開に、驚きつつも教科書を手渡す。
君は勢いよくお辞儀をしながら、「ありがとう!」と満面の笑みを見せてくれた。
どういたしまして、と答えると同時に、チャイムが鳴って。
「あ、急いだほうがいいね」と告げると、君は慌てて、走って行ってしまった。
すっかり静かになってしまった、廊下の曲がり角で。
俺は鼓動が響くのを、耳の奥に聞いていた。
「あ、ノート…」
空っぽになった手に気づく。
教科書と一緒に、さんが持っていってしまったんだろう。
あの、妙に手の込んだノートを見て、君はどう思うだろう。
相当化学が好きな奴なんだと思われるかな。
俺が相当好きなのは、化学じゃなくてさんのことなのに。
でも、今はとりあえず、そんなことはどうでもよくて。
貸した、ということは、君が返しに来る、ということ。
多分、俺が教科書の裏に書いた、名前とクラスを頼りに。
俺のところまで。
どこかのクラスから、授業開始の挨拶が聞こえる。
俺のクラスでも今頃きっと、みんなが並んでお辞儀をしてるんだろう。
それは、今、全く別の世界のことのように感じる。
古文の授業より、遅刻を怒られることより、今、大切なことは。
君に、何を、話そう?
切実な問題に、頭を捻りながら。
顔が無意識に緩んでいくのを感じた。
平行線の、軌道は今。
静かに、ゆっくりと変わっていく。
窓の外、飛行機雲が風に揺られて、形を変えていた。
END
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