弦一郎は、俺が彼女に持つ、特別な感情に気づいていたのだろうか。
こんな約束を交わしてしまった以上、もう、尋ねることもないのだろうけれど。
「ねえ、柳」
俺は知っている。
夕暮れ時、俺の隣の席で、いつも不機嫌にノートに向かう彼女が。
俺に持っている、感情を。
【差し込む夕日が、オレンジ色に染める場所 ―3―】
部活の後、着替えを終えると、いつも一番に部室を出る。
3年目になるこの練習も未だに慣れることなんてなくて、身体の疲労感はいつだって、とても強い。
部室内にいる部員たちもそれは同じで、
寝転がったりドリンクを飲んだり、ぬれたタオルで頭を冷やしたり、それぞれに体力の回復を図っている。
ただ、幸村だけは。いつも飄々とロッカーの整理なんかをして、後輩を驚かせたりしているけれど。
「やなぎー、もう行くのかよ」
今日は、ジャージのはみ出た赤也のロッカーを、本人の承諾もなしに整理を始めた幸村の隣。
見るからに甘ったるい色をした飲み物を飲む丸井が、出入り口の戸に手をかけた俺にそう呼びかけた。
振り返り、「ああ」と返事をすれば、丸井はまるで変なものでも見るかのような目つきで俺を見て、苦笑した。
「すげえな、柳は。あんだけの練習して、よくそんなてきぱきと動けるもんだぜぃ。疲れねえの?」
「どうだろうな。まあ、人並みには疲れていると思うが」
「それで人並みかよ! オレなんて、一眠りしないと家までたどり着けねえんじゃねえかっていつも思ってんのに」
「……俺からしてみれば、運動後にあえて糖分を多く含んだものを口にする、丸井の方がすごいと思うが」
「あ? 何か言ったか?」
「いや」
本当に聞こえていないのか、それとも俺の言葉の意味が分からなかったのか。
丸井はきょとんとした表情で、手にしているドリンクをぐびぐびと飲んで見せる。
見ているこっちの方が胸焼けを起こしそうで、俺は丸井に背を向けるように、扉に向き直った。
「じゃあ、先に失礼する」
「おーう、お疲れ」
「柳、気をつけて帰ってね」
「ああ」
挨拶を交わし外に出たところで、2年の仕事であるコート整備を終えた赤也に会った。
レギュラーの練習に加え後片付けまでこなした赤也は、今部室内にいるレギュラーの誰よりも、疲れた顔をしていた。
「柳先輩、もう帰るんスか」
「ああ」
「お疲れさんっス」
すれ違い様、幸村がおまえのロッカーを開けていたぞ、と話すと、顔を青くして中へ走って行く。
今でさえ、あの元気があるんだ、それならば来年あたり。
赤也も練習の後に一暴れしてみせて、幸村みたいに後輩を驚かせたりするんだろうか。
頭の隅でそんなことを考えて、なんとなく、笑みがこぼれた。
ちらほらと見える、校門へ向かう生徒の流れに逆らって、校舎を目指す。
本当は俺だって丸井と同じだ。
練習の後、一息もつかずに帰宅するなんて考えただけで恐ろしいし、できることなら一眠りできれば、とも思う。
それでも、こうして一目散に着替えて、校舎を目指すのは。
考えはじめたけれどすぐに、わざと思考を止めた。
そんなこと、どうだっていいじゃないか。
習慣だと思えばなんてことないのに、その習慣の理由などを考えてしまうと、また、俺は抜け出せない思考の深みにはまってしまう。
後ろ髪を引く、何かを振り切るみたいに。
重い足に鞭打つ思いで階段を上る。
一歩、一歩。進むごとに、夕日が近くなる。
オレンジ色が濃くなるこの時間の校舎は、なんだか静かで、少し胸焼けを感じさせる。
まるで、丸井の飲んでいたジュースのように。
登りきって左に折れてすぐ、俺の机がある教室の扉に手をかけて、開いた。
そこで目に入ったのは、見慣れた横顔。
振り返った彼女は、ふわり、と。
ほんのわずかに口角を上げて、やなぎ、と、俺の名前を呼ぶ。
短く返事をした後、彼女の隣、俺の席まで歩みを進める。
「、残っていたのか」
「うん。柳は今終わったの? お疲れ様。あの子なら、まだ来てないよ」
「ああ」
椅子を引いて座る。
疲労している身体を背もたれに預けると、一息、呼吸が漏れた。
は苦笑する。
そして俺に向けていた視線をノートに戻しながら、話を続けた。
「疲れてるね」
「そうだな。大会が近いんだ」
「…テニス部、すごいもんね」
「立海の運動部なら、どこも大差はないだろう」
鞄の中から、ミネラルウォーターと文庫本を取り出した。
窓から差し込む西日に、水面がきらりと光る。
「…でも、疲れてるのに、」
「うん?」
「疲れてるのに、こんなに急いで来るなんて、相当…」
相当、の後に続く言葉。
はっと気づいたときに真田の顔が浮かんだ。
ゆらゆら、と、反射した光を受けるの横顔に、向き直る。
「」と、名前を呼んで、言葉を遮った。
「。言っただろう、約束だ、と」
「……」
「それ以上でも、以下でもない。妙な詮索はやめてくれ」
は小さな声で、「うん…、ごめん」と呟いて、瞬きを一つした。
その顔が、一瞬、ほんの一瞬泣きそうに歪むものだから、俺は謝罪しようとと口を開きかけて、でも、それは言葉にはならなかった。
本格的に胸焼けを起こしてしまいそうな感覚に、ミネラルウォーターを手に取る。
手の中で揺らしてみると、水面に反射する光は天井をふらふらとさまよった。
言葉ほど、恐ろしいものはない。
曖昧で形のないものでも、言葉にしてしまえば、くっきりと輪郭が浮かび上がる。
その言葉が正しくても、間違っていても、音に鳴った瞬間に、あたかもそれが真であるかのように思い込んでしまう。
それは、影絵によく似ている。光と影が生み出す、虚像。
幼い頃を思い出す。
初めて俺に影絵を見せてくれたのは、母親だった。
母の手はとても華奢で、料理好きのその手は荒れていたけれど、夕日のオレンジにかざすようにして両手を重ね合わせれば、
それはまるで羽化したばかりの蝶のように、初々しく、ひらひらと舞った。
夕日に、手をかざすように。
俺の、落ち着きどころのない感情だって、きっと言葉にしてしまったら、形ができるのだ、と思う。
あたかも、本当に飛べるかのような。生きている、かのような。
そうなったのなら、荒れた母親の手が蝶になって空を目指したように、俺の気持ちも何かを目指すのだろう。
強い光が差し込めば、消えてしまう、ということも忘れて。
「やなぎ」
の声に、振り返る。
ペンを握り、ノートに向かう横顔。
彼女だけだろう。
俺が真田の大事な人に向ける感情に、名前をつけている、のは。
「なんだ」
「真田くん、そろそろ帰ってくるんだって、ね」
「…ああ」
の中では、もしかしたら俺の感情が、この夕日の中で蝶のように舞っているのかもしれない。
本物で、あるかのように。
形になんかならない、しては、ならない感情なのに。
それが叶う、だなんて、もしかしたらだけは、本気で思ってみたりもするのかもしれない。
「柳、いいの…?」
「何がだ。主語を示してもらわないと分からない」
「…言ったら、怒るくせに」
「怒るような、主語なのか」
手にあったミネラルウォーターを、机の上に戻す。
ゆらゆらとさまよう反射光は、また、の横顔を照らした。
「気持ち、を。言葉にしてみなくて、いいの…?」
「なぜ」
「だって、ずっとあの子の傍にいたのは、柳だよ。真田くんじゃ、ないよ」
「……」
「これじゃ、あの子を大事にしてるのは、真田くんじゃなくて、柳だよ。柳のほうだよ」
「」
「本当にあの子を好きなのは、柳の方だよ!」
「!」
荒げた俺の声に、横顔だったのそれが、正面で俺を捕らえる。
揺れる反射光が、切なく、光った。
あの日の影絵の蝶々は、どこへ消えたのだろう。
空へたどり着くことは、きっと、なかった。
「…すまない、」
夕日のオレンジ。水面に揺れる反射光。
長く伸びる、俺と、の影。
俺たちもきっと、光にも影にも、簡単に飲まれてしまう。
「…分かるよ……」
「?」
「分かるよ。怖いよ、誰だって。砕けるって分かってて、形にするのは怖い、し、寂しい、よ」
「……」
「でもそれじゃ、柳の気持ちが、かわいそう、だよ。…柳が、辛いよ」
知っている、もう、ずっと前から。
の言葉は俺だけに向けられているようで、でも、実はもう一人。
自分自身にも、向けられていることを。
弦一郎は、俺が彼女に持つ、特別な感情に気づいていたのだろうか。
こんな約束を交わしてしまった以上、もう、尋ねることもないのだろうけれど。
「ねえ、柳」
俺は知っている。
夕暮れ時、俺の隣の席で、いつも不機嫌にノートに向かう彼女が、俺に持っている、感情を。
だって、手に取るように分かってしまう。
彼女の言葉が。気持ちが。
俺たちはあまりにも、重なりすぎる。
空気が振動する。
それはきっと、が言葉を紡ごうとする気配。
耳をふさぎたい、と、思った。
でも、なぜだろう、身体に力が入らなかった。
「…私は、柳が、好きだよ」
の感情が、今、形になっていく。
あらわれるのは、“恋愛”という、輪郭。
すき、だよ
俺たちはきっと。
夕日の中の影絵の蝶のように、空には、たどりつけない
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