もっと知りたいと思う。もっと近づきたいと思う。もっと触れてほしいと思う。
でも、それを伝えていいのか、私にはまだ分からない。
【一線】
頼りない街灯の明かりと、道沿いに並ぶ家から漏れる暖かな光。
上を見ると、濃紺の空にぱらぱらと散りばめたような星が繊細に光っている。
「今日はいい天気だったなぁ」
コツ、コツ、と。
短く踵を鳴らしながら、そう呟いた彼をちらりと見上げると、穏やかに上がった口角が視界に入った。
「晴れてるから、星がよく見えるね」
すっかり定番になった海デートの帰り道。
「家に着くまでがデートですから」とおどけながら、いつものように家まで送ってくれる彼の隣を、私は少し、落ち着かない気持ちで歩いている。
「足元、気を付けろよ?」
「分かってるー」
「まあ、転んでもしっかりキャッチするから任せとけ」
あはは、と笑いながら、さっきから心の中では別のことを考えている。
こうしている間に、彼との時間の終わりはどんどん近づいてきてしまう。
今日こそはと心に決めた言葉を頭の中で繰り返しながら、私は星を見上げて、できるだけゆっくり時間をかけて歩いた。
付き合い初めて、そろそろ3ヶ月が過ぎようとしている。
彼の仕事柄、頻繁に会えるわけではないけど、マメな彼はほぼ毎日電話をくれたし、それなりにデートを重ねてきた。
手をつないで、キスをして、たまにぎゅっとされる事もあって、それは付き合うようになってからの大きな変化なのだけれど。
(……3ヶ月って、普通はどうなんだろう)
変わったことはたくさんある。
こうして隣を歩く時に当たり前に手を繋ぐようになったこと。
彼は左側、私は右側。意識しなくても歩調を合わせて歩く事ができるようになったこと。
電話をかける時間帯を迷わなくなったこと。
会話が途切れても焦らなくなったこと。
でも、変わらないこともたくさんある。
相変わらず彼はいつでも優しくて、疲れている時も忙しい時も滅多にそのそぶりを見せない。
ごくたまに、軽口を叩くみたいにして「癒して?」と寄りかかってくる事はあるけれど、どんな時でも、彼は決して取り乱したり語調や態度を荒げる事はない。
そして。
そして私はまだ、彼の部屋に上がった事がない。
人目を気にしなくてはいけない彼とのデートは、いつも人気のないところを選んでいるけれど、お互いの部屋を行き来するような話は今までに一度も出ていない。
いつも、日付が変わる前までに私を家まで送ってくれる彼に、「お茶でも?」と声をかけたことはあるけれど、「送りオオカミになる前に帰ります☆」といつもの調子でさらっとかわされてしまうのだ。
まだ私は、彼の"素"の部分に、あまり触れられていない気がする。
笑顔も、態度も、振る舞いも、いつも隙がない。
隙を見せてもらえないのだ。
待っているだけじゃダメならば、と、こっそり唇を噛んで、もう一度彼を見上げる。
「うん?」
すると、やっぱり柔らかな視線にぶつかって、少しだけ寂しい気分になる。
もっと知りたいと思う。情けない彼も、かっこ悪い彼も。彼が自分の中できれいに整えた感情だけじゃなく、もっとむき出しの、出来損ないの感情だって知りたいし、愛したいと思う。
「京也さん」
「どした?」
息を吸って、吐いて。
今日の待ち合わせの時から、言いたい言葉はもう心の中で形にしてきた。
でも、それを彼に渡していいのだろうかという不安が呼吸をかすかに震わせる。
「あの、私」
「うん?」
拒絶されない自信を持つには、まだ彼と私の距離は遠すぎて。
「その、私。ま……まだ、帰りたくない」
不安に押しつぶされそうになりながら伝えた言葉に、彼は目を少し見開いて、息をすっと吸った。
多分、一瞬だったんだろうと思う。
でも、私にはその一瞬が長くて、彼の固まった表情を見た瞬間、なんだかもう恥ずかしくて逃げ出したくて、一瞬で熱くなった頬に思わず手の甲を当てて声を出した。
「うそ! ごめん! 今のなし!」
隣にいる彼とは逆の方に顔を向けて震える呼吸を整える。
ここしばらく、ずっと考えて悩んで、やっと固まった決意だったけど、こうして彼を目の前にするとどうしても自信が持てなくなってしまう。
後悔でいっぱいになりながら、帰ろう、と、繋がった手を少しだけ引くと、彼の大きな手が私の手をぎゅっと握り直した。
「だーめ。もう聞いちゃいました」
聴こえてきた柔らかな声音に彼を振返ると優しい視線にぶつかって、今度は私が息をのむ。
「……女の子に言わせちゃってゴメンな」
彼はそう言って、私の顔を覗き込むように、わずかに背をかがめる。
少しだけ不安そうな、でもとびきり優しいその顔に不安と緊張が一気にほどけて、思わず緩んだ涙腺に私は唇を軽く噛む。
「俺んちでいい?」
「うん」
繋いだ手とは逆の手の人差し指で私の目じりを軽くぬぐうと、彼は私の手を引いて来た道をまた戻り始めた。
「ごめんな、あんまり片付いてないかも」
私の家からさほど離れていないマンションの前で、彼は立ち止まって私をちらりと振返った。
深いグレーの外壁。
エントランスに続く真っ白の扉にはスポットライトが当たっていて、その取っ手の銀がきらりと反射している。
その扉を押し開けた彼に続いて中に足を進めエレベーターへ乗り込むと、コンパクトな空間につないだ手だけじゃなく腕がぴたりと密着して、反射的に体がびくりと震えた。
「はい、到着」
身を固くしているうちに目の前の扉が開く。
エレベーターを降りて、緊張にわずかな息苦しさを感じながらいくつかの扉の前を通り過ぎると、彼は「ここ」と呟いて足を止めた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
私が開けてもらったドアの内側に入ると、彼も続いて玄関に入り静かに扉を閉めた――その刹那。
エレベーターよりも狭いその空間でお互いの体が軽く触れたと思うと、そのまま強く、ぎゅっと。
彼の両腕が私を抱きすくめた。
「……外で可愛いこと言うの禁止」
「京也さん?」
「ここまで我慢するの大変だったんですけど?」
ドキドキと全身を震わせながら早鐘を打つ鼓動は、私のだろうか。
それとも、彼の。
まるで一つになったみたいにぴたりとくっついた体はもう境目が分からなくて、らしくなく私を掻き抱く彼の熱い腕に溺れそうになりながら、なんとか顔を上げる。
まだ照明も付けていない室内でぼんやりと見えた彼は、眉根をわずかに寄せて、珍しく苦しそうに口角をきゅっと引き結んでいた。
「俺だって、帰したくなかったって言ったらどうする?」
すがるように、戸惑うように。
そう呟いた彼が自分の額を私の額に合わせると、私の頬に彼の柔らかな髪の毛がフレグランスの香りと一緒にさらさらと落ちてくる。
(……酔いそう)
考えられなくなる。
彼の事以外、何も。
いつもの優しい瞳も。
キスした後のとてもセクシーな視線、少しひんやりした長い指、何度か見せてくれた甘えた態度、髪の毛が揺れると漂う大好きな香り、甘くて柔らかな声音。
私の知っている彼の大好きな部分はきっとまだごく一部で、だからこうして近づくたびに、大切なものはどんどん増えて。
「……嬉しい、って言ったら、どうする?」
近づくことが、そしてそれを拒絶されることが不安だったのが、もし、私だけじゃないとすれば。
彼のその感情はやっぱり私の宝物だし、そういう彼を知ることが、とても。
とても、幸せだと思う。
「……やっぱり、ウチでも可愛いこと言うの禁止」
困ったようにそう呟いた彼が、私の背を壁に優しく押し付けると。
玄関の鍵ががちゃりと音をたてたのを合図に、熱い、急いだようなキスが次々と降ってきた。
END
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