彼の親指が好きだ。
幅の広い爪も、少し硬い指先も、筋が浮き出るごつごつした男の人らしいその付け根も。
彼の肩が好きだ。
Tシャツのラインを少し引き上げるその広さも、私の手じゃ掴みきれないその厚みも、鼻先を押し当てたときに感じる硬さも。
彼の温度が好きだ。
いつも暖かい手のひらも、キスするときにかすめる少し冷えた鼻先も、抱きしめられたときに感じる高い体温も。

彼が好きだ。
笑うとわずかに下がる目尻、短い相槌、不機嫌に刻まれる眉間のしわ、不器用だけど一生懸命な優しさ。
私は彼が大好きだ。



【その、すべて】



「お邪魔しまーす」

ドアを引いて少し身を引いた彼の前を、私はおずおずと通り抜けた。
その殺風景な玄関には、傘が一本、少しくたびれたスポーツサンダルが一足。

「おう」

私の後ろで短く返事をしながら少し背を屈めた彼が戸の内側に入ると、その狭さに必然的に距離が近くなって、振り返りかけた視線を慌てて部屋の中に戻した。

「入れよ」

なんだかなぁと、私は心の中で呟く。
背後に響くその低音にすら私はまだ緊張してしまうくらいなのに、彼はといえばお互いの体が密着してしまいそうなこの狭い空間で手際よく靴を脱いでしまっていて、その姿からは緊張も焦りも全く感じない。
彼のことを好きだと自覚してから今まで、ドキドキと焦っているのは私だけで、こういうときの彼を見ているといつも少しだけ悔しい気持ちになってしまう。

「お邪魔します」

意を決して靴のかかとに指をかけながら声を出すと、「2回目」と彼はふっと鼻から息を抜くように笑った。



彼と付き合い始めて1ヵ月目の今日。私は初めて彼の部屋に上がった。
彼の仕事の都合もあるから外で会う事はなかなか難しくて、なんとか合わせることができた休暇をどう過ごそうか頭を捻っていた私に、彼はさらっと言ったのだ。
ウチ来るか、と。
それを聞いた私は、早いだろうか、いやでもこんなもんだろうか、状況が状況だし止むを得ないんじゃないかと思考をループさせて、耳に当てたスマホをそのままについ押し黙ってしまったのだけれども。
彼はといえば、のんきに「おい」と返事を促すから、なんだか私だけがイヤラシイ人なんじゃないかとそんな事を思って余計に恥ずかしくなって、「あ、いや、うん。いや、」としどろもどろに反応したら、彼は「どっちだ」と笑った。
そして私は、その声に。大好きなあの笑顔が浮かんで、とにかくなんでもいいから会いたいと思ってしまったんだ。

「うん、行きたい」



部屋に一歩足を踏み入れるとわずかに彼の香りがして、そうか、隣を歩く彼からたまに感じるあの香りはここが源なんだなと思ったら、やっぱり恥ずかしいような照れくさいような気持ちに襲われる。
後ろにいる彼はといえば、そんな私の肩に軽く触れて横を通り過ぎると目の前のキッチンに向かった。

「適当に座れ。飲みモンいれる」

ただ触れられただけなのに、飛び上がりそうになって思わず身を縮める。
走り出した鼓動を落ち着かせたくて「私やるよ」と声を出してみたけれど、「いい」という短い声が返ってきた。
手持ち無沙汰にあたりを見回す。
ワンルームのコンパクトな部屋の真ん中にはローテーブルが一台。
壁際にあるテレビにはDVDデッキとゲーム機がつながっていて、付近に無造作に置かれているディスクには黄色のマジックで番組名が走り書きされている。
少し視線を上げると、アクアグレイのカーテンが寄せられている窓から差し込む光がそのたもとの少し大きなベッドに着地して、シーツの白を眩しく照らしていた。
迷いながら、ローテーブルの近くに腰を下ろす。
毛足の短いブラックのラグを指先で軽くなでながら、飾り気のない、でも明るいとても彼らしい部屋だなと思った。

「ん」

ことん、と、目の前に大きな青いマグカップが置かれた。立ち上る湯気から渋みを帯びた甘い香りがする。ミルクティーだった。

「紅茶置いてるんだね。たまに飲むの?」
「いや。お前来るからさっき買ってきた」

そう言いながら私の左側に腰を下ろそうとする彼の手には猫のマグカップ。きっとコーヒーが入ってるんだろう。

「ありがと。そのカップ可愛いね」

らしくない可愛いデザインに思わずそう言うと、彼は自分の手元にチラッと目をやって「ああ、これトオルの」と呟いた。

「え、剣人さんのは?」

そう尋ねると、彼は私の手元を視線で指しながら「それ」と答えた。

「これ? え、私こっち使っていいの?」
「ああ。1個しかねぇんだ。あとはトオルとキョウヤの」

お前が使うんなら俺のだろ、と、当然のように言うから、私の顔は一気に熱くなる。

「ん? 赤けぇぞ、カオ」
「気のせいじゃないかな」
「おデコ見せろ」

もう何度目だろう、大きな手のひらをこちらに向けてぐっと伸ばす彼のそのしぐさに、私は自分の右手で自分のおでこを覆った。
まだ付き合ってからの日は浅いけど、もうよく分かっている。
彼のこれは、彼の挙動にいっぱいいっぱいになっている私をからかうしぐさ。

「もうその手には乗りませんので」

必死におでこをガードしながらそう返すと、彼は「何をそんなに照れてんだ」と、ふっと吹きだして、その一瞬。
私の左手に自分の右手を重ねて、ちゅっと。自分の唇で、私の唇に触れた。

「直接触れてんのに。カップ貸すくらい、今更だろ」



例えばこの、いじわるな挙動。
重なった手の暖かさだとか、ふれた唇の少し乾いた感触。
近づいたシャツから感じる香り、額に添えた手に触れる前髪の柔らかさ、体に響く低い声音、武骨な手、柔らかな眼差し。
彼が当然に持っている、今更なこと全てが大好きで、大切で。
「何をそんなに」と聞かれても、彼の全てに照れてしまうんだからどうしようもない。
余裕たっぷりの彼には分からないだろうけど、私はもう、こうして近くに座っているだけでどうにかなってしまうんじゃないかと思うくらい余裕がない。
何を、じゃなくて、全てに「そんなに」なのだ。

「剣人さんは余裕だね」
「ん?」
「私はここにいるだけで、いっぱいいっぱいだよ」

白状してしまったほうが気が楽だろうと口を開いて剣人さんを見上げると、彼は一瞬目を丸くして、そしてすぐ少し困ったような顔で笑いながら私を抱きしめる。
私はこの、大きな大きな彼が私を覆うように両手で囲う瞬間が、たまらなく大好きな反面、とても苦しくて少し苦手だ。

「心臓の音」
「え?」
「聴こえんだろ。心臓の音」
「うーん……自分のがうるさくてよく分からない」
「バカ。あんまり可愛いこと言うな」

指先まで響くような動悸に溺れながら、彼の左胸に耳を押し当てて。
私の思考は隙間なく大好きな彼でいっぱいになる。



彼の親指が好きだ。
幅の広い爪も、少し硬い指先も、筋が浮き出るごつごつした男の人らしいその付け根も。
彼の肩が好きだ。
Tシャツのラインを少し引き上げるその広さも、私の手じゃ掴みきれないその厚みも、鼻先を押し当てたときに感じる硬さも。
彼の温度が好きだ。
いつも暖かい手のひらも、キスするときにかすめる少し冷えた鼻先も、シャツ越しに感じる高い体温も。

彼が好きだ。
笑うとわずかに下がる目尻、短い相槌、不機嫌に刻まれる眉間のしわ、不器用だけど一生懸命な優しさ。

「今度お前のマグカップ、買いに行くか」
「うん」

視界いっぱいに広がる、彼のシャツの白にうずめた額で頷くと。
大好きな彼の大きなてのひらが、私の頭を柔らかく包んだのを感じた。



END



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