【やわらかな -after-】
落ちたタオルを拾い上げて、もう一度軽く顔を覆った。
その隙間から、私と少し距離を取った彼の様子を窺うと、むすっと下がった口角が目に入った。
「お前さ、何考えてるワケ?」
不機嫌に言葉を紡ぐ彼の耳のフチはまだ赤い。
視線を少しだけ上げると、ジトッとこちらを睨む眼差しとぶつかった。
「だ、だって、雨で濡れて、」
「いやそうかもしんないけど、あえて言わなくていいじゃん。っていうか言うな」
「それは透さんが離してくれないから」
少し早口で畳みかける彼に、思わずムッとして言い返す。
もちろん、私だってできることなら言いたくなかった。
でも、お互いのパーカーを隔てただけの状態で、彼のお腹に、その、む、胸が当たっていたのだ。
初めて訪れた彼の部屋で、こんな姿で抱きしめられた方の身になってみて欲しい。
言葉を選ぶ余裕なんてなかったのだ。
「……あのさ、その発想が間違ってんだけど」
少しだけ声のトーンを落としてそう言った彼が、こちら側へ一歩足を進める。
思わず身構えて私も一歩足を引くと、彼はまた一歩こちらへ近づく。
「と、透さん?」
「……ただでさえ2人きりなのに。そういうこと聞いたら意識すんだろ」
じりじりと近づく彼に追い詰められて、私は壁に背中をつけた。
眼前には、眉根を寄せて、こちらを射抜くように見下ろす彼の視線がある。
初めて見るその顔に息が詰まった。
痛いくらいに胸を打つ鼓動が苦しいけれど、逃げ場がない。
「透さん、待っ、」
「待たねー」
言うと同時に、彼は私の顔の隣に静かに右腕を付ける。
いよいよ身動きが取れなくなって、ぎゅっと目をつぶると、彼の吐息が私の前髪を微かに揺らして、その直後、私の唇にいつもの触れるだけの優しいキスが降りてきた。
「……このくらいでビビんなら挑発すんなバーカ」
聞こえてきた声に目を開けると、「やっぱシャワー浴びてくる」と言いながら背を向ける彼の姿が目に入る。
ほっとして息をつくと、呼吸が頼りなく震えたのを感じた。
私だって、ちゃんと意識していた。
「一日オフだし、俺んち来る?」と、彼はまるでお茶に誘うかのように気軽に今日のことを口にしていたけれど、「俺んち」というフレーズにどきっとしたし、躊躇もした。
でも、思い返してみると、出会ったときから今まで彼はずっと優しかった。
仕事が忙しくて疲れている時、「体力ヘーキ?」と顔を覗き込んでくれること。
荷物の重さに息を切らせていると、「バテてんじゃん」とからかうように笑いながら、でも当然のように私の手から荷物を持ち上げるところ。
落ち込んだとき、「らしくねー」って呆れながら、それでもずっと寄り添ってくれていたこと。
さっき、雨が降ってきたとき、キャップを被せてくれたこと。とても柔らかく髪の毛を拭いてくれたこと。
自分だってびしょ濡れなのに、先にシャワーを貸してくれたこと。
彼は絶対に私が嫌がることはしないだろうという信頼があった。
そして、それ以上に。
その見た目とは裏腹に、とても大人びた行動を取る彼に、安心していた。
彼が私に対してそういう衝動を持つなんて、想像が追いつかなかったのだ。
もちろん、それが嫌なわけではないのだけれどと思いながら、洗面台からそっとドライヤーを借りる。
嫌なわけではない、でも、そうなることを受け入れられるかと聞かれたら、まだそれは自信がない。
彼の事ならなんでも知りたいけれど、自分の事をすべてさらけ出すことは恥ずかしい。
華やかな世界にいる彼に対して感じている引け目もある。
彼の方がよっぽどきれいな顔をしているし、整ったスタイルを持っているとも思う。
全部を知られてもなお彼に好きでいてもらえる自信がないのだ。
ただ、そんな私に対して彼がそういう感情を持ってくれることは嫌じゃない、むしろ、素直に嬉しいと思う。
付き合ってるんだから当然と言われればそうなのだけれど、やっぱりまだなんとなく、彼に好かれているのだという自信が持てていないのかなと考えながら、乾いた髪の感触を指先に感じてドライヤーのスイッチをオフにした。
「上がったぞー」
ちょうどいいタイミングで部屋に戻ってきた彼は、さっきのことなんてまるでなかったかのようにのんびりとタオルで頭を拭いていて、やっぱり大人だなぁと心の中でこっそり感心する。
ラグの上に座ったまま、「ドライヤー使う?」と聞くと、彼は「ん」と呟きながら私の前にどかっと座った。
「やって」
「えっ?」
「髪。乾かして」
いつもの調子にほっとしながら、ドライヤーのスイッチに指をかける。
吹きだしてきた暖かな風を彼の頭に当てて、右手で彼の髪の毛をすくう。
しっとりと濡れた柔らかな感触が心地いい。
「透さん、猫っ毛だよね」
「へへっ。キレーな髪だろ」
「うん」
男の人の髪の毛を乾かすなんて初めてだけど、想像以上に乾きが早くてびっくりする。
横に移動してメッシュの入った前髪に指をさし入れると、透さんは気持ちよさそうに目を細めた。
「なんか猫みたい」
彼の挙動が嬉しくて思わず笑うと、それに気づいて振返った彼が不意に私の顔を引き寄せてキスをした。
離れる瞬間、わずかに目を細めて息をついた彼が少し苦しそうに見えたから、私はドライヤーのスイッチを切って、彼に向き合った。
「透さん、さっきはごめんね」
謝るのも違うかなって気もするけれど。
でも、私に対してそういう感情を持ってくれて、それでもこうして優しく触れてくれて、怒ってくれて、傍にいてくれて。
そういう彼に比べたら私はあまりにも自分のことで精一杯だったなと思う。
「別にお前が謝ることなくね? ……がっついたの、俺だし」
乾いたばかりで、いつもよりふわふわの髪の毛に触れながら彼はそう言う。
照れくさそうに、少しだけ居心地が悪そうに、そらされる視線がもどかしい。
「なんていうか、せっかく透さんが、その……そういう感情?を、だ、大事に?しようとしてくれてるのに、ちょっと軽率だったかなと。思って、なんていうか、あれだなって、これからはもうちょっと透さんがたまに言うツツシミ?を持とうと反省して、」
自分の不甲斐なさにしどろもどろに言葉を続けていると、透さんがぐんっと私の腕を引いた。
「あー! もういいから!」
また、抱きしめられてしまった。
さっきと状況は変わらない。
鼓動の速度も、一気に顔に集まる熱も同じなのに、どうしてだろう、逃げる気にはならなかった。
「……お前を無視してナニカしたいとか、そういうんじゃないから。だから無理にツツシまなくていいし」
「いいんだ」
「いや、よくねぇけど。でも、ツツシまれすぎて触れねーとかヤだし」
だから。そう彼は言葉をつづけながら、私を囲う腕にぐっと力を入れた。
「……お前は俺に怒られてればいーの」
イジワルな、でもとびきり甘くて優しい声音に顔を上げると、また、彼の形のいい唇がかすめるように私のそれに触れた。
その表情が、しぐさが、やっぱり好きだなあと思ってそっと抱きつくと、耳元で彼が小さく「好きだ」と呟いた。
END
>ときレス短編
>Back to HOME