敵わないと思う。
器用そうに見えて不器用で。細心に見えて、大胆で。固く見えて、柔らかで。
そんな彼が、大好きで。
【シャツ越しの体温】
「はい」
玄関のベルを鳴らすとほぼ同時に開いたドアに驚いて、思わず左足を一歩引いた。
何度も確認したけれど、間違えていたらどうしようと少し怖気付きながら「こんにちは」と口を開くと、隙間から覗く色素の薄い髪が、こちらに向かって押し出されるドアと一緒にゆらりと揺れた。
「いらっしゃい」
黒のフレームの奥の柔らかな視線とぶつかって頬が緩む。
この人は、一体いつからここにいたんだろう。
体を室内に残したまま、玄関に降りずに前のめりにドアを押し開ける姿勢があまりにもらしくなくて、堪え切れない私の口から思わずふっと息が漏れると、彼は「何か面白い事でも?」と首をかしげた。
「タイミング、バッチリだなと思って。大歓迎されちゃった」
笑いながらそう伝えると、彼は少しだけ頬を赤くして照れたように笑った。
「参ったな……とりあえず、どうぞ」
お邪魔しますと室内に上がり、抜いだ靴を揃えようとしゃがむと、隅にきちんと揃えられている彼の靴が目に入った。
軽く持ち上げた自分の靴を隣に並べて、その大きさの違いに少し照れくさい気持ちになっていると、「どうした?」と室内から声がした。
「なんでもない」と慌てて立ち上がり、いつの間にか用意されていたグレーのスリッパを履いて室内に足を進めた。
あれは先週の休みの日のことだ。
少し仕事が早く終わったからと連絡をくれた彼と近所のカフェで待ち合わせをして、近くの公園を散歩していた時のこと。
天気もいまいちで人もまばらだからと2人で並んで歩いていたら、どこからともなく「あれってもしかして、」という声が聞こえてきてしまったのだ。
付き合う前から一緒に歩く時は用心していたし、付き合ってからのここ1ヵ月はもっと用心していた。
ただ、いかんせん彼は目立ちすぎる。
変装しても、人の少ない場所を選んでも、どうしても人目を引いてしまうのだ。
「今度は家に来ないか? その、外よりはゆっくり過ごせると思うんだ」
帰りがけの彼の言葉に、一瞬ドキリとしたけれど。
付き合う前は出てこなかった選択肢に嬉しくなって、気づいたら迷う事なく頷いて、そして今日、初めて彼の家を訪れた。
短い廊下を進んで部屋への入り口を抜けると、南向きの窓から差す光に照らされたホワイトパインのダイニングテーブルが目に入った。
中心に置かれているのはポトスだろうか、真っ白な小ぶりの陶器鉢が可愛らしい。
テーブルの上だけじゃない。
部屋を見渡すと、窓辺にも鮮やかな緑が葉を広げている。
「本当に観葉植物が好きなんだね」
そう彼を振返ると、ケトルをコンロにかけるすっと伸びた背筋が目に入る。
「緑があると癒されるんだ」
彼はそう言いながらちらりとこちらを振り返り、小さく手招きをする。
呼ばれるままに近づいて、少し体をよけてくれた彼の隣に立つと、キッチンには何種類もの茶葉が並んでいた。
「何が飲みたい?」
「すごい!
司さん、ハーブティー好きだっけ?」
色とりどりのラベルの文字をたどる。
ジャスミン、ローズヒップ、ルイボス、カモミール、オレンジピール……その数に驚くと、彼は少し罰が悪そうに笑った。
「いや。実のところ、君の好みに自信が持てなくて気づいたらこうなっていたんだ」
コーヒーや紅茶もあるけれどと言いながら、彼はたくさんの茶葉をちらりと見る。
優しい人だな、と思う。
器用そうに見えて、実はそうでもない。
心配性で、ちょっと頭でっかちで、だけどとびきり優しい。
そういうところが、ものすごく好きだなと思う。
「ありがとう」
緩んだ頬をそのままにお礼を言うと、彼は視線を和らげて笑った。
「君が好きな飲み物を教えて欲しい。次からは切らさないようにしておこう」
茶葉をスプーンですくう彼の長くてきれいな指に見とれながら一緒にお茶を淹れて、ダイニングの隣の部屋へ向かう。
2人分の白いティーカップで両手がふさがっている彼に促されてドアを開けると、そこにはダイニングに負けない日当りのいい空間が広がっていた。
「ソファがあるからこちらの方が寛げると思う」
どうぞ、と微笑んでくれる彼に続いて部屋に入る。
彼の言うとおり、そこには深いグレーの二人掛けソファが一つ。
壁際には小さな本棚とデスクがあって、デスクの上にはノート型パソコンがきちんと閉じられていた。
「きれいな部屋」
「実は普段はそうでもない」
ソファの前の小ぶりなガラステーブルにカップを二つ置いて彼は笑う。
「君が来るから掃除をしたんだ。さっきまでは、机の上が本だらけだった。レポートに追われているとどうも部屋が荒れてしまうんだ」
「それでもきれいだと思うよ」
整理のいき届いた部屋に感心しながら明るいほうへ視線を移すと、窓辺にあるセミダブルのベッドが目に入る。
みるからにふかふかの枕と丁寧なベッドメイクが彼らしい。
枕元には小さな読書灯が置いてあった。
「あまり見られると恥ずかしいな」
そう言われて慌てて視線を彼に戻す。
座ろうかと促されてスリッパを脱いでラグに上がると、同じくスリッパを脱いだ彼の足が目に入った。
その大きさに、さっき玄関で見た彼の靴を思い出して、また照れくささがこみあげた。
「どうぞ」
もう、今日何度目の「どうぞ」だろう。
にっこりと笑いながらソファの前で立つ彼を見て、さっきから何回も言われてるなと少しおかしくなりながら左側に腰を下ろした。
続いて彼も、私の隣に腰を下ろす。
瞬間、たまに彼から香る爽やかな匂いがして、肩と肩が軽く触れた。
(ち、近い……)
どうしよう。
ベンチとか映画館の座席とか、隣り合わせで座ったことは何度もあるけど、ここまで近いのは初めてかもしれない。
もう少し左側に座り直したかったけれど、この距離でそれをやってしまったら避けたことを感づかれてしまう。
手を脇に置くこともはばかられて、膝の上で組んだ両手に視線を落としながらどうしたもんだろうと頭をひねる。
彼のいる右側だけ、どんどん熱くなっていくような感覚に襲われる。
あまりの近さに言葉も出てこなくて、私は押し黙った。
「近いな」
隣から聞こえた空気を含んだ低い声に体が少し振動して、思わず身を固くする。
これはちょっと身が持たないかもしれないと意を決して彼を見上げると、真正面から少し私の方に向き直るように座り直した彼が、ほんのわずかに私との間隔を空けてくれた。
「さすがにシンやカイトと並んで座ることはないから気づかなかったけれど。こうして座ってみると近いな」
「そうだね」
「落ち着かない?」
「うーん……ちょっと」
まだ慣れない。そう呟くと、隣の彼が私の顔を覗き込むように首をかしげて笑う。
「そうか。じゃあ慣れてもらおうかな」
その言葉に、その笑顔に、私の鼓動はどんどん加速して。
息苦しさに思わずうつむきかけると、彼は私の視線をすくい上げるようにキスをした。
「……可愛いな」
敵わないと思う。
器用そうに見えて不器用で。細心かと思えば、大胆で。固く見えて、柔らかで。
そんな彼が、大好きで。
慣れる日なんて来るんだろうか。
「もう少し離れた方が?」
そんなことを言いながら包むように私を抱きしめる彼に、今はまだ、慣れる自分は想像できないけれど。
「……もう少し、このままで」
絞り出すように伝えた言葉と一緒に両手を彼の背中に回すと、薄いシャツ越しに感じる彼の体温が、少し上がった気がした。
END
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