口に出せないことがある。
変わりたくないし、変わって欲しくなかったから。
言葉をのせる、ごくごくわずかな吐息にでさえ、きっと色を変えてしまう。
まるで、秋風に吹かれて色を変える木の葉のように、きっと、あっという間に。
分かっている。私たちの関係は、脆くて、とても曖昧で。
こうしている間にもきっと、目に見えない変化が起こっていて、私たちは二度と、たった今の私たちには戻れない。
私たちの向かう先に待っているのは、きっと永遠なんかじゃなくて、静かな、とても静かな、終わり。
でも、願わずにはいられないんだ。
どうか、ずっとこのままで。
私から、姫条を奪わないで、と。
少しでも長く、この色を楽しめるように。
姫条と同じ色で、いられるように。
混じって、溶けて、ゆっくりと変わっていくその色の中で。
私はただ、じっと息をひそめるだけ。
【ブレンド・ザ・ペインツ】
机の中から教科書とノートの束を取り出す。
明日の授業で使うものは机の中。それ以外だけ鞄の中。
情けないけど、成績は良いほうじゃない。
それはきっと、この置き勉の成果でもあると思う。
「鈴鹿くん、部活?」
隣の席では、鈴鹿くんが私以上にぺちゃんこの鞄を肩にかけている最中だった。
彼は、当然のように頷く。
「おう、大会近いからな。1秒だって無駄にできねえよ」
「そっか。さすがバスケバカだね。頑張って」
「おいおい、バカって言うなよ、バカって」
「褒め言葉だよ?」
「そーかよ」
お前も部活? と、聞かれて、私は頷いた。
姫条バカなのに放課後は一緒じゃねえんだって、そんなことを言われて、なんとなく悲しい気持ちになる。
本当は一緒にいたい。だけど、それを望んでしまったら、何かが変わる。
今以上を望んで今が壊れてしまうくらいなら、何も変わらないほうがいい。
だから私は、一緒にいたい、と、その一言をいつもぐっと飲み込むんだ。
黙り込んだ私を、鈴鹿くんが不思議そうな顔で見下ろす。
私は考えるのをやめて、笑った。
私は姫条バカで、そんな私に姫条も好きと言ってくれて、それだけでもう十分、幸せじゃないか。
今のままで、いいんだ。今のままが、いいんだ。
幸せだから、十分だから、だから、私は笑った。
放課後の美術室は、西日が差し込んでセピア色に反射する。
軽い鞄を片手に、私はそのセピアの中に、一歩。足を踏み入れて、後ろ手で扉を閉めた。
室内には、誰もいない。いつもこうだ。
うちの学校の美術部は、私が入ったときから今まで、熱心な部員なんて一人もいない。
天才芸術家と言われている三原くんは、美術にはとても熱心だけど、でも、部活の枠にはとらわれない。
こうして毎日放課後、美術室に来るのは私くらい。
もっとも、ただぼーっと、何をするわけでもなく過ごして帰ることもあるから、美術に熱心だとはあまり言えないけれど。
その、美術に熱心じゃない私がここに来るのには、理由があった。
この、セピア色に輝く真四角の教室。
懐かしいような、そしてほんのり甘い光はとても綺麗で、放課後の美術室は、かつての私の大好きな場所だったのだ。
背もたれのない、真四角の椅子に鞄を置く。
音のない空間に響いたその音が、完全に消えたのをゆっくりと確認してから、窓際の席に座った。
スケッチブックを開く。
鉛筆がたどるのは、目の前にある、ありふれた肖像。
熱心じゃないけれど、だけど、描くのは好きだ、と思う。
自分だけの世界に、沈むことができるから。
『優しい絵を書くんやね』
ふと、頭の中で再生されるのは、ちょっぴり懐かしい思い出。
まだ、私の恋心が言葉になる前。あれは、学園祭の準備期間のことだった。
『わ、姫条。こんなところでどうしたの?』
『会場設置、一段落したから。ちゃん、美術部やったの』
美術部の展示会場の、美術室。
日が落ちるほんの一瞬前、そんな時間だったから、もう他の部員は帰ってしまっていた。
私は一人、不自然に空いた一人分の展示スペースに自分の油絵を掛けていて、それを偶然、姫条に見られたのだ。
『見ないで。下手だから』
『はは、何言うとんの、展示物やろ? 見せるために飾るんやないの』
『……出さなきゃいけないから、飾るだけだよ。本当は、見られたくない』
『なんで?』
『下手、だから。好きだけど、でも、下手だから』
私たちの目の前にあったのは、本当に、お世辞にも上手いとはいえないりんごの絵。
キャンバスには、赤や黄色や茶色が不器用に、混じることなくただ、そこに置かれている。
その絵を前に、姫条は言った。
『そんなことないー……って、そんなん、オレは美術分からんから言えへんけど』
『うん、いいよ。なぐさめなんて』
『でも、好きやで』
『え?』
『好きやで、ちゃんの絵。もちろん、なぐさめ、とかやなくて』
姫条は言ったのだ。
今でも忘れられない、その一言を。
『ちゃんは、優しい絵を描くんやね』
そうやって、いつでも。
たとえば、ほんの一言、わずかな温もり、何気ない、視線。
姫条はそういう、まるで呼吸を一つするみたいなことで、いちいち私の心をわしづかみにする。
わしづかみにする、から。
その度に私は、もっと、もっとと欲張りたくなってしまう。
だからなんだ。
大好きな色に包まれた美術室が、いつのまにか、とても苦手な場所になってしまったのは。
ふと窓の外に視線をやれば、そこには、校門をくぐるたくさんの生徒。
私は何度も、放課後の美術室から、姫条とその隣の女の子を見た。
そのたびに、頭をよぎるのは。
付き合う、という口約束。
私には切り出せなかった言葉。与えられなかった、約束。
一緒に帰ろう、と、私はもう、何度その言葉を飲み込んだだろう。
怖い、のだ。
誘って、断られることが。拒絶されることが。
だからと言って、偶然を装って割って入って、問いただすこともできない。
その子誰?と聞いて、カノジョ、なんて答えられてしまったら、私はきっと、息さえうまくできなくなってしまう。
好き、と言った。
オレも好き、と言われた。
でも、私たちはきっと、世間の言う、恋人同士ではない。
私はそれを、分かっているつもりで、だから、気づかないふりをしている。
本当は、何も分かっていない、ということ。
姫条がどういうつもりで私の気持ちにあの返事をしたのかも、私をどう思っているのかも。
これからどうなるのか、どうしたいのか、私は姫条の、何になりたかったのか。
もしかしたら私は、自分の気持ちすら、何も、分かっていないのかもしれないこと。
目の前の肖像とは似ても似つかない手元の絵に、嫌気が差してページをめくった。
真新しいページの白に、西日が反射する。
水彩バケツの真新しい水に、ほんの少し、キャメル色を落としたような色。大好きだった、色。
だけど最近、気づいてしまった。
この色は、とてつもない切なさを含んでいる、ということに。
姫条を好きになって、私の世界は、少しずつ色を変えている、ということに。
私は鉛筆を置いて、立ち上がった。
そして、教室の後ろのロッカーから水彩絵の具を取り出して、広げたパレットに向かってチューブを押し出す。
真新しい水をたっぷりと汲んだバケツに筆を浸して、そして、その色を混ぜた。
ぐるぐると、一定のリズムで混ぜていたら、その単色はやがて、淡い色に変わった。
その淡い色を、私はスケッチブックにそっと落とす。
形にならない、色、色。
変えたくない、だから、言葉にはできない。
私の気持ちが、真っ白な1ページを、少しずつ、少しずつ染めていく。
息をひそめたように、淡い色が。
迷うような筆先に導かれて、白の中に、わずかな色を残していく。
優しい絵を描くんやね。
ふと、声が響いたような気がして、思わず振り向けば。
窓の外、やっぱり姫条は、私じゃない女の子と肩を並べていた。
だから私は、やっぱり見えないふりをした。
涙が一筋こぼれたことを。
きっと、誰も、知らない。
私も、姫条も。
誰も、知らない。
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