思ったよりもずっと早く、行き着いてしまった。
いつかきっと、たどり着くと思っていた場所。
見えていた、未来。
こうなることは分かっていた。
けれど、もっと先であって欲しかった。
できる限り、遠い日であって欲しかったんだ。
【ランニング・カラー】
もう、手元のスケッチブックには、色を落とすスペースなんてほんの少しも残っていなかった。
淡いキャメル。バケツの真新しい水と、私の涙に溶かれた、切ない色。
途方に暮れて、なんとなくその1ページを眺めていたけれど、ふと思い出す。
そろそろここを出ないと、やってきてしまう。
セピア色を侵食する群青色のフィルターに、まるで時間や空気の流れが凍りつくみたいな、静かな時間が。
その夜に染まるほんの一瞬前の時間が、私は何よりも苦手だから、だから早く、行かなくちゃ。
流れていた涙をぐいっとぬぐって、慌てて立ち上がる。
絞り出した絵の具もそのままに、パレットを閉じて鞄を持って、美術室を飛び出した。
昇降口はもう群青に染まりかけていて、だから私は、どきどきしながら急いで靴を履いた。
小さく走って、校門をくぐる。
駅までは、5分。きっと、大丈夫。
駅に着けば人がたくさんいるし、だから、私は一人きりじゃないんだって、そう、思えるから。
でも、間に合わなかったと気づいたのは、それからほんの3分後のことだった
よりにもよって、学校から少し離れて家もお店も途切れたところにある、小さな公園の隣の道で。
懸命に動かしていた足から、力が抜けていくのが分かった。
早く帰らなきゃと思いはしたけれど、だけど、どうしようもなかった。
立ち尽くす。あたりはとても静かで、聞こえるのは私の荒い呼吸だけ。
不安にぎゅっとスカートの裾を握りながら、お昼休みの姫条のクラスみたいだな、と、心細く考えたりした。
そうじゃなくても美術室で散々泣いた後だったから、私は駅に向かうのを諦めた。
いっそのこと、空気が夜に染まりきってしまったほうが、まだ怖くない。
のろのろと、引き寄せられるように公園に入って、くすんだ色のベンチに座る。
視線を足元に落とすと、群青色の中の靴のつま先が視界に入ったから、私はぐっと、唇をかんだ。
こういう理由のない不安は、大抵の場合、記憶がいけないんだ。
私がこの夜に向かう一瞬の時間が苦手なのも、幼い日、散々遊んだ帰り道の記憶がその始まり。
「また明日ね」と手を振った友達がその角を曲がった瞬間が、きっとこの不安の最初だった。
そこを照らしていたと思った太陽の光はいつの間にかなくなっていて、だから、友達は帰ってしまって。
私は、1人で。
そんなことを思い出していると、さっき見かけた後姿の姫条がそこに重なる。
お昼休み、姫条は私に言った。「ほんなら、また明日、昼休みな」
なのに、放課後になればいつも、姫条の隣は違う子の場所になってしまって。
「また明日」と、その約束は、どこまで信じていいんだろう。
まるで、挨拶みたいに曖昧で頼りない約束は、いったい誰が、見張っていてくれるのだろう。
こうして群青色のフィルターがかけられてしまえば、全部、溶けて形をなくしてしまう、くせに。
姫条が隣にいてくれたら、と考えながら、自分の右隣に空いたスペースを見た。
ベンチは、くすんでなんかいなかった。本当は鮮やかな緑色で、くすませているのはなんてことはない、染まりかけた夜の色。
姫条がここにいてくれたら、私はきっと、怖くないのに。
姫条さえいてくれれば、それだけで、きっと。
「……きじょ、会いたい、よ……」
バカなんだ、私は。
電話をかける家族も、メールをする友達もいるのに。
そうじゃなくても、駅まで走る足も、無音を崩す鼻歌だって、なんだって、あるのにそれなのに。
真っ先に浮かぶのは、姫条。
いつだって、寂しくなると、姫条に会いたい、と思ってしまうのだ。
泣くもんか。
こんなことで、泣いてたまるもんか。
零れないように、空に視線を移す。
大嫌いな群青色に、凍っていく空。
ああ、似ている。
姫条が私にくれた「好き」は、この時間に、すごくよく似ている。
だって私は、幼い日も、今も、「また明日」なんて、そんな曖昧な約束が欲しかったんじゃない。
そうじゃなくて、私は、姫条を――
もう、零れてしまう、と思った瞬間、公園を囲む木の陰から、沈黙を崩す声が聞こえて私は身を固めた。
反射的に、振り返る。
そこには、2人分の影が、並んで。
「…ス、して」
「……ん」
だから、バカなんだ、私は。
力が入らなくてもなんでも、走って帰るべきだったのに。
鼻歌を歌って、今日の夕飯なんだろうなって、そんなくだらない用事でお母さんに電話して、
そして、明るいほうへ走っていけば、こんなに寂しい時間を過ごさなくても、よかったのに。
木陰の影の主は、見間違えるはずがない、姫条と、さっきも隣にいた女の子、で。
まだ夜になりきらない曖昧な光の中、その2つの影が、静かに重なった。
2人はキスを、していた。
そこから、私は、どうやって帰ったのか分からない。
気がついたときにはすでに夜で、私は自分の部屋のベットの中、重い瞼を隠すみたいに丸まっていて。
そして、考えていた。
私はきっと、姫条バカになりきれなかったんだ、と。
だって、目にして気づいてしまった。こんな現実を突きつけられて、それでもいい、なんて思えない。
私は。(お昼休みの青空の下だけじゃなくて、いつでも、隣にいたい)
私は、姫条が。(他の子に、優しくしないで、私だけに)
姫条バカじゃない、ただの、駄々をこねるこどもで。(他の子と、キスなんて、しないで)
どうしようもなく、姫条がまるごと、欲しかったのだ。
言葉や、約束なんかじゃない、姫条が、欲しかったのだ。
翌日、いつものように青い包みに姫条用のお弁当を入れた。
今日も卵焼きは半分焦げてしまったから、焦げていないほうだけを姫条用に詰めて。
他には、初めてのメニューを入れた。
不器用な私に、「いつか作ってな」と最上級の思いやりを添えて教えてくれた、彼の好きな食べ物。
上手に作れなかった。でも、私はできる限りのものを、お弁当の一角に詰めたのだ。
だって、約束を破るのは、好きじゃない。
「いつか」なんて、そんな曖昧な言葉だって、なかったことなんかにしたくない。
形にならない約束は、寂しすぎるから。
「あれ、、今日は昼休みダッシュしねえのかよ?」
「あ、うん…そう、だね」
今日が、最後。
そう決めたのは昨晩の自分なのに、いざそのときが来ると名残惜しくてたまらない。
昼休みのチャイムとともに、いつもは走り出していた私の隣。
ぼーっと椅子に身を沈める私に、鈴鹿くんが、怪訝に眉を寄せた。
「鈴鹿くん、聞いてくれる?」
「あ?」
「私ね、姫条バカに、なりきれなかったの」
「はあ? おまえ、急に何だよ」
「姫条がね、他の子といても、それでいいと思ってた。思うことにしてた、だけど、」
机の脇に、手をかける。
いつもはとても嬉しい気持ちで掴んでいたその青の包みに指先が触れて、私は、なぜか震えた。
「……だけど、だめだった。私は丸ごと、姫条を好きになれなかった」
そう、言い捨てて立ち上がる。
鈴鹿くんは、まだ眉を寄せている。不思議そうに。
でも、次の瞬間、「おまえさあ」ととても優しく息を吐くから、涙が零れそうになる。
耐えられなくて、私は足に力を入れた。
「ごめん、忘れて」
「って、なんだよそれ、聞いてっつったのおまえだろ?」
「うん、ごめん。でも、今なにか言われたら、私走れなくなりそうで。だから、行って来る、最後の昼休み」
返事を聞かずに、走り出した。
勢いは、付きすぎているくらいのほうがいい。
そのほうが、駆け抜けることができるから。
速さがあれば、群青色を飛び越すことだってできたのかもしれないから。
「そういうのを、バカで丸ごと好きって言うんじゃないのかよ!」
背中に聞こえた声は、聞こえないふりをした。
水気を含みすぎた色は、悲しく滲む。
水の透明でもない、絵の具の鮮やかさでもない、曖昧なまだらな色で、じわじわ、滲む。
私の恋は、きっと少し、水気が多すぎた。
だから形には、絵には、ならなかった。
さよならをしよう。
混じってしまったものは、染めてしまった色は、元には戻れない、だから。
スケッチブックをめくるみたいに、さよならをするしか、ないんだ。
ずっと、いまのままではいられない、分かっていたこと、だから。
「……っ、姫条!」
お昼休みの教室。
初めて私の声に、人だかりの中の姫条が、ゆっくり、振り返った。
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