手に入った新しい絵の具を、片っ端からパレットに広げて、混ぜたり重ねたり。
描きたいものなんてなかった。
だから、とにかく染めた。隙間がなくなるように、染めた。
真っ白だった画用紙。
もう、元には戻らないんだろうか。
今ならあるのに。描きたいものが、ちゃんと、あるのに。
願うような気持ちで、白の絵の具を筆に取る。
とにかく元に、戻したかった。
【マーキー・カラーズ】
がやがやとにぎわう教室の中、オレはでっかいあくびをかます。
窓の外、絵に描いたような爽やか過ぎる青空が、涙でぼんやりかすんで見えた。
うん、平和だ。ものすごく平和。
学園祭の翌日の振休は久しぶりのバイト三昧で、その翌日はごっちゃごちゃになった校舎の片付けで、忙しかったけど。
こうしてすべてが終わってしまえば、またやってくる日常。
まるで何事もなかったかのように整然と並ぶ机を見てると、学園祭なんて本当はなかったんじゃないかって錯覚してしまう。
(祭りのあと、かあ)
誰が言ったんやか知らんけど、ぼんやりと頭に浮かんだその言葉がすごくしっくり心になじんだ。
みんな、あんだけ熱中してたのに、終わってしまえばこんなもん。
オレの斜め前の机では、女の子が2人、数日前のステージの写真を眺めているけど、それはもう過去のこと。
形は写真に残るけど、そのとき自分が何を思っていたかとか、何を感じていたかとか、感情は切り取ることができない。
思い出なんて、時間とともに風化するかもしれない。歪曲してしまうかもしれない。
恋愛とか友情とか、人とのつながりっていうのはは、そういうもんの塊だと思う。
あのときどこで何をして、何を思って何を言ったか。
確かにそこにあったはずの感情は、黒ずむペアリングや映画の半券には残らない。
手紙だって同じだ。言葉なんて、ただの文字の羅列で、気持ちそのものではない。
感情そのものを、そのまま保存できる方法なんて、ありゃせんとオレは思う。
そんな頼りないものに寄りかかったり、すがりついたりするのは、危うすぎると思う。
(まあ、何してても腹は減る、ってな)
ぐう、と、唸り声を上げた腹に苦笑して、オレは席を立った。
いつもなら、昨日の夕飯の残りを詰め込んだ弁当を広げるところだけど、今日のオレにはそれがない。
学園祭、バイト、片付け……さすがにこうも動いてばかりいると、疲れで家事はおろそかになる。
昨日の夕飯は1個98円のカップ麺だった。出費は痛いけど、こうなると昼飯は購買で買うしかない。
昼休みが始まって、もう数分が過ぎている。
人がごった返すその場所を思うとため息が零れたけど、食欲に素直なオレの体は自然と購買へ向かっていた。
あんパン……いや、メロンパン? いやいや、腹をふくらすなら弁当か。でも、高い。
思ったとおりの人ごみの中、棚に残る食料を物色する。
早くしないと選択肢がどんどん減っていくのは分かっているけど、妥協すると後が辛いのも知っている。
家に米はあったはずだから、ここはパン1個にして、夕飯までなんとかしのごうか。
でも、それだけで放課後のバイトまで持つだろうか。そしてその後、オレは米を炊くことができるだろうか。
男子高校生にしては我ながら寂しい、でも、切実な問題に本気で頭を悩ます。
空っぽの腹がぐうぐうと音をたてて弁当に意識を向かせる一方、学祭期間に大分軽くなった財布が悲しい小銭の音を鳴らす。
これはアレだ、もう、とりあえず一番安いコッペパンで腹を落ち着かせて、後のことは後で考えよう。
そう思って、パンの袋を手にとって、レジに向かった。
すると、前方に見知った後姿が見えて、オレの心臓はドクリと音を立てた。
「……あ、姫条」
不自然に足を止めたオレの気配に気がついた彼女が、振り返る。
ちゃんやった。
お昼の購買の喧騒が、耳から遠ざかる。
どうしてだろう、写真も手紙も、あのときを振り返る言葉一つだって、ここにはないのに。
まるでタイムスリップしたみたいに、次々に蘇る記憶。
掴んだ頼りない細い腕、熱い体温、大嫌いな色の夕日。
夢なんかじゃない、あの日、あの時、確かにオレたちはあの場所にいて、そしてオレは強く思った。
好きだ、と。
この子が好きだと、欲しいと、そう、思ったんだ。
「、ちゃん」
自分の声色に困惑が混じってしまったことに気がついて、慌てて笑う。
すると、ちゃんも、笑った。
「姫条、お昼購買なんだ」
「あ、ああ。いつもやないけど、今日はな、ちょっと作ってる暇なくて」
「作る?」
「おう、あ、オレな、一人暮らしやって、自分で作ったりするんよ」
会話が上滑りしている。
そう感じたけど、なんだかするするとつかみどころがなくて、どう止めたらいいのか分からない。
ああ、もどかしい。
「へえー、それはそれは、なんだか感心……というか、尊敬というか」
「あれ、そういや、一人暮らしの話、したことなかったっけ?」
「うん、初めて聞いた。ちょっとビックリ」
でも、よく考えてみたら会ってからまだ1ヶ月ちょいだもんね、と、ちゃんはまた笑った。
ほんま、よく笑う子。
鮮やかすぎるその微笑に、胸が痛くなる。
好きやなあ、ホンマ。オレ、この子のこと、めっちゃ好き……でも、どうしたら、伝わるんだろう。
目に見えないものは、どうやって相手に伝えたらいいんだろう。
話ながら、長い列はゆっくりと前に進んでいく。
一緒におりたい、もっと、もっと。
ずっとこうしていたいけど、彼女の気持ちはどうなんだろう。
あの夕日の言葉だけじゃ、何も分からない。好きって、何? それはどういう意味?
知りたいけど、聞くことはできない。何を聞いたって、今のオレじゃきっと何一つ分からない。
やっぱり、もどかしい、すごく。
「……ね、姫条」
「うん?」
「姫条って、小食なの? それだけで足りるの?」
そう言って、彼女は自分の指をオレのコッペパンに向ける。
言葉も気持ちも、食べ物までも貧相な自分に、思わず苦笑する。
違うで、ちゃん。オレ、欲張りなんよ、ホンマは。
「あー、これは、金銭的事情と、時間的事情っつーか……や、とりあえず、色々余裕なくて」
「つまり、本当はもっと食べたい、と」
「まあ、育ち盛りやしなあ……でも、買うのもきついけど、作るのもきついんよ」
空腹もきついけど。
笑ってみせると、ちゃんはうーんと唸って、眉にしわをよせた。
いや、考えんでええよ。世の中、なかなかうまくいかんことも多いんよ。
それでも案外生きていけるもんやし、心配には及ばんのよ。しんどいけど。
……って、なんや、思考回路までぐにゃぐにゃしてきた。
なんだっけ、なんでこんなにドキドキしとるのに、あんなことがあったのに、オレら普通に話せてるんやっけ。
あれ、上滑りしとるんやっけ? ってか、今までオレら、どういう風に話しとったっけ? 学祭中とか。
分からない。なんか、アカン、混乱してきた。
「あのー」
「え? ああ、うん、どした?」
「よければ、作ろっか?」
「……は?」
「その、あ、お、お弁当。って言っても、料理下手なんだけど……私、学祭終わって、暇だし」
あっけにとられて、ついぽかんと口を開けてしまう。
な、なに? その素晴らしい提案。罠かなんか? やって、おいしすぎるで?
人が料理作ってくれるなんて。しかも、それが好きな子の手作り弁当、なんて。
そんなことを考えて、すっかり返事を忘れていると、ちゃんは急にぶんぶんと手を振りはじめた。
みるみるうちに、顔が真っ赤に染まっていく。え、え、な、なに? これ。
「な、なーんて、あはは! 迷惑だよね、下手な弁当とか食べたくないってのね、ごめんごめ」
「や! 違う! そんなことないで!」
思わず慌てたオレに、今度はちゃんがぽかんと口を開ける。
わ、なにこれ、ホンマ、頬緩むし……勘弁してや、ワケ、わからへん。
「嬉しいで。けど、ええの? なんか……ほんま、ええの?」
恐る恐る、そう言うと、彼女は目を見開いた。
でも、その驚いたような表情は一瞬だけで、その後に広がったのは、やっぱり笑顔。
大好きな、笑顔で、「もちろん、よければ、作ってくるよ」と、頷いてくれた。
その顔を見て、オレもなんだかふにゃふにゃになって、「おおきに」と、うなずいた。
伝わるんだろうか。
例えば、この日の笑顔を心底愛おしく思ったことや、その後、彼女が毎日作ってくれた弁当が嬉しかったこと。
信じてもらえるだろうか。
おかずを分けてくれる子は何人もいたし、弁当を作ると言ってくれた子も何人かいたけど、
本当に毎日弁当を作ってくれたのはちゃんだけで、それが本当にオレの支えになっていたこと。
でも、こんなん本当に初めてで、照れくさくて、何より怖くて。
伝わるか、信じてもらえるか、そんなんばっかり考えて、結局何一つ形にしなかったことを、このときのオレはまだ知らない。
ちゃんと言葉にしておけばよかったんだ。
なりふりかまわずに本当に欲しいものを掴んでいれば、きっと、ちゃんを傷つけずにすんだのに。
伝えたいなら、信じたいなら、まず自分が受け止めて、信じることから、はじめるべきだったのに。
――欲しがりは、アカンよ。
また、同じ失敗を繰り返していたことに、オレはこの後、すぐに気づくことになる。
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