緩めたネクタイに、少し形がくずれた髪型。
脱ぎ散らかした靴下に、外のにおいがする上着に、くたびれたため息。

私がドキドキしてしまうことを知ったら、先輩はどんな顔をするだろう?
先輩は、何を思うだろう。






【甘いため息・1】






小さな片手鍋の中のお湯が沸騰したのを耳で感じて、私は流していた水を止めた。
洗った菜箸を隣の水切り籠に置いて、豆腐を冷蔵庫から取り出す。
手に乗せて、慎重に包丁を入れた。
崩れないように、そっと。
縦に横に刃を入れて四角く切ったら、残った分は水を張った容器に戻す。

最初は、手の上で豆腐を切ることが怖くてできなかったのに、いつからだろう。
母の言葉を思い出す。
“台所仕事なんて、好きな人ができれば一発よ”
全くそのとおりだなあって、考えて苦笑した。
高校生の頃は、自分のお弁当すら自分で作らなかった私がまさか、こんな風に人のために料理をするようになるなんて。
豆腐を鍋に入れたところでピンポンが聞こえて、私は小走りで玄関に向かい、鍵を開けた。

「ただいまー」
「おかえり、先輩」

時間配分までバッチリだ。
先輩に出会って、私は変わっていく。少しずつ、でも大胆に。
眉を下げて、私の頭をなでて、「ただいま、」と呟いた先輩を見ながら思う。
恋に惚ける自分はマヌケだと思うけれど、恋で変わる自分は案外悪くもないかもしれない。

「あー、腹減ったー」
「はいはい」

先輩はそう言って部屋に入り、上着を脱いでネクタイを緩めた。
私はコンロの火を止めて、晩御飯をテーブルに運んだ。



いつも、先輩は着替えもしないまま、ものの数分で晩御飯を食べ終えてしまう。
今日もそうだった。テーブルに並べたお皿の上はあっというまになくなって、
先輩は疲れたような乱れたような中途半端な格好のまま、ソファに身を沈めた。
器用に足だけで靴下を脱いで、そして一日の疲れを吐き出すみたいにふうっと息をつく。
そのため息につられて、私も苦笑しながら口を開いた。

「先輩、お風呂入っちゃいなよ」

こんなこと言っても、無駄なことは分かってる。
返ってくるのは、まるで上の空を音にしたような、「あー」とか「んー」とか、そんな声。
呆れながら振り返る。先輩は、薄目を開けてテレビを見ていた。

「せんぱーい、お風呂!」

どんなに言っても効果はない。立ち上がるどころか、先輩はとうとう目を閉じてしまった。
きっと、すごくすごく疲れているのだろう。
大学生の私には想像もつかないけれど、働くというのは、多分きっと、すごく大変なことなのだ。
明日は休みだし別に急かすこともないかと、私は諦めて洗い物に集中することにした。
少し眠ってから、お風呂に入ればいい。
それが億劫なら、なんとかベットに移動してもらって、お風呂は明日にすればいい。
先輩のことを考えながら、食器の泡を洗い流した。






すっかり先輩中心の生活になってしまった私のことを、友達は健気だとか、かわいそうだとか言う。
特に、高校からの友達で同じ学年の佐伯くんと付き合っているあの子は、よく口をすっぱくする。

「なんで、ばっかり彼氏に合わせるの? 疲れない?」

同じ大学に通う彼氏を持つ彼女には、私が我慢をしているように見えるらしい。
デートは休日だけ。平日に時間があれば、こうして食事を作って先輩の帰りを待つ。
でも彼女は、毎日同じ大学で会って、講義が休みになれば遊びに行くことだってできる。
休日出勤で急にデートをキャンセルされることもないし、彼の身の回りの世話をすることもない。

「そんなことないよ。したくてしてることだもん、疲れないよ」

私がそう言うたび、彼女は「愚痴ぐらい吐き出しちゃいなよ!」と心配そうに眉をひそめてくれるけど。
嘘じゃない、本音なのだ。
無理して合わせているんじゃない、私はただ、一緒にいたいと思う、それだけなのだ。
先輩の生活の一部になれることが、幸せだから押しかけているだけ。
むしろ、それを許してくれる先輩は、優しいと思う。
疲れているのに、一人になりたいときだってあるだろうに、当たり前のように合鍵をくれて、ただいまって笑ってくれて。
のろけるのは恥ずかしいから、絶対に言わないけれど。

確かに、歳の差を疎ましく思ったこともある。
もっと一緒にいられればと、思わないこともない。
でも、私は先輩が好きなのだ。歳の差もひっくるめて、先輩が好きなのだ。



(それに、悪いことばかりじゃない)



そんなことを考えながら、台所から居間に戻ると、先輩はすっかり眠りの世界におちていた。
乱れたネクタイにシャツがはだけて、そこからのぞく鎖骨にどきりとする。
他にも、おでこに落ちる一筋の髪の毛だとか、剥き出しになった大きな足の親指とか。
大人だなあ、と、思う。
先輩は大人で、とても、男の人だなあと思う。

やっぱり、私は健気じゃないし、かわいそうでもない。
だって、好きなのだ。こういう先輩が。色っぽいなあと思うのだ。
私は不憫なんかじゃなくて、とんだ色ボケだと思う。真咲先輩中毒だと思う。
スーツ姿の彼を見られるのは、年上の彼を持つ私の特権だと、そう思うのだ。

「……先輩、起きて」

控えめに、小さく肩をゆする。
私の手のひらが、薄いワイシャツ越しに先輩の熱を感じた。
心臓がうるさい。
先輩に触れたところから熱くなって、やがてそれは全身にめぐっていく。



変わっていく、本当に。
恋をして、私はどんどん変わっていく。
料理ができるようになって、洗いものの手際もよくなって。
洗濯も掃除も嫌いじゃなくなって、すべてが、まるで先輩に吸い寄せられるように。
変わっていく。
恋をして愛されて、心も体も、変わっていく。



横に座って、かがんでキスをした。
先輩、唇荒れてるなあなんて、ぼんやりと考えていると、 至近距離にあるそのまぶたがピクリと動いた。

「……?」

そのかすれた声にドキドキしながら、照れ隠しに笑って見せた。
先輩は目を開いて、そして、自分の唇を触りながら私に視線をぶつける。
少し慌てたようなその表情を見たら、なんだかからかいたい気分になって。
私はおでこをこつっとあわせて、口を開いた。

「め、目覚めのキス? なんちゃっ、」
「……もっかい」
「ん……!」

緩めたネクタイに、少し形がくずれた髪型。
脱ぎ散らかした靴下、外のにおいがする上着、くたびれたため息。
私がドキドキしてしまうことを知ったら、先輩はどんな顔をするだろう?
先輩は、何を思うだろう。

先輩のごつごつした指が、私の髪の毛をかき乱して、頭を捉える。
引き寄せられて、唇をむさぼられて、私は息を乱した。






ねえ、先輩。
先輩が男の人の顔をするから、私を愛してくれるから、私は変わっていく。
おかしいかな?
最初は照れくさかった深いキスを、嬉しく感じてしまう私は、おかしいのかな?






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