いつもどおり、何もなかった、みたいに。
彼女に会いに行った。

大丈夫だと思った。
一晩たてば、きっとあの日のことなんてなかったみたいに、彼女はあの場所に座っているだろうし、
そうしたら俺は、いつもみたいにわざとらしい文句で誘えばいい、って。
彼女はきっとぶーたれて、でも渋々乗ってくれて、俺が笑って、彼女も少し、笑って。

でも、そこにいた、のは。

まるで閉じこもったような、俺の知らない、女、だった。






【それは英雄の革命によって創られた】






図書館の中、俺の定位置。
座って見つめる先には、一人の女。



もしかして、と、思った。
例えばそれは、図書館のいつもの席、彼女に熱視線を送っても、ちっともぶつからない視線。
いつもだったら、ふとした瞬間に交わるそれ。
真っ直ぐな、満面の笑みなんて返ってきたことはないけれど、それでも彼女はわざとらしくぶーたれた表情をしてみせて、
俺はそれだけのためにここに来てるようなもんだったのに。

まさか、と、思った。
例えばそれは、閉館間際、居座るオレを通り過ぎてカウンター奥に引っ込んじまったこと。
細い右手の人差し指、くるくる回っていた鍵。
うなだれたみたいに、彼女の左手から下がっていたこと、とか。



それが確信に変わるまで、さほど時間はかからなかった。
曖昧なことはあんまり好きになれなくて、閉館時間ぴったり、手近にあった本を一冊。
手にとって、カウンターに置いたときだった。

「学生証、お願いします」

俺が口を開くより先。
事務的な声が、容赦なく俺を拒絶した。
間違いない、彼女は俺を、遠ざけている。



こんなつもりじゃなかった、なんて、今更言ったってもうどうしようもないけど。
傷つけるつもりなんてなかった。
そりゃ、好き勝手振舞ったりはしていたけれど、
それでもいつだって、笑ってくれたらいいって、少しでも幸せな気分になってくれたらいいって、そう思っていた。
彼女が嫌な思いをすることがあれば、そのときは、できる限りをしたいって。

その結果がこれ、なんて、なんだよもう。彼女の言うとおり。
本当に、ばっかじゃん。
これじゃ、嫌な思いをさせたのは俺。
仕事でも、友達でもない。誰でもない、俺じゃんか。

今までなら、迷うことなく向けることができた視線。
伸ばした、手。
今、意識して遠ざかろうとする彼女に、俺の中、初めて迷いが、生まれる。
一度も目を合わせることなく、渡された本に。
用意していたいくつもの言葉が、硬く、硬く凍りついた。










なにもできないまま、1週間がすぎようとしていた。
どうしたもんだろう、と、図書館で過ごす時間は実にあっさり、それ以外の時間はじらすようにもどかしく流れていく。
暇のつぶし方、面倒なことのやり過ごし方。
女の忘れ方、恋の終わり方、どれも知った気でいたけど、今回ばかりは太刀打ちできなかった。
誘われた合コンも、言い寄ってきた女も、どれも相手にする気にはなれなかった。

「櫻井」
「…あ、真咲」

講義の合間の3時過ぎ、暇つぶしに中庭で雑誌をぱらぱらとめくっているときだった。
聞きなれたその声に、雑誌を閉じずに視線だけを上げると、悪友の真咲が立っていた。
真咲は、ちょっと怒ったような、呆れたような顔をしている。
どうやらなにか、文句があるらしい。

「櫻井、おまえなあ、かくれんぼってどういう風の吹き回しだよ?」

ああ、かくれんぼ、と、呟いて視線を手元に戻した。
かくれんぼ――俺の今の精一杯、暇つぶしの一つ。
色気のあること、面倒なことはしたくなくて、でもどうしようもなく、一人にもなりたくなくて、
昨日の昼休み、真咲と由真ちゃんを巻き込んで、俺はその実行を決めた。

「別に、風の吹き回しもなにも、楽しいかなあと思って」

曖昧にそう答えると、真咲は声を堅くした。「ふざけんな」
にしし、と笑って見せたら、ため息が一つ、返ってきた。

「何があったんだよ?」
「…なんも」
「嘘つけ。おまえがオレを巻き込むときって、決まってなんかあったときじゃねえか。良くも悪くも」

するどい指摘に、ちっ、と、舌打ちを一つ。
真咲は相変わらず、嫌な奴だ。オレがすごく苦手なタイプ。
目ざとくて、鋭くて、だけど底抜けに鈍感で。
肝心な隠し事は見通すくせに、わざと漂わせている触れて欲しくないオーラには気づかない。
唯一、負けるしかない相手。
避けられそうにない面倒なことに、仕方なく「…悪いことだよ」と呟けば、真咲は俺の隣に腰をおろした。
そして、間髪いれずに言葉を投げてくる。

「図書館がらみか?」
「…うるせえよ、お前」
「荒れてんなあ」
「アニキ面すんじゃねえよ真咲。マジむかつく」
「そんなんじゃねえよ」

隣で真咲が、はは、と笑う。
そんな風に、笑うだけで、それ以上、何も追求しないから。
追求しないくせに、隣でのんきに空なんて見てるから。
俺はうつむいて、足元を見た。
すさんだ色の敷石の隙間を、意味なく視線でたどったりした。





真咲は嫌な奴で、そして何より、不思議な奴だ、と思う。
こうして思考に沈む俺の隣、当たり前みたいに座って。
ずかずかと踏み込むようなまねするくせに、威圧感はない。
多分、魚釣りは下手なタイプなんじゃないかと思う。
勢い良くえさを投げるくせに、そこに魚が食いつかなくてもイライラしないタイプ、っつーか。
きっかけを作って、そして、待てる奴。

会ったころからこういう奴だったけど、最近、それに余裕が加わってますますデカく見えるから腹が立つ。
のんきな真咲の横顔に、虚勢を張っている自分が小さく思えるから。
苛立ちに地面を小さく蹴ってから、こわばる口元を、なけなしの力で開いてみた。

「…避けられてる」

弱みそのもの、みたいな声。
でも真咲は、笑わなかった。「ふーん」、と、相槌を一つ。
おかげで、次の言葉は今よりもすんなりと、俺の喉を離れていきそうな気がした。

「バカみてえ、俺、4年もかかって、必死になって口説いて。食事だけで舞い上がって」
「うん」
「脈ある、と、思った」
「うん」
「どんなに遠回りしても、死ぬときに隣にいるのはあの人だ、なんて」

何度も、何度も考えたことを、口に出してみる。
まるで、足元に広がるこの敷石のように、似たようなこと。
繰り返し、飽きることなく考えていたことを、一つずつ。

「頭ん中で、いつも彼女は笑ってた」
「うん」
「この話をしたら、きっと声を上げて笑うだろうな、とか。
 美味いもん食ったとき、これをあの人が食ったら、こんな顔で笑うだろうな、とか」
「うん」
「中坊みたいに、想像ん中、あの人にキスしたり、あの人を抱いたり…そんなん、最低だけど。
 だけど、そのフィクションの中、めちゃくちゃなことしても、それでもあの人、いつでも、」
「…」
「…いつでも、笑ってた。実際に会ってみれば、わざとらしいほど仏頂面してんのに、なんでだろな」

敷石に、黒いしみが一つ。
なんだろう?空を仰ぐ。
そこには青空が広がっていて、落ちてくるものはなにもない。

(――目に痛いほどの、青。)

そう思った瞬間に、風が頬を撫でた。
すーすーした。
気がついた。俺は今、泣いている。

「櫻井、」
「バカだ、俺、彼女が笑ってるなんてそんなの、俺のただの――」

語尾が、涙に飲み込まれる。
俺が言いたいのは、続けるはずだった言葉は、そう、ただの。



ただの、願望。



「悪い、一人にして」、と、足元、視線を落として呟けば、隣の気配が立ち上がるのを感じた。
そして、一歩、二歩と、その影は遠ざかっていく。
いくつもの敷石を、簡単にまたぐように、飛び越えるようにしながら。

「櫻井」

顔は上げなかった。
上げられなかった。涙は格好悪いと思ったから。

「櫻井、おまえ、前に言ってたよな?革命的な恋愛だ、って」

黙っている俺にかまわず、真咲は続ける。
多分背中を向けたままなんだろう、と思った。

「そんとき、思ったんだ。革命って、お前にとっての?それとも、相手のため?」

真咲は言う。
オレ、思うんだけど。

「好きな奴を笑わせたいって思うことの、何が悪いんだよ?」

何が悪い?
真咲の言葉を考えた。たっぷりと。
足元にいくつものしみを残す涙を見ながら、繰り返し、考えた。



笑って欲しい。
誰のため?
誰の何を、変えたいと思った?

(――好きだ。)

答えは、きっと簡単なんだ。
革命が起こるとき、決まって同時に、英雄が誕生した。
俺はきっと、英雄になりたかった。
彼女にとっての。
彼女の、ための。



(好きだ。好きだ好きだ。どうしようもなく、好きだ)



幸せになって欲しい。
だから、俺を見て欲しいと思った。
俺の気持ちを、分かって欲しい、と思った。






幸せにしたい、と。
そう、思ったんだ。






まさき、と、顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。
なんだよ、と、口を曲げる。
ふと隣に視線をやれば、餞別、とでも言いたげに、カフェオレが一つ。

嫌味な奴。
甘党なのに、コーヒーはなぜかブラックしか飲まない真咲が、カフェオレ、なんて。
最初から励ますつもりでここに来たんじゃんか。
今までは、由真ちゃんのことでどうしようどうしようって、しょっちゅう眉寄せてたくせに、
なんだよ、なんなんだよ、余裕こきやがって。

「ちくしょ…ムカツク。かき回してやんぞ」

負け犬の遠吠えみたいな独り言をもらして、カフェオレのプルトップを引き上げる。
ぐっと飲み干す。涙も、一緒に。
きっと、揺るがない。かき回したって。
真咲と由真ちゃんの空気は確かなもので、だから真咲はでかくなって、いつの間にか俺を追い越して。

「マジで、ムカツク」

俺だって、揺らぐ、もんか。
痛くても、辛くても、そんなん、きっと全部革命のためで。
俺はきっと、英雄になってやんだから。





空き缶を、ゴミ箱にシュートする。
迷いなく、吸い込まれるように放物線を書いたそれが、着地すると同時。






俺は、彼女に向かって走り出す。






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※どこまで続くのこれ…。
 いや、きっと次回で完結です。すみませんこんな微妙なのを長々と…。