沈黙が痛い。
テーブルを挟んで向かい合う志波くんの視線はどこまでも真っ直ぐで、だから私は顔を上げることができない。
窓の外は悔しいくらいの快晴で、白地の薄いカーテンたまに、春風にふわりと揺れる。
暖かい日なのに。
どうしてだろう、この部屋の温度はやけに冷たい気がする。



志波くんの声が、私の名前を呼ぶ。
硬い、厳しいその声に、私はさっきから反応することができないまま。
嫌になる。
何度も沈黙を中断してくれるその声にすら返事をすることができない、私の意気地のなさが。
これじゃだめだと分かっているのに、何もできていない自分が。



志波くんとケンカをした。原因は分かっている。
私のくだらない、嫉妬のせいだ。






【それでも、きみが】






だんまりを決め込む私の頭の上、志波くんの深いため息が重く通り抜けた。
楽しく過ごすはずだった休日。
こんなふうになってしまったことの次第を、手元のテーブルのふちを視線でたどりながら考える。



志波くんの部屋に着いたのは、今から2時間とちょっと前。
今まではどうしようもなく緊張したこの場所も、付き合って2ヶ月になる最近ではだんだん寛げる場所に変わってきて、
一人で来た私を『今日は暖かいな』と迎え入れてくれた志波くんに、私はほっとして、どうしようもなく幸せな気分になったりして。
いかにも女の子なものを置くとたまに来る部活の奴らにからかわれるからと、そっけない黄緑色を選んで買ってきた私専用のマグカップに、
志波くんが緑茶を注ぐから、なんだかおかしくて笑いながら緑茶をすすっていた。

きっかけは、そう、そのカップを私が洗っている間に鳴った、志波くんの携帯電話。
珍しいな、と思った。
だってまだ恋人になる前、高校生だった頃は、彼が携帯電話をいじっているのなんて見たことがなかったのに。
志波くんの人付き合いは、私が知る限りでは少し物足りなく感じられるほどあっさりしていて、
だから、「悪い、ちょっといいか?」と、私が頷くのを確認して電話に出た志波くんに私は少し驚いた。

聞き耳を立てていたわけじゃないけれど、 気になってしまったのは確かだし、
こんな風に二人きりで彼の部屋の中、どうしたって私の意識は志波くんに向いてしまって。
私の耳に届く、志波くんの低い声。
それは、私の知らないたくさんの名前を呼んで、そしてたまに、楽しそうな息を漏らした。



洗い物を終えて居間に戻ると、彼の濃紺の携帯電話は何もなかったみたいにテーブルの上に置かれていた。
やっぱり、あまり使っていないんだろう。
傷一つ見当たらないそれは、窓から入る光にきらりと反射していた。

「大学の友達?」

もちろん、疑っていたわけじゃない。
何気ない、会話の一つとして私は彼にそう尋ねた。
彼ももちろん、そんな私の言葉に違和感を持つ様子もなく、「ああ、部活の」と、返事をしてくれた。

ここまでは、私は何も間違えていなかった。
問題は、このあとにあったのだ。

「たくさん、友達できた?」
「ああ……まあ、それなり。高校んときと、あんまり変わんねえな」
「そっか。なんか、志波くんが電話なんてちょっと珍しいなーと思っちゃった」
「そうか?」
「うん、あんまりいじってるのも喋ってるのも、見かけなかったから」
「まあ、あんまり自分からはしねえな。かけてくる奴も、少ないしな」
「じゃあ、良かったね。仲いい人ができて」
「いや、ただのマネージャーだ」

彼の一言が、私の思考にひっかかってしまった。
“マネージャー”という、その一言が。
どくり、と心臓が嫌な音を立てて、私は思わず小さく息を飲んだ。
きっとそんなんじゃない。
私が今、咄嗟に考えてしまった心配ごとはきっと的外れなのに、それなのに、私は。
聞かずには、いられなかった。
鬱陶しいからやめなきゃ、みっともないから我慢しなきゃと頭のどこかが警告するのに。
私はうっかり、口を開いてしまった。



「……それって、女の子?」



こうなってしまえば、ぜんぶが止まれなくなることを、私は知っていた。
バカみたいに、拗ねて、疑って、勝手に不安になって。
私は不器用だ。
溢れてしまった感情を、止める方法がよく分からない。

「ああ、今かけてきた奴は女だ」
「そ、っか」

笑おうと思った。笑って「部活、楽しい?」って、そう言えばいいことは分かっていた。
でも、できなかった。
どうやっても眉間に少し力が入ってしまって、笑おうと思って力をこめた口角も、ぎゅっと硬くなるだけ。
咄嗟に下を向いた。
彼を、真っ直ぐ見ることができなかった。

「……?」
「部活、女の子もいるよね」
「ああ、まあ」

男子部だから選手はいないけどなと、そんな風にとぼけて見せた彼の言葉にすら、うまく笑えない。
だって、女の子と笑って電話で話す志波くんを、私は知らない。
いつもどおりみたいに話していたけれど、分かる。志波くんは楽しそうだった。
私が知らない何人もの名前、その合間に、小さな小さな笑顔。声にはならないけれど、息に笑みが混じっていた。

「もしかして、、」
「……え?」

寂しかった。 こうして、新しい生活の色に染まり始めている志波くんが。
まるで私と一緒に過ごした今までの生活が、もう昔のことなんだって言われているみたいで。
なんだかすごく、寂しかったんだ。

「妬いたか?」

彼のからかうみたいな一言が。
妙に無神経に思えて、私は。

「ち、違っ……! そんなんじゃ、ない、よ」

少し荒げてしまった私の声に 驚いた志波くんが、わずかに目を見開いたのが合図。
私たちの間に、沈黙が流れ始めた。
そして今に至る、ということに、なる。






聞きたいことは、聞けばいい。
嫌なことは嫌と伝えればいいし、寂しければ寂しいと、欲しければ欲しいと言えばいい。
簡単なことなのだ。
それなのに、私は小さい頃から、そんな簡単なことがとても苦手だ。

今も。
言えばよかったのかな、なんだか寂しかった、って。
どんな用事だったの、って、聞いちゃえばよかったのかな。

(できるわけ、ない)

だって、そんなの。
どう考えても面倒くさい彼女、だし。

じゃあ、どうすればよかった?
何もなかったみたいに笑って、そっか、って、そう言えばよかった?
そんなの、できることなら、そうしてた。
笑おうと思ったのに、それなのにどうしてもうまくいかなくて、だから私はうつむくしかなくて。

、なにを怒ってんだ?」

私は、何を? 何を怒ってる?
ううん、違う。怒ってるんじゃない。
私はただ、どうしていいか分からなくて。
だって、こうして視線を、言葉を向けられても、返すものは何一つ生まれてこない。
のろまな私の思考は、うまく、働かない。



「おい」、と。
もどかしそうに押し出された彼の声が私の意識を捉えて、そして次の瞬間、腕を、掴まれた。

「とりあえず、こっち向け」

彼がちょっと力をこめれば私の体の向きは簡単に変わってしまって。
涙が出る。
向き合う心の準備なんて、まだできていなかったのに。

、おまえ、なに泣いて……」
「……なして」

混乱した。
自分がどうしたいのか分からなくて、何を言ったら伝わるのか、何を伝えたいのか。
何も分からない。私は、何も。

「は、なして……っ」

咄嗟に振り払ってしまった、彼の大きな大きな手。
それでも、ぶつかった視線が、どこまでも真っ直ぐだから。

「ご、めんなさい」


視線をそらした。
そして手元にあった鞄をぎゅっと握って、あとはもう、衝動、だった。



「帰る、ね」



背中に声が聞こえたけれど、振り返れなかった。
扉の向こうは快晴だったけれど。
やっぱりなぜか、冷たさを感じた。






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