一人暮らしの玄関の扉を閉めると同時に、涙が頬に、一筋の道を作る。
真っ暗な部屋の中、響くのは私の鼻をすする音だけで、それを聞いていたら余計に心細くなった。
へたりこんだ、私の足元。
床がとても冷たいのを、慣れないストッキングごしに感じた。

(……だめ、だ。これじゃ、だめ)

最近の私の口癖を、心の中で3回唱えて。
壁に手をついて、身を起こす。
冷え切った指先でスイッチを押すと、部屋の中が照らされ、その眩しさに思わず目をしかめた。






【夜明け前・1】






就職試験が始まって、もう2ヶ月が過ぎようとしていた。
長いと思っていた大学生活も残すところ1年とちょっとで、私はまた、岐路に立たされてしまった。
就職、という岐路。
今日も、面接試験を受けに行った。
結果は後日と言われたけれど、我ながら散々な受け答えで、どう考えても落ちるのだろうと思ってしまう。
試験ももう3度目になるけれど、いつまで経っても慣れることなんてなかった。
緊張の中、口に出せたのは用意していた言葉の10分の1にも満たない。
志望動機なんて、もう、めちゃくちゃだった。

何をしたいのかなんて、分からない。
意志の弱い私は、何かを選べと言われるとどうも立ちすくんでしまう。
大学に入る時だって、そうだった。
周りが次々と進路を決める中、私はどこを選んだらいいのか分からずに、 何度も何度も、分厚い大学案内のファイルを行ったりきたりして。
結局、そこから引き抜いた1ページは、選んだ、というよりも、いくつかを切り捨てて残ったもの。

もっと考えれば、他の選択肢もあったのかもしれないけれど、私にはその時間がなかった。
いつも答えにたどり着く前に、タイムリミットがきてしまうのだ。
今回の就職試験も、私の心構えができないまま、気がついたら始まってしまっていた。
なんとかスタートの合図と同時に始めることはできたけれど、でも、分からないのだ。
志望動機とか、長所とか短所とか、大学でしてきたこと、とか。
胸を張って言えるようなことはなくて、だからただ毎回、こうして自分のダメさを思い知って終わるだけになってしまうのだ。



どうして、と、思う。
どうして走るのが遅いくせに、スタートの合図と同時に足を前に出せないんだろう。
どうして高く飛べないのに、思い切り踏み切れないんだろう。
どうして、どうして、どうして。

泣いたって、仕方ない。
泣いているくらいなら、もっと頑張らなくちゃダメなんだ。
人より、できないんだから。
人より遅いんだから、人より不器用なんだから、だから、もっと、もっと――

(だめ。これじゃ、このままじゃ、全然だめ)

慣れないスーツは肩がこる。
むくんだ足に力をこめて、脱衣所に向かう。
早く、お風呂に入ろう。
今日のことは洗い流して、また明日からのことを考えなくちゃ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ぐっと手の甲でぬぐった。
脱いだスーツをベットの上に放り投げ、たどり着いた脱衣所でシャツと下着を洗濯機に放り込む。
そして、浴室に入って、シャワーの蛇口をぎゅっと捻った。

(志波くんは、もっと、頑張っているんだから。頑張らなきゃ、だめ)

熱いお湯を頭からかぶりながら、私は付き合っている彼のことを思い出していた。
ここから電車で数時間離れた場所にある、一流体育大学に通う志波くん。
彼はプロ野球選手を目指して、必死に頑張っている。
私は、そんな志波くんが大好きだ。
大好きだ……から、考えてしまう。
彼と自分を比べてしまう。対等になりたいと、そう思ってしまう。

(このままじゃ、似合わない。置いていかれちゃう)

ダメだ、もっともっと、と。
心の中で、必死に自分を奮い立たせながら、私はシャワーを一身に浴びた。






お風呂から上がって鏡を見ると、酷い顔をした自分と目があった。
貼れたまぶた、充血した目、疲れきった目の下のくま。
情けなさにイライラしながらローションを叩き込んでいると、居間から携帯電話の音が聞こえた。
その音楽で、電話をかけてきた人が志波くんだということがすぐに分かった。
洗っておいた薄手の長袖をかぶり、急いで部屋に戻り携帯電話を手に取った。
でも、通話ボタンを押そうとして、はっと思いとどまる。
あれだけ泣いた後だ。私の声はしゃがれているかもしれない。
咳払いを一つしてからボタンを押し、落ち込んでいることを悟られないように、慎重に声を出した。

「も、もしもし」
『オレ』
「うん。今日の練習、終わったの?」
『ああ』
「お疲れ様」

いつもどおりの志波くんの声が、ぽつりぽつりと受話器越しに聞こえてくる。
どうやら、普通に話せていたようで、私はほっとした。

『今日、就職試験だったんだよな』

その言葉に、ぐっと息を飲む。
そして気づかれないように、小さく深呼吸してから返事をした。

「……うん」
『お疲れ。緊張したか?』
「うん」

そうか、と。
志波くんは私をねぎらうように、癒すように声を漏らす。
その低い、穏やかな声に私はその場にへたり込んだ。
ゆるゆると力が抜けていく全身に、今日1日、どれだけ自分が張り詰めていたのかを実感した。

『大変だったな』
「ううん。志波くんに比べれば、全然だよ」
『……え?』
「志波くん、本当に頑張ってるもん。私なんて……」

気丈に振舞うはずだったのに。
ふっと心を緩ませた私の声は沈んでいて、その上卑屈な言葉をこぼしてしまって。
その様子に反応したみたいに、電話口の相槌がぴたりと止んだ。
しまった、と、そう気がついて、取り繕うための言葉を探したけれど、それは簡単に見つからない。
こんなところでも不器用で、私は私に嫌気がさした。
変な心配をかけたくないのに。
私にとって今が大事な時期なのと同じ、志波くんだって、大事な大事な時期なのに。
同い年の私たちは、場所は違うけれど、人生の岐路に立っているのに。

もう、志波くんと恋人の付き合いをはじめて2年とちょっと、出会ってからは、6年近くになる。
彼は、私のことをとても理解してくれていて、私の一挙一動にとても敏感だ。
同じように、私も。
志波くんのことはだいぶ分かるようになって、彼の思考が、なんとなく見えてしまう。
いつだって、彼は私を心配してくれている。
だから。こんな沈んだ声を出したら、卑屈な言葉をこぼしてしまったら、私が落ち込んでいることなんてすぐにばれてしまうのに。
まだ、外なんだろうか。
ざわざわと外の音がする受話器の向こうが気になって、私は「あの……」と、とりあえず声を出す。
すると、ふっと息を吐く小さな気配の後、志波くんはとがめるみたいに私の名前を呼んだ。



なに?、と。
恐る恐る返事を返すと、部屋のチャイムが鳴った。
私は慌てて、玄関と耳に当てている携帯の間、意識を行ったりきたりさせる。
「あ、ごめん、その……」と、無意識に言いながら立ち上がると、志波くんは『こんな時間に来客か?』と呟いた。

「うん、あの、誰だろ。ごめん、ちょっと」
『いい、出ろ。ちゃんと確認してからドア開けろよ』

こんなときにまで、なんて彼は優しいんだろう。どうしてこんな風に、自然に心配してくれるんだろう。
「じゃあ、またかけなおす……」そう言いながら、私は玄関の扉の覗き穴を見た。
瞬間、私は電話を切ることも忘れて、まるで引き寄せられるようにドアを開けてしまった。
だって、そこに立っていたのは。

「ちゃんと確認しろって、言っただろ」
「志波くん」

遠くにいるはずの、大好きな彼だったから。
来るなんて、言ってなかったのに。
今日、私は就職試験で、志波くんだって野球の練習があって、暇じゃないはずで。
私が目を白黒させていると、彼は耳から電話を外した。

「ど、どどうしたの?!」

携帯を耳に当てたまま、そう言った私を見て、志波くんはかすかに笑った。
そして、自分の耳をとんとん、と指でたたく。
私は自分の耳を触ろうとして、そこでやっと携帯に気がついた。
手を下ろし、電話を切る。

「……に、会いに来た」

まだ状況が飲み込めないまま、「と、とりあえず上がって」と玄関を大きく開く。
すると、ふっと冷たい空気を感じて、私は気がついた。
そういえば、お風呂上りだったんだ。
髪はびしょびしょだし、部屋着すらきちっと着ていない。
私は彼を部屋の中に通すと、「ちょっと待ってて」と、慌てて洗面台のある脱衣所に駆け込んだ。






髪の毛をざっと乾かした。
服はどうしようかと迷ったけれど、急に着替えるのも変だから上にパーカーを羽織るだけにした。
久しぶりに会うんだから、もっとちゃんとした格好のときに会いたかったのに。
お風呂上りに化粧をするのもはばかられて、私はそのまま部屋に戻った。
志波くんはテレビもつけずに、テーブルの前にあぐらをかいて座っていた。

「ご、ごめんね! 今、飲み物……あ、コーヒーでいい?」
「ああ、悪い」

スリッパをつっかけて、キッチンに向かう。
棚に置いてある志波くん用のカップに、インスタントのブラックコーヒーを淹れる。
お湯を注ぐと、香りがふわりと鼻先を掠めて、私は今日の就職試験を思い出した。
会場だったオフィスの会議室は、コーヒーの香りが染み付いているようだった。
なんだかコーヒーを飲む気になれなくて、自分用にはココアを入れた。

「急だから、ビックリしたよ」

テーブルにカップを二つ置いて、私も座った。
志波くんは「サンキュ」と呟いて、コーヒーに口をつけた。

「どうしたの?」
「それは、オレが聞きたいんだが」
「……え?」
「さっきの、“私なんて”って、何があった?」

コトン、と、小さな音をたてて、志波くんの手からカップが離れた。
そして、彼は私の顔を覗き込むように背を丸めた。
その視線は真っ直ぐで、強くて。
私は情けない自分を見透かされている気がして、うつむいた。
知られたくなかった。
落ち込んでいること、悩んでいること、何をすればいいか分からないこと、何をしたいか分からないこと。
自分の意思で自分の道を決めて、それに向けて頑張っている志波くんには、知られたくなかった。

「ちょっと、疲れてるだけだよ」

無理のある言い訳だということは十分わかっていたけれど、他に何も言葉がみつからなかった。
顔を上げない私のつむじに、志波くんのため息が振ってくる。
言葉じゃないけど、分かる。私の言い訳が彼に通用しなかったことを、そのため息は知らせていた。

「……ごめん」
「いや」

ぽつり、ぽつりと浮かんでは、そこから繋がらない会話。
今は、会うべきじゃなかったのかもしれないなんて、来てくれた志波くんには申し訳ないことを頭の隅で考える。
そりゃ、大学の同級生カップルの中には、一緒に会社説明会に行って、一緒に就職試験を受けている人たちもいるけれど、
私たちの付き合いは、最初からずっと、そういうものではなかったから。
励ましあうことはあっても、お互いの決断に入り込むような付き合いはしていなかった。
それは、志波くんが人一倍意思の強い人だからという理由もあったし、私が極端にマイペースだからという理由もあった。
でも、今の私は何を言われても、自分の弱さをさらけ出すような皮肉の言葉しか返せない気がしたから。
それは、私たちの付き合いのバランスを欠く原因になるだろうし、
何より、ちゃんと自分の道を見つけてそこを歩いている志波くんに、情けない私を見られたくないという私自身ののプライドもあった。
今、私たちは一緒にいて、大丈夫なんだろうか。

「志波くん、あの、明日部活は……?」

とにかく話題をそらそうと、私は自分のカップを持ち上げながら問いかけた。
察したのだろうか。
志波くんは眉間のしわをすっと伸ばして、「ああ」と私の問いに答える姿勢を見せた。
思わず心の中で、ほっと息をついてしまう。

「急に、グラウンド整備入るってことになって。明日は久しぶりに休み」
「そっか。じゃあ、泊まってく?」
「ああ……は?」
「え?」
「明日、土曜だけど。暇か?」
「あ、うん、明日は暇だよ」
「じゃあ、久しぶりに、どこか行くか」
「うん」

ふわり、と。
微笑んだ志波くんに微笑み返して、私は彼にお風呂をすすめた。
時計の短針はもう、11時に重なろうとしている。
彼は素直に立ち上がって、バスルームに向かった。



一人になった部屋で、私はたまに泊まっていく彼用の着替えを、引き出しから取り出した。
そしてタオルも、と、立ち上がったところで、ベッドの上のクルートスーツが目に入った。
さっき、帰ってきた私が、泣きながら投げたものだ。

(志波くんに、見られちゃったかな……)

脱衣所に、そっと着替えとタオルを置いてから、ベッドの上のリクルートスーツを片付けた。
情けない。
本当に、私は何をしているんだろう。
どうして、前へ進めないんだろう。
……ううん、違う。

どうして、前がどっちだか、分からないんだろう。

バスルームから、ざあっとシャワーの音が聞こえたのと同時。
条件反射みたいに零れた涙を、私はぐっとぬぐった。






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