何を好んで、あんなに苦そうなものを。
何が悲しくて、あんなに臭いものを。
煙草を吸う人の気が知れないと思っていた。
何かに依存する人ような人は弱い人間だと思っていたし、それはすごく情けないことだと思っていた。

私はそんな風になりたくなかったし、まさかなるなんて考えてみたこともなかった。

でも、もし、自分がそうなってしまったら。
私はどんな言い訳を並べればいいんだろう。






【分かっているのに止められない】






開店前の控え室で。裏口で。
あるいは、閉店後のカウンター越しに。
そして、ごくたまに営業中、隠れるように倉庫での中で。
最近の私と姫条さんは、何度も何度も吐息を送りあっている。
ときにはむさぼるように熱く、ときには突き放すように冷たく。



それは、私が姫条さんに言った一言から始まった。

「煙草を吸いたくなったら、私にキスして下さい」

鼻で笑って軽くかわされると思った私の提案は、案外すんなり受け入れられて。
姫条さんは驚いたようにひゅっと息を吸って、すぐにやんわりと口角を上げた。

「ええね、それ」

あまりにも優しすぎる声と笑顔が少し怖かった。
姫条さんに適わないことくらい、最初から分かっているから。
自分で仕掛けた罠が、自分の足にひっかかるなんてまぬけなことこの上ない。
それでも目をそらすまいと必死で耐えるのは、私が彼を好きでたまらないという証拠だと思う。

「いつでもいいです。朝でも昼でも夜でも。呼んでくれれば、できる限りすぐ駆けつけます」
「なに、口淋しいからきてーって言えばええの?」
「はい。24時間体制です」

堅く、堅くこぶしを握って言い切ったら、彼は私の髪の毛に手を差し込んで、
「それは、ジブンのちゅーが煙草より魅力的やっちゅー自信があると理解してええか?」
そう言ってすぐに、私に口付けた。

「そうなれるように、努力、します」

キスの合間に途切れ途切れにそう伝えると、彼は鼻で笑った。「まだまだやんな」
けれど、今こうして、一日に数十回と呼吸を送りあっていることを考えると、彼の毒抜きにわずかながら貢献できてるんじゃないかと思う。
そう思いたいだけなのかも知れないけれど。
少なくとも、私の前で吸う煙草の本数は、確実に減っている。






扉にかかる札を「open」から「close」に返し、カーテンを引く。
カウンターでは姫条さんが今日の伝票を整理していて、私はその背後で2つしかないテーブル席の後片付けをしている。

閉店後のここは、とても不思議な場所だと思う。
営業中は間接照明が薄暗く、音楽もわずかなボリュームでささやか。
静かで、ほの暗い空間なのに。
閉店すると、姫条さんは事務処理のために照明を明るく調節し、音楽のボリュームを上げる。
異世界のようだった店内は、たちまちに現実感を取り戻し、時間と空気が忙しく流れていく感じがする。

「なんだか、夢から覚めたって感じがする。いつも」

椅子をテーブルの上に上げながら姫条さんにそう漏らすと、彼はハハハと笑う。
頬杖をつくようにしている姫条さんの肩はややいかり肩で、やっぱりとても美しい形をしていると、私は見惚れてしまう。

「そらそやろ。営業中のバーは夢やもん。夢の世界を演出する仕事やと思っとるし」
「うーん…その分、なんか味気ないですよね、閉めちゃったあとって」
「まぁな。でも、俺はあんまり薄暗いの好かんわ」
「え、意外。そうなんですか?」
「ああ。明るいほうがええ。ちゃんと、お天道様の下で物事考えんと、ロクなことにならんよ」
「なんか分かります。暗いところにいると、鬱々としますよね」
「ああ、タバコばっかり欲しゅうなって、適わんわ」
「…それはいつもじゃないですか」

バレとる、と姫条さんはぼやきながら、電卓をたたく。
でもこの時間、以前の姫条さんなら必ず口に煙草を加えていたのに。
今、それはなくなって、代わりに左手の近くに水の入ったグラスが置かれている。
やっぱり、吸ってる本数は確実に減ってきている気がする。

「姫条さん、煙草少なくなりました?」

キッチンに入り、流しの掃除にかかりながら尋ねる。
姫条さんは相変わらず目は伝票に、右手は電卓に、左手はコップの傍に置きながら、うーん?と生返事をする。

「前より吸殻減った気がします」
「そらそやろ。煙草吸ってんのジブンに見つかると、すぐにもみ消して噛み付いてくるやん」
「噛み付くって! 毒抜きですってば」
「あはは、まだ言っとるんか。でもまあ、ええ感じになってきたな」
「は?」
「キス」

伝票から上げられた視線は、スラッと射抜くように伸びてくる。
そして私は息を飲む。
来た。
これは、姫条さんの、“欲しい”のサイン。
彼は私と吐息を交わす前に、必ずこのような視線を私に送る。

「思ったより、成長しとるよ。なかなか気持ちええ」

カウンターの中で私が固まっていると、彼はさも面白そうにニヤニヤと笑い出す。
からかうように。遊ぶように。
無遠慮な視線を投げかける。

「けど、依存するほどやないな。タバコみたいに、欲しゅうてたまらん気分にはならへんわ」

姫条さんは立ち上がり、カウンター越しに手を伸ばす。
そして、私の後頭部にその大きな手のひらを添えて、ぐんっと引いた。
相変わらず彼は秘密主義のミステリアスだけど、この短期間で一つ分かったことがある。
それは、キスの前。
姫条さんは髪の毛に指を差し込むようにして、大きな手のひらで頭を包むという癖。
今日ももちろん、姫条さんのその仕草で、私の顔は姫条さんの目の前数センチの場所まで動かされる。

「な、タバコ欲しくなってきた」
「……ダメですよ」
「じゃあほら、することあるやん?」

触れる直前で止められた唇が、いたずらに言葉をつむぐ。
私は少し背伸びをして、その動く唇を自分の唇でぐっと押した。
今日のキスは、熱いほうのキスだった。
私がちょっと触れた瞬間に、彼は私をこじあけて動き回る。
彼の吐息はやっぱり苦くて、私は息継ぎをしようと思ったけれど、それは簡単には許されなかった。
視界は暗転し、耳の奥では吐息とも口の中の摩擦音ともつかぬ音が低く唸る。

まるで、夢の中みたいだと思う。
さっき彼が言っていた、お天道様の届かない場所。作り出された夢の中。
ここでは、外界の温度も手触りも空気も、全て遮断されて。
ただひたすらに酔ってしまう。彼の温度に、触感に、呼吸に。



目じりにたまった涙がふちから溢れてこぼれたとき。
彼はやっと、私に呼吸を許した。

「な、どっちやと思う?」

こぼれた私の涙を少しがさついた親指で手荒にぬぐいながら、姫条さんは言う。
こういうときに実感する。
私たちの関係は、決して優しくし合うものではない。そんな暖かいものではないことを。

「今のキスに溺れとるんは、オレ? それともジブン?」

まだ荒れる呼吸の中、私はつぶやく。「…私」
姫条さんは口の端を上げて笑い、また伝票の整理をはじめる。

「まだオレが勝っとるな。オレがタバコに依存してるみたいに、



 …オレとのキスに依存しとるやろ?」



黙っていると、ぽつりと聞こえた。
「何度も言うけど、オレは毒やから」と。
窓から差し込む太陽の光が、私の熱にうかされた思考に現実を注いでいく。

そう、彼の煙草は少ししか減っていないけれど、私の中で、彼とのキスへの依存心は日増しに大きくなっている。

煙草を吸う人の気が知れなかった。
何かに、ましてやなんの特にもならない煙草に依存する気持ちなんて分からないし、分かりたくもなかった。
でも、今ならちょっと分かる。
それなしには生きていけないという気持ち。
自分にとって良くないと分かっていながら止められない衝動。もしくは惰性。

だって、私が今恐れているのは、姫条さんの毒が抜けないことじゃない。
私から姫条さんの吐息を取り上げられること。
あんなに苦く、苦しかった彼の呼吸も、今では私の身体にじわじわと染み込んでいく。



目の前の姫条さんが、ポケットから煙草を取り出したのを見た。
私はとっさに身を乗り出して手を伸ばし、それを取り上げる。
そして客席側に回り込んで、姫条さんの口に噛み付く。

「ダメですってば」

顔を離してそう言うと、彼は顔をゆがめて笑った。

「分かっとるよ。それでも止められへん。もうずっと前から」

それは私も同じ。
姫条さんに出会った瞬間に、もう分かっていた。
彼の毒は強く、しぶとい。
彼にはきっと、勝つことなんてできない。
それでも。

「…止めさせてみせます。だから、」

私は手を伸ばせば届く位置にある窓を、手探りで開けた。
そしてそこから大きく息を吸い込んで、彼の口に吹き込む。

「たまにはお日様の下で、キスしてみませんか?」

私の言葉に。
姫条さんはなぜか、少し切なく顔をゆがめていた。






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