いつでも、逃げ道を作っていた。
きっと、怖かったのだ。
寄りかかってしまったら、もう二度と、あなたなしで立つことができなくなってしまいそうで。
支えてもらってしまったら、笑えなくなって、しまいそうで。

私は、とても。とてもあなたに、臆病。
それは。
きっとあなたを、悲しいくらいに大好きだから、なんだ。






【08 怖くなったら逃げなさい・1】






隣に座る大きな手の小指が、私の手の甲をわずかにかすめたから、座りなおすふりをして、少しだけ私たちの間を開けた。
瞬間、視界の端、右の髪の毛がふわりと揺れる。
その、彼の動きが私の様子を伺っているみたいだったから、不自然だったかなと、少しぎくりとした。

「なー、明里?」
「はい?」

声だけで、返事をして。
隣の表情が気になるくせに、手もとの雑誌から視線が上げられない。
今もし、ぶつかる視線のその先に、怪訝に寄せられた眉がちらりとでも見えてしまったら、私はまた、疑ってしまうのだろうと思うから。

「…あのさ、」
「はい」
「あーの、な。…うーん」
「なんですか?」
「ん…あー、ごめん、やっぱなんでもねえ」
「ふふ、へんなの」

形になる途中で諦められてしまった言葉の、その先を知るのも怖くて。
私は笑って、そして何もなかったことにした。






彼から、一度目の告白を受けたのは、もう数ヶ月前のことになる。
好きだ、と言われた。
信じられなかったけれど、嬉しかった。
違う世界の人だと思っていたけれど、でも、例えば、ふとした瞬間に交わす言葉の身近さだとか。
人懐こい笑顔、飾らない声の調子、そういうのはとても好感が持てたし、それに、事あるごとに何かと私にちょっかいを仕掛けるから。
恋愛に免疫のない私が、それに期待しないわけがない。
気が付けば、もう十分に私にとって彼は他の人とは違う、気になる存在になっていたし、
そうやって意識してしまえば最後、あとは坂の頂上でつま先にぶつかった小石のように、加速度的に転がり落ちるしかなかったのだ。

だから、信じることにした。信じるしか、なかったのだ。
転がる気持ちは、恋心という着地点に、とうとう到達してしまった。
彼の中に信じられるような理由はいくら探しても見つからないけど、ただ、かけるみたいに、願う、みたいに。
今なら分かる。簡単なこと。理由は私の中にあったのだ。
信じたい、それほどに、私は。彼を、好きだったのだ。



でも、その頼りない、だけど確かな決意が崩れるのに、そう時間はかからなかった。
私のはじめての大恋愛は、予想以上に劇的な、大失恋で幕を閉じた。
やっぱり彼は、私のことなんて好きじゃなかった。
利用されていたのだ。それは巧妙に。彼得意の、鮮やかな演技で。
好きじゃなくなった、飽きたと、そんな“終わり”を迎えられたのなら、どんなに楽だろうと、彼を前に泣きながら思った。
最初から、恋愛じゃなかったのだ。
見えていた世界は全部、ホログラムの映し出す虚像だったのだ。

大失恋の直後は、こんなに涙が出るんだというほど泣いたし、
その後数日はは食べるのも話すのも億劫だったから、空っぽの時間を過ごした。
でも、一週間もすれば涙も出なくなったし、お腹が空けば食べたし、テレビを見て笑ったりもした。
静かに、日常は戻ってきた。何もなかったみたいに。
ただ一つ、以前は当たり前にたどっていた彼のいない思考回路が、ひどく寂しかった。
事あるごとに、考えてしまうのだ。
例えば、おいしいものを食べれば彼に食べさせたいと思ってしまうし、
面白い映画を見れば、彼はこれを見たらどう思うのだろうと、悲しいことを考えてしまうのだ。

悲しみの中、何度も思った。
やっぱり私は、どうしようもなく彼が好きなのだ。
それはとても辛いことだったけれど、でも、誇ろうと思った。
ホログラムの中、ただ一つ本物だった私の気持ちだけは、何があっても誇ろうと、そう、思った。



事態が3度目の急展開を迎えたのは、そんな小さな誇りを頼りに、自分を変える決心が形になったころ。
彼から、2度目の告白を受けたのだ。
今度こそ、心の底から、力いっぱい信じられなかった。
前とは違う、必死の表情で言葉を選ぶ余裕もない、まるで震えているみたいな彼の様子は気づいていたけれど。
信じられない、と、思った。もう一度、だまされるのだろうと思った。

それでも、もう一度だけ。
そう思えたのは、裏切られても、いいと思ったから。
いくつかのドアの向こう、例えば本物の世界が1つだけなのだとしても、私は彼の差し出す鍵を受け取りたかった。
本物に通じるのか分からない。それでも、開けずにはいられない。
理由は一度目と、きっとさほど変わらなかった。
私は本当に、彼が好きだった。






そして今、私はそのドアの向こう側。
真っ直ぐに向かってくる気持ちが、言葉が、行動が、前とは何もかもが違う。
空気が、色づいている。触れるもの全てに、温かさだけじゃない、時には冷たかったり熱すぎたり、生きた温度を感じる。
きっと、これが本物の世界なのだろうと思う。
間違いじゃなかったのだ。
彼から受け取った鍵は本物で、私の恋はやっと双方向に動き出した。

「その、明里、さ」
「はい」
「…何かあった?」
「何にもないですよ?」
「あー…うん、まあ、それならいんだけどさ」

伺うように、まるで少し怖がるように向けられる、彼の心配。
これも、前にはなかったこと。

なのに、どうしてなんだろう、と最近考えることがある。
それは、確信が、自信が持てた今になって、なんだか歯車が上手くかみ合わないということ。
こうして一緒にいても、目を合わせることが怖くて、言葉を交わすことが怖くて。
笑うときにきゅっと上がる口角だとか、思い出したようにぽっと出てくる柔らかな言葉尻とか、
そう言うもの全部を、好きだとか、愛おしいだとか思う前に、真っ先に。
本物だろうか、と、なぜか、疑ってしまうのだ。

(要さんは、私をどこまで、好き?)

覚えること、忘れること、難しいのはきっと、忘れることのほう。
一度覚えてしまったその感情はしつこく私の中に留まって、今。
歯車を、静かに、静かにずらしている。





「な、明里、こっち向けよ」
「え? い、いいじゃないですか」
「…見ろよ、ちゃんと」
「見てますよ、いつも」





傍にいたい、裏切られてもいいから疑いたくない、素直になりたい。
こんな風に、うわべだけ笑ってごまかすなんて、そんなのじゃなくて、泣いたり、わめいたり、怒ったり。
感情の全てを見せ合える、そういう関係になれたら、どんなに幸せだろう。

私はこうして、笑顔で逃げ道を探す。
怖くなったら、いつでも逃げられるように。
もし、彼が突然いなくなったとしても大丈夫でいられるように。





寄りかかってしまったら最後、一人で立つのはとても辛い。
彼のいない、とても殺風景な思考回路を、私は知ってしまった。
忘れることは、やっぱり至極、難しい。







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