無茶を言われたとき、めちゃくちゃに振り回されたとき。
腹が立たなかったわけじゃないし、もちろん今までに、数えきれねえほどのケンカをした。
思い通りになんてなってやらねえ。もう、あんな奴と口なんかきくもんか。
何度も何度もそんなことを考えて、でも、それでも俺たちが今、一緒にいるのは、
いつだって、例えばそれが、ほんのわずかだったとしても。いとおしさの方が、勝っていたから。
もちろん好きだ。
理由なんて分かんねえけど、どんなに横暴でわがままでも、好きだ。
だけど。
を想うのと同じような大きさで、でも全く別の大事なこともある。
俺には、諦められねえ夢がある。
【そんなん知るか】
あの日の1日オフが終わると、俺の毎日はまた、仕事と学校で埋め尽くされた。
ある日は、数時間だけ授業を受けて、そこからロケ。
また違う日は、撮影を終えてから急いで学校へ。
主役のドラマの放映が近づき宣伝告知の仕事も増えてくると、ロクに学校へは行けなくなったから、
放課後、頼み込んでなんとか都合してもらった補習の授業を受けにいくことも少なくなかった。
よく言えば、すげえ充実した毎日。
やりたいこととしておいたほうがいいこと、両手一杯に抱えて、無駄なことなんて一つもなくて。
でも、悪く言えば、余裕のない毎日。
酷いときには睡眠時間なんてあってないようなもんで、季節柄、なんとなく風邪っぽいのも痛かった。
とにかく必死だった。
一日が24時間だなんて信じられないくらい、やることは多くて、やりたいことも多くて、
目の前に次々に登場するそれらに、考えるヒマもなく飛びついては、なんとか俺のもんにしようと全力でかかった。
その日は、朝から晩まで撮影漬けの日で、学校はテストの最終日だったけど、とうとう一時間も出席できなかった。
事務所と親と、もちろん俺と。
学校に頼んで頼んで、翌日追試をしてもらうことになっていて、
だから俺は、ほんのわずかの休憩時間でさえ、バカな頭に無理やり英単語を詰め込んだりしていた。
「九神くんは大変だね」
ロケ先のテントの下。
赤いシートに隠されたアルファベットを必死に頭に思い浮かべていると、俺の隣で男の声がした。
視線だけを動かして、誰かを確認する。
コーヒー片手にそこに立っているそいつは、俺の同級生役の奴。
学園もののこのドラマは同世代の奴もそれなりにいて、こいつもその中の一人。
あまり話したことのない、正直名前もロクに覚えてねえ奴だった。
「仕事と学校、大変じゃない?」
そいつの手にある紙コップからは、白い湯気が立ち上っている。
今日は寒い。
ごくり、とその喉元が動くのを見て、ああ、俺も喉渇いたなあと思ったけど、
取りに行くのも億劫で、そのまま視線を単語帳に戻した。
「まあ、卒業するまではしょうがねーよな」となんとなく返事をする。
大変だ大変だって、嘆いてたってどうにもならねえ。
とにかく今は、単語を1個でも覚えて、試験を一発パスしねえと、ますます仕事に障んだから。
「適当に、転校でもしちゃえばいいのに。芸能活動単位にしてくれるとこだってあるだろ?」
「んー、そうなんだけどな。なんつーか、入ったからにはここで卒業したい、っつーか」
「でも、普通の奴と同じ学校通ってて、違和感ない?なんか違う、っていうか」
「は?」
「一般人と俺らって、やっぱ目指してるもん違うじゃん。俺らってせこせこ勉強する必要ってあんまりないと思わない?」
単語覚えてるっつーに、うるせえ奴だな。(俺の周りってなんでこんな奴ばっか?)
芸能科がないところに通ってんのは、俺なりのこだわりだった。
そりゃ、俺は誰とも違う、唯一の俳優になりたい。認められて、世界を相手に芝居をしてみたい。
でも、特別な人間になりたいなんて思ったことは一度だってないから、そういう偏った奴ばっかりの環境には慣れたくない。
だって、そうだろ?芝居を評価するのは観客だ。
観客は芸能人じゃない。この業界の人なんてほんの一握りで、あとはほとんど、テレビの、舞台の向こう側の人たちだ。
役者の仕事は、日常を演じること。あるいは、日常とは全く違う、夢の世界を見せること。
世間を、社会を知らなくて、どうやって観客の心を動かすんだよ。
周りに迷惑にならない限り、俺は色んな奴がいるところで生活して、色んな目線で物事を見ていたい。
ついムキんなって、顔を上げる。
そこにあったのは、この世界に入って何度も見たような表情。
業界人の顔。自分を“トクベツ”に考えている奴の顔。
なんか好かねえんだよな、大人げねえけど。
「一般人、って何?」
「え?」
「俺は自分のこと、一般人だと思ってんぜ?お前は一般人じゃねえの?」
俺の言葉に、目の前のそいつは笑う。
なんだこれ?めちゃくちゃ腹立つ。
なんで笑われなきゃなんねえんだ?
なんなんだオマエ、と、言いかけたところで、「本気で言ってるの?」と言葉を遮られた。
鼻で笑い返してやりたいのを堪えて、「…わりい、とにかく単語覚えねえとやべえから」と、今度こそ思考を勉強に戻そうとした。
した、けれど。
次の一言で、俺の堪忍袋の緒が、ぷつり、と音を立てて切れた。
「やっぱり、一般人のどうってことない子と遊園地行っちゃうような人は違うよなあ」
視界には、見慣れた電気のコード。
体の下の布団はほどよく潰れていて、慣れたはずのその感覚は、なぜか少し、懐かしかった。
この場所に、こうしてゆっくり身を沈めるのはいつぶりだろう。
3日ぶり?4日ぶり?もう一週間くらいになるか?
どれにしても、こうして考えてみると大した時間じゃねえ。
ってことはやっぱり、毎日が濃くて、時間の感覚が変わってるのか。
自分の部屋が懐かしいほど忙しかった、なんて、ちょっと前の俺じゃ考えられねえな。
バカみてえ。収録現場で、ケンカをした。
その瞬間は、覚えてない。
気がついたら俺はあいつに掴みかかってて、隣には、俺を抑えるマネージャーの鈴原がいた。
殴らなかったのがせめてもの救いなんだろう。
暴力沙汰なんて起こしたら、俺はきっと、やっとのことで取った主役も降板だ。
でも、今日の収録は中止になった。
俺が“殴られた”から。
切れた頬の内側を、舌でなぞる。
ざらざらとした感触とともに、じくり、と火であぶるような痛み。
その痛みに、さっきの苛立ちがまた、返す波のように押し寄せてくる。
腹が立った。ムカついた。
一般人?バカにすんじゃねえ。
どうってことないのは一般人じゃなくて、そういう独りよがりな“トクベツ”のほうじゃねえの?
思い出す。この世界に入って、何度も理不尽な思いをした。
中学の演劇部で芝居に興味を持って、そんなときタイミングよくスカウトされた俺は、
難しく考えることもせずこの世界に飛び込んだ。
経験も人脈もなかったし、それに加えて、事務所の歴史も浅かったから、
そもそも配役なんて決まってる形だけのオーディションとか、事務所の力で持ってきてもらえる仕事、とか。
そういうのには全く縁がなくて、チョイ役をとるのもやっとだった。
やっととった役の数少ない台詞でさえ、直前に、力のある奴の気まぐれで減らされたり変えられたりした。
でも、それは我慢できた。だって、そういう世界なんだろ?
経験を積むしかない。なんとかして、自分で基盤を作っていくしかない。
理不尽でも、筋が通ってなくても、俺が選んだ世界だ。
変えたいなら尚更、どうにかして勝ち上がっていくしかないんだ。
ただ、俺の日常は?それは全然、関係ねえだろ。
学校のことや、友達のこと。親や、兄弟。
そして、。
どうってことない、なんて、見下される覚えはねえ。
あいつらはあいつらの価値観で、あいつらの目指す生き方をしてんだ。
価値観や生き方に、上も下もねえだろ。
んな偏ったものさしで世の中図って、なにが役者だ。
髪の毛をかきむしる。
舌打ちを一つして、目を閉じた。
帰りの車の中、鈴原に言われた言葉が頭の中に響く。
――でもね、炎樹。
そう、むしゃくしゃしてるのは、あいつのことだけじゃない。
俺のいる、世界。今の俺の、立場。
――あなたはそろそろ、“普通”の生活ができなくなるわ。
芝居が好きだった。
役者になりたかった。
だから俺は、この世界に入った。
――他の仕事をする人の多くは、“商品”を売るわ。でも、あなたは、
トクベツになりたかったんじゃない。
今までの俺がいた世界を、見下すつもりなんて毛頭なかったんだ。
――あなた自身が、唯一無二の商品なのよ――
枕元に投げておいた携帯電話の音に、俺は目を開く。
画面を見ると、見慣れた文字。
今一番、見たくない名前だった。
でも、とるまで鳴り止まないことは知っていたから、仕方なしに通話ボタンに指をかけた。
「…はい」
かすれた喉元、声を押し通すと、電話の向こうからにぎやかな音が聞こえた。
『あ、炎樹?』
「…そうだけど。なんだよ」
『テスト終わったよ!』
「ふうん。よかったな」
不機嫌を音にしたような、俺の声。
こんな態度、いつもならぎゃーぎゃーわめいて怒り散らすくせに、今日は違った。
彼女の我儘や不機嫌を吹き飛ばすほど、なにか嬉しいことでもあったんだろう。
『ほんとよかったよー!あ、できは聞かないでね。でね、あのね、明日…』
聞きたくない。話すことなんてない。
本当は、分かってたんだ。
でっかいものを手に入れるには、諦めなきゃいけないもんもあるってこと。
俺はもう、学校の奴らと同じテンポで生活することなんてできなくなってきていて、
これから先、同じ時間を、同じ思い出を共有することも、きっとすごく少なくなる。
だって、そうだろ?
明らかに、大勢で盛り上がっている電話の向こう。
この空間の隔たりが、何よりの証拠じゃねえか。
トクベツなんかじゃねえけど、俺との違いは、きっと次第に大きくなる。
『炎樹、聞いてる?』
「…から」
『は?』
「明日、仕事だから。その先も。当分暇なんてねえよ」
冷たい声。
隔たりを強調するような。
はそんな俺の声に小さく息を飲んで、その後。
今までで一番、温度の高い。
熱い、熱い声を上げた。
『…ムカツク。なにそれ。要なんて、』
が好きだ。
間違いなく好きだ。
でも、諦めたくねえんだ。
俺は役者になる。絶対に。
なあ、どうすればいい?
と、夢と。
どっちも守るには、俺はどうしたらいい?
――なんとか、もみ消したけど。
この前あなたが同級生の女の子と遊園地に行ったとき、週刊誌に撮られてたのよ。
電話の向こう、震える息遣い。
俺の耳の奥に、
の声の熱さが伝わる。
『要なんて、だいっきらい!』
…なんだよそれ。また勝手なことばっかり言いやがって。
たまには、分かれよ。
たまには俺の気持ちも考えろよ。
我儘ばっかり言ってんじゃねえよ。
好きなんだよ、俺は。
こんなんでも、バカみてえにオマエが好きなんだよ。
(だいっきらい?)
そんなん、知るか。
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