本気で、叶えたい願い事が一つ。
それだけあれば、プレゼントもなんも、いらないから。
どうか、隣に。
君の隣にいるのが、オレでありますように。
【ねがいごと、叶え】
黒板を見て、ノートを見て、ため息を一つ。
大嫌いな数学。その憂鬱に、視線は大した意味もなく、行ったり来たり。
でも、それも長くは続かなくて、諦めついでにペンを小さく投げる。
窓の外には青空がきらきらと光っていて、その明るさにつられるみたいに、顔ごと視線を動かした。
ぶつかる視線。
窓と、オレとの間には、君。
日直の日の放課後を最後に、オレたちは言葉を交わしていない。
まるで席替えの前、何もなかった頃のオレたちのよう。
でも、違う。楽しかったあの日を証拠づけるみたいに、残ったものが、二つ。
鞄の中には、借りたまま、返せなくなったCDが一枚。
そして、オレの心ん中。消せない感情が、一つ。
ちゃんが、慌てたみたいにオレから視線をずらすから。
消せない感情が、ちくり、と、オレの胸を突いた。
夕日に染まった教室。
目の前にはちゃんの赤茶けた髪の毛が揺れていて、唇には柔らかな感触。
しようと思って、したことじゃなかった。
ただ、どうしようもなく、ちゃんが愛おしくて。
「姫条く…」
戸惑ったように震えたのは、オレを呼んだちゃんの声だけじゃなかった。
視線の先の前髪、掴んだ肩。そして、唇。
君は全身で震えていたのに、オレは気づけなかった。
多分それは、オレの心も、震えて、いたから。
「…ょうくん!」
押しのけられるみたいに身体を離されて、とんでもないことをしたのに初めて気がついた。
瞬きを一つ、確認するみたいにしてみたけれど、
教室を照らす夕日のオレンジも、目の前の何かに怯えたようなちゃんも、オレの身体も全部、
嘘なんかじゃなくて。夢なんかじゃ、なくて。
どうしていいか分からない、分からなかった、から。オレはなぜか、にへらっと、笑っていた。
照れたみたいに、困ったみたいに、戸惑う、みたいに。
笑って、しまった。
「…帰る」
オレから逃げるみたいに、教室を出て行った背中を追うことはできなかった。
アホみたい。震えて。顔が、てのひらが、全身が熱くなって、力がふわふわとどこかに飛んでいって。
黒板の前に置かれた教卓に掴まって、オレは腰を抜かしてしまった。
「う、わ…オレ、何して…」
気持ちがでかくなりすぎて、オレはとうとう、もてあまして。
だって、段取りくらい、知っていた。
自慢にもならない、恋愛ごっこならいっぱいしてきた。
間違わない、はじめる順番も、そこから続く、たくさんの出来事も。
「いきなりこんなん、せえへんって…そんなん、」
そんなん、頭では、よく分かってて。
なのに、なんでやろ?
頭は働かなくて、ただ、好きやって、そればっかりで。
壊してしまった。
ちょっとずつ、ちょっとずつ積み重ねてきた、笑顔。
もうきっと、このままではいられない。
お隣さん、では、いられない。
そらされた視線が痛くて、黒板に視線を戻す。
訳の分からん数式。
どっちが難しいんやろ?
目の前のこの問題を解くのと、ちゃんとまた、話せるようになること。
(どっちもどっち、やんな)
どうしたらいいか分からんことだらけで、憂鬱は体積を増していく。
どうせ悪あがきやろうけど、と、放り出したペンを持ち直したところで、チャイムが鳴った。
今年最後の、チャイムだった。
「本年の授業は、これで終了する。が、各自気を抜かず、冬期休暇中も勉学に励むように」
氷室の堅苦しい台詞と、やっぱり堅苦しい声が、「以上!」と締めくくられると、
教室内は、流れをせき止めていた敷居が外されたみたいに、どっとにぎやかになる。
なんや、オレは悪あがきさえもできへんの?
目の前には、真っ白なノート。
隣には、窓の外に視線を向けたままの君が、いた。
冬休みに入ってしまうと、まるで今までの毎日がなかったかのように、また別の日常がさらさらと流れていく。
バイト、ためていた洗濯物、久しぶりの掃除。
それをこなす合間合間、やっぱり頭から離れないのは、ちゃんのこと。
謝ろうか、それとも、何事もなかったみたいに、話しかけてみようか。
でも結局、どうしたって、空いてしまった隙間を埋めるには足りん気がして。
悶々と、三日を過ごしたときだった。
その日、世間はクリスマスイブ真っ只中で、でもオレはいつもみたいに騒いで過ごす気にはなれなくて。
人手が足りない、となげいたバイト先の店長の頼みを、むしろ喜んで引き受けた日のこと。
冷たい水に悲鳴を上げながらタオルを洗っていると、偶然葉月が灯油を買いに来た。
なんとなく泣きついてみたくなった。
どんなに些細なもんでもいい、とにかくなにか、取っ掛かりが欲しくて。
恋愛ごっこじゃない、大事な子がいるこいつなら、何か教えてくれる気がした。
「なー、葉月」
「……なんだ」
「好きでな、好きすぎてな、止められんでしたことが、好きな子を傷つけたとしたら、な?」
「ちょっと待て。お前、なにした?」
…ええやん、それはまあ。
葉月はオレの言葉に、「あんまりよくない気がするぞ」と、怪訝に眉を寄せる。
「例えば、でええんよ。傷つけたとしたら、おまえ、どうする?」
「まあ…謝る、しかないんじゃないか」
「謝る…で、許してもらえるもんかなあ?」
「だから、おまえ、なにしたんだ?それによるだろ」
「…ん」
迷って、迷って。
やっとのことで声に出す、ちゃんとオレが、“今までと同じ”でいられなくなった原因。
「キスした」
と、たった、4文字。
でもそれはとても重く、ずっしりと響く。
「キス、した。気づいたら、してた」
「…ふうん」
「なあ、謝って済むこと、かなあ?」
「どうだろうな」
「ダメか?やっぱダメか?な、葉月はどう思う?」
「…さあ。結局は、本人にしか分かんないことだ」
すがるように聞けば、いつだったか、聞いた覚えのある台詞が返ってくる。
またそれなん?と、ため息をつこうとしたら、その前に葉月の声が聞こえた。
「今日、クリスマスイブだな」
急な話の展開に、オレは思わず「は?」と素っ頓狂な声を上げる。
「…それがどうしたん?」
「パーティー、あるんだろ?学校の。行かないのか?」
「見ればわかるやろ?バイトやし」
「来るんじゃないか?」
「は?」
「」
「でも、来たからって、話せるような状況やないって、」
葉月は、笑った。
やっぱり、さすが、と思ってしまうような、とても綺麗で大人びた表情で。
「知ってるか?“クリスマスには、願い事が叶う”」
「は?」
「昔、じいさんに言われた。プレゼントなんて欲しくないって、オレが言ったら、」
“サンタクロースは、どんな願い事でも、一つだけ、叶えてくれるんだ”
「弱かった俺に、少しでも夢を見せてくれようとしたんだろうと思うけど」
「…うん」
「でも、今なら思う。信じてみるのもいいんじゃないか、って」
なんで?
聞けば、葉月は苦笑した。下らない、とでも言いたげに。
でも、目だけはとても、優しかった。
「願い事は、叶うもんじゃない。叶えるものだ。信じてきっかけがもらえるなら、それだけで十分」
「きっかけ…」
「今日だけのきっかけ。お前が欲しいの、それじゃないのか?」
足元のポリタンクが持ち上げられる。
重いはずのそれを軽々と持ち上げた葉月は、当たり前のようにオレに背中を向けた。
「葉月!」
「うん?」
振り返ったその表情は、いつもの無表情。
なんやろな、しっかりとオレんこと励ましといて、数秒たてば知らん顔。
食えない奴。腹が立つなホンマ、余裕こきやがって。勝たれへん。
「行かへんの?パーティー」
「行かない」
「来んの?おまえのお姫さん」
「野暮だな、おまえも」
一人ならストーブなんか点けない、と仏頂面が呟くから。
思わず噴出して、その後、ポケットにつめていた小さな袋を二つ、投げた。
ガソリンスタンドの粗品。今日だけのプレゼントに、ありったけの感謝をこめて。
「飴ちゃんや。メリークリスマス!」
バイトが終わると日も大分暮れていて、寒さも一段と厳しくなっていた。
白いマフラーをぐるぐる巻いて、単車にまたがる。
エンジンをふかすと、いつもの道を逆に出発した。
“サンタクロースは、どんな願い事でも、一つだけ、叶えてくれる”
本当なんやろか?
でも、葉月の言うとおり。そんなんどっちでもいい。
それが小さくても確かな、きっかけになるなら、それだけで。
葉月が教えてくれた。
逃げてたってしゃあない、ってこと。
クリスマス、なんて、自分でも安っぽい口実なのは分かっとる。
でも、なんでもいい、なんでもいいから。
どうか、隣に。
偶然なんかじゃない、今度はちゃんの意思で、オレの隣に。
謝りに行こう。でも、それよりもなによりも、伝えるために。
あの日の気持ちを、今の気持ちを、伝えて、謝って、そして今までの偶然にピリオドを。
どっちに転ぶか分からない。
でも、しゃあないやんか。
戻れへん、だって、好きなんやから。
黙って失うくらいなら、悪あがきでもなんでも、してやろうやないか。
(やから、間に合って)
会場の隅っこ、隠れるみたいに単車を止める。
ヘルメットだけ、座席にしっかりロックして、オレは走った。
走って、走って、そしてパーティーの明かりの中に入る。
たくさんの笑顔と、ごちそうと。
見知った顔に何度も呼びかけられたけど、かきわけるみたいにして、探した。
たった一人。
オレの、隣の彼女を、探した。
(おった)
会場の隅っこ、一人でぽつんと立っている、見慣れた姿に。
乱れた呼吸もそのままに、近づいて、掴む。
驚いた彼女が振り返るのと同時、オレは名前を呼んだ。
「ちゃん!」
あの日と同じ、彼女が戸惑ったように、口を動かす。
きじょうくん、と、呼ばれた名前に鼓動は早くなったけれど、もう、金縛りにはならなかった。
独りよがりじゃない。
オレの気持ちが今、君に向かって動き出す。
「好きや」
「き、じょうく…?」
「好きや。ごめん、めっちゃ好きや」
きっかけを掴む。
全ては、たった一つ。
ねがいごと、叶え。
戸惑いに揺れたちゃんの瞳を覗き込んで、決意するみたいに、ぎゅっと瞬きを一回。
目を開いた先、見えたものはこの前とは違う。
ずっと見ていた。まじめな顔、困った顔、はにかむ顔、そして、笑顔。
オレの目に映ったのは初めて見る、泣いて、そして、笑う顔。
「だって、姫条くん、笑うから」
「え?」
「笑って、そして、何にも言わないから。からかってるんだ、って」
視線を伏せたちゃんは、小さく続ける。
嬉しかったんだよ?話してみたくて、でもずっと、遠くて。
あの日、隣の席になれなかったら、きっとずっと、あのままだったんだろうなあって、
でも、嬉しかったんだ、今、こうして――
そっと、上げられた顔は、真っ赤で。
やっぱりどうしようもなくドキドキして、体が熱く、熱くなる。
「まだ、よく分からないけど、でも、こうして隣にいられるのが、嬉しいから」
「…うん」
「だから、隣にいさせて下さい」
「うん」
「お隣さんから、始めさせてください」
みんなの視線から、隠れるみたいに。
壁際に並んだオレたちの背中、ちゃんがそっと、オレの手をきゅっと握った。
「…おおきに」
偶然とは違う、自分の足で踏み出した一歩で。
今、オレたちは、ゆっくりと始まる。
青空、暖かい風。揺れる、二人分の洗濯物。
こっそりと教室の隅っこに並んでいた私たちの机は、もう、思い出の中。
「ね、まどか――って、う、うわ!だめそれ!」
「何これ?」
「…覚えてないの?」
「8、って、書いてあったけど。なに?」
「…覚えてないんだ」
気まぐれに引っ張り出した卒業アルバムの1ページ、挟まっていた小さな紙に、あなたは首をかしげて。
忘れたの?
全てのきっかけは、この小さな紙だった。
たくさんの偶然の中から、選んだ一つの席は、あなたと私を静かに繋げた。
「8、8…うーん」
悩む背中に、ちょっとムッとしたけど。
隣で見るその横顔はいつまでも変わらず私を愛してくれるから、それだけで。
笑って、取り上げる、運命のくじ。
大事に折りたたんで、またそっと、思い出の中に閉じ込める。
「私のラッキーナンバー。内緒だよ?」
いつまでも、隣に――
END
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あとがき